第58話 水族館と俺

 朝、鶏のけたたましい鳴き声と共に俺達の部屋の襖が勢いよく叩かれた。

 俺達は昨日、馬鹿話を続けて夜更かしをしたせいで寝不足だった。

 無視して惰眠を貪っていると、ついには正志さんが現れ、強引に叩き起こされた。


「水族館行くべ! 準備しろ!」


 俺達をボコボコにしてからそれだけを言うと、正志さんは引っ込んで一階へ降りていった。

 啞然としながら、仕方なくのそのそと着替えを始めた。


「……水族館、水族館?近くにあんの?山ん中だけどここ」


 ようやく回り始めた頭に浮かんだ疑問を辰也に投げかける。

 目の前にいる縞柄トランクス一丁の男は眠そうな声で答えた。


「地理的には近い」

「地理的には」

「実際行こうとするとクソ時間がかかるんだな、これが」


 まぁ、だろうなと頷いた。

 詳しいことは聞かなかった。


 朝ご飯を食べながら、色んな方向から聞こえてくる水族館の情報を聞き流す。

 正直な話、俺には場所がどうだのとか、道順がどうとか、行くのに何時間かかるだとか、魚がどうとか、イルカショーがどうとかの話題は頭にこれっぽっちも入らなかった。


 当たり前だ。

 これから水族館に行くのだ。

 かつてたどり着けずに事故に会うこととなった、水族館に。

 場所は違えど、全てのきっかけとなった水族館に。

 それも駅までは車でだ。

 こんな田舎で事故なんてあり得ないとわかってはいるのだが、俺が正志さんの車に乗ったらまた事故が起きるんじゃないかと嫌な予感がして、俺の心情は心底穏やかではなかった。


 更に言えば昨日と違って草薙夫妻も今回は同行するようで、俺だけ残るなんてことはできない。

 自分の過去に対する回答を後回しにしていたツケが今になってやってきたらしい。

 貧乏揺すりが止まらなかった。


 皆が支度をする中、俺は一足先に準備を終わらせて玄関先で自然豊かな景色を見ることにした。

 朝日が少し肌に刺さるが、見える緑は心を穏やかにさせてくれて、一人で考え事をするには丁度良かった。

 考えたのは、この夏のことだ。


 この夏は、色々あった。


 小説を書くことになった。

 日並と小説について話し合った。

 途中まで書いた小説の出来が良くなかった。

 部長とちょっとしたトラブルを起こした。

 日並と一緒に、部長と文芸部の過去を知った。

 小説を完成させた。

 部長との関係は元に戻ったけど、俺は少し拗ねた。

 日並にブルーハワイを飲ませてもらった。

 それからなんか吹っ切れた。

 懇親会をした。

 皆でテスト勉強会をした。

 夏休みに入って、日並や辰也と遊んだ。


 そして、両親のことを思い出した。

 両親の死が、俺の小説にあったことも。


 まぁ、多分。

 本当はわかっているんだ。

 ”そう”じゃないって。


 確かにあの日、両親は俺の小説を読んで水族館に行くことにした。

 水族館に行くことになった理由は、俺の小説にある。


 だけど、その道中で起きた事故は、別に俺の小説との因果関係はなにもない。

 繋がっているように見えて、繋がっていない。

 本当に、そこに関しては不幸な事故だった。


 なぜなら俺達の車と事故を起こしたトラックの運転手は、衝突前に脳卒中で既に事切れていた。

 それで急に道を逸れて、俺達の車と衝突した。

 だから本当に、あれは不幸な事故でしかなかったんだ。


 まぁ、多分、だからこそ。

 俺は小説を書いたことを後悔し、自分を責め立てたんだろう。


 だって責め立てたかった人間は、既にあの世に逝っていた。

 病院で目が覚めて、警察から事故の経緯を聞いてみたら相手の死因は急性の脳卒中だ。

 どうしろって言うんだよ、そんなの。

 事故を起こした本人も、他の誰かでさえもどうにかできるものではなかった。


 だからだ。

 だから俺は、水族館に行くこととなったそもそもの理由を、自分と小説を責めた。

 それ以外に責めるものなんかなかったんだ。


「ふぅ」


 一息吐いて、一度思考を切り替える。

 自分の身体を見ると、右足の貧乏ゆすりはまだ止まっていなかった。


 いや、貧乏ゆすりというか、これはもうただの震えだろう。

 わかってはいるんだ。


 俺は今、恐怖している。

 水族館に行くことに。

 駅までとはいえ、車でそこへ行くことに。

 死に掛けたのだから当然、とも捉えることはできるが、それ以上に、俺は確かめるのが怖かった。

 確かに、事故そのものと俺の小説の因果関係はないに等しい。

 だけど、縁起でもない話だけれども、今回また俺が水族館へと向かう車に乗って事故が起こった場合。

 また前と同じことが起きた場合。

 俺の中で、それらの因果関係は結ばれてしまう。

 道中で起きた事故が、偶然でなくなってしまう。


 本当は俺に原因があるんじゃないか、というのを確かめるのが、なによりも怖かった。


「ごめんね、待った? 皆準備できたよ」


 肩を叩かれて振り返ると、頬に人差し指が柔らかく刺さった。

 その古典的ないたずらには、覚えがあった。

 少しだけ、張っていた気が緩むのを感じた。


「……わかった、行くか」


 エンジンが掛かったトラックの荷台に、辰也、小百合、日並と順番に乗っていく。

 俺も荷台に乗ろうとしたが、やっぱり少し竦んだ。

 まだ考え途中で出発が急なもんだったから、覚悟なんか決められなかった。

 一度乗るのに失敗した俺は立ち尽くして頭を掻いた。


 だけどその時、もう一度荷台に乗ろうとすると目の前に手が差し出された。

 顔を上げると、日並が手を差し伸ばしてくれているようだった。


 彼女は何も言わなかった。

 ただただ優しげに笑みを浮かべて、俺に手を差し伸ばしてくれていた。


 俺は、少し肩を竦めて、何も言わずに日並の手を取った。

 どうしてかはわからないが、彼女が一緒ならば、安心できるような気がした。

 引き上げられた身体は軽かった。


 程なくして、俺達を乗せた軽量トラックは走り出す。

 当然の話だが、道の途中で事故が起こるようなことはなかった。


 絡まった紐が一つ、解けたような気がした。

 心情の話だ。

 荷台から降りる時に服のほつれが引っかかった上に絡まってすっ転んだ話のことではない。

 決して。

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