第29話 体験

 日並は「暑いね〜」と言いながら、何の躊躇もなく、それとなく隣に座ってきた。


 彼女はスカートを抑えた体育座りで、俺は胡坐。

 壁を背にして座る俺達は、他人から見たら青春の一ページを過ごしているように見えるかもしれない。

 だけど実際はそんな雰囲気ではなかった。

 なんだかこう、距離を測り損ねているような、久しぶりに会った友達と会話が途切れたような気まずさみたいな、そんな雰囲気が漂っていた。


 俺がずっと空を眺めて黙っていると、日並も空が気になったのか、自然と空に目を向けた。

 それを横目で見て、ふと彼女にはこの空がどう映っているかが気になった。


「なぁ」

「なに?」

「日並にはこの空がどう見える?」

「え、空?」


 俺は「うん」と頷いた。

 お互いの顔は空に向いたまま、声だけでの会話だった。


「綺麗だよ。鮮やかな青で、澄み渡っていて、あの入道雲の白がより一層青を引き立ててる」

「……そうか」


 チラリと顔を向けて日並の顔を覗いてみる。

 その表情は晴れやかなものだった。

 彼女の言う通り、その瞳から見える空は、とても綺麗なものなのだろう。


 純粋に、羨ましいと俺は思った。

 なぜなら俺は、俺には───。


「見えない」


 出てきた声は意図せず震えていた。


「そうは見えないんだよ、日並。鮮やかな青に、見えないんだ。どうしても」


 俺はもう一度、空へと目を向けた。

 当然だが、空模様は先程となにも変わらない。

 青々、と言うにはくすんで見えるし、黄ばんだように黄色ががっている。

 そしてそれは。


「小説もそうなんだ。望む夏を、爽やかに感じる夏を書いたのに、書きたいのに。俺の文は、どんよりとしていて、くすんでいて、どうしても……淀んでしまうんだ」


 今になってようやくわかった。

 俺はきっと、悲しかったんだ。

 他の皆は、日並は、聴いた曲の歌詞は、鮮やかな青を見ることができていて。

 小説の中の人物は、クラスの皆は、夏を楽しめていると言うのに。

 俺は、俺だけはそうじゃなかった。


 一人だけ仲間外れの気分。

 皆にとって当たり前のことが、自分だけ当たり前じゃない。

 それがきっと、なによりも悲しかった。


 しばらくの間、沈黙が続いた。

 少し昂って情けないところをさらけ出してしまった。

 言うんじゃなかった、と少し後悔をしていたら、急に日並が「これ持って」と言って俺に何かを渡してきた。


 手に握らされたものを見てみると、それはコップだった。

 円筒形で上縁にかけて少しカーブがかかっていている、透明な、ごく一般的な普通のコップ。

 だけど、そのコップの中には、とても”鮮やかな青”が広がっていた。

 俺は思わず目を見開いた。


 それは、透き通ったスカイブルーだった。

 鮮やかな天色をしていた。

 キラキラと太陽の光を受けて輝いている。

 まるで透き通った青い海のような。

 思い描いていた青春の色のような。


 そしてしゅわしゅわと気泡が浮き上がっていて、それが飲み物であると気が付くのに少しかかった。


「なんだ……これ?」

「ブルーハワイの炭酸割り」

「……前に言ってたやつか」

「うん。これは青く見える?」


 俺はゆっくりと、強く頷いた。


「あぁ……青いよ」

「よかった。目がおかしいわけじゃないんだね」


 失礼な奴だな、と普段なら突っ込んでいたが、俺は鮮やかに見える青に感動して何の反応もできなかった。


 日並から受け取ったを空に掲げて眺めてみる。


 くすんだような空の上に、透き通った鮮やかな青が映る。

 ブルーハワイの向こう側の空は、とても青かった。


「これが、空一杯に広がっているのか」

「私にはそう見える」

「……綺麗だな」

「でしょ」


 本当に、そう思う。

 コップの中にしかない鮮やかな青が、この視界一杯に広がっていると考えると、屋上から見える景色はさぞかし綺麗なんだろう。


 日並を見ると、いつの間にかコップを手にしていた。

 中には俺が持っているよりも少し薄い水色の液体が入っていて、それをコク、と一口飲んだ。


「うん、やっぱり美味しい。夏はこれだよ」


 日並はこちらを向いてニッと笑みを浮かべた。

 そして再び、空を見上げる。


「私もね、小説全然うまく書けなかったんだよね」

「それは意外、だな」

「だって肝心のブルーハワイの味が文字にできないんだもん」


 俺は手に持ったコップへと目を向けた。

 確かに、ブルーハワイの味はブルーハワイの味としか表現できないような味だ。

 これを文章で現そうとすると、難しいかもしれない。


「素人が小説を書こうとしても、そんなもんなんだよ。きっと。私だって、一昨日までいた先輩だって、──君だって。あ、部長は抜きね。あの人はホンモノだから」


 部長に対する感想は同感だ。

 しかしそれは慰めなのだろうか。

 少し訝しんだ。


「誰だって上手く書きたいんだ」


 日並は「だからさ」と言って立ち上がった。

 クルリ、と遠心力でスカートを広げながら、半回転。

 綺麗な仕草だった。


「また、書けばいいんじゃない?」

「私も手伝うからさ。というか私も手伝って欲しいし」

「ね。ブルーハワイの味を教えてよ」


 それを聞くと、俺の胸の奥にあったわだかまりが消えていくように思えた。


 不思議なものだ。

 俺はこんなにも、他人の言葉に影響されるような人間だっただろうか。

 それとも彼女が特別なのだろうか。


 俺は自分の口元が緩んでいるのを感じながら、ブルーハワイを一気にあおる。

 

 口いっぱいにブルーハワイの味が広がり、炭酸の痛みが喉を通り過ぎる。

 独特な甘さとスッキリとした後味が意外にも美味いな、と思いつつ、日並の言葉を反芻する。

 ブルーハワイの味、としか形容できない。

 俺は「難しいな」と笑ってしまった。

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