その原稿用紙にブルーハワイのシロップを
レスタ(スタブレ)
プロローグ
第1話 この瞳に見える空
どこまでも続く青空に、白く大きな入道雲が一つだけ静かに漂っている。
他の人達ならばきっとそんな風に、綺麗に見えるであろう景色が目の前には広がっていた。
俺はそれを学校の屋上で、影が落ちた壁を背にして、ぼんやりと眺めていた。
悲しいことに俺の瞳に綺麗な空は映らなかった。
屋上まで鳴り響くセミの鳴き声に、俺はほとほと呆れて眉をひそめる。
ジリジリと目覚まし時計がずっと鳴っているかのような騒音。
他に聞こえる音も、校庭からの体育の授業の声だったり近くの大通りを行き来する車のエンジン音だったりと雑音ばかりだ。
少しでも気を紛らわそうと、俺はイヤホンを耳に突っ込む。
スマホを操作し適当に曲を流すと、同時に屋上には強い風が吹いた。
涼しい風ではなかった。
生ぬるさと熱気が混じっていて、不快感に目を細める。
まるで熱い空気が固まりのままぶつかってきているようで、肩は力なく垂れ下がった。
あぁ、夏だ。
どうしようもないほどの夏だった。
いつも気が付いたら夏だった。
春も、秋も、冬も、いつの間にか終わっていた。
九月が始まったと思ったら十二月になっていて、十二月が始まったと思ったら四月になり、四月が始まったと思えば、また七月。
ここ数年はずっと時間間隔がおかしい。
夜に小説を読み始めたら朝になってた、なんてことはよくあることで、学校生活でなにをしていたかなんてのは大雑把にしか覚えていない。
一瞬ぼーっとしただけで授業が終わったこともあった上に、それが原因で授業内容に遅れたこともある。
まぁ、別にそれはいい。
あっと言う間に一日が終わっても、その日々の記憶が薄くても、春と秋と冬が終わるのが早くても、そんな日常だと嫌なこともすぐに忘れるし、目まぐるしく移り変わる季節や話題は見ていて面白かった。
俺はそんな日々が、気楽で好きだった。
何も考えなくていいから。
だけど、夏だ。
今、眼前に広がる夏だけは、いつも気が狂いそうな程に長かった。
どうして長いのか、自分でもわからない。
春と秋と冬の全ての体感時間を三ヶ月として、夏は夏だけで九ヶ月くらいだった。
昔はそんなことはなかった気もする。
いつからだろうか、こんなにも夏が長く感じるようになったのは。
いくら頭を悩ませても、夏の熱気が思考を塗りつぶしてゆく。
今も咽返るような空気が肌に纏わりついてきて、ちょっとでも日陰から出れば灼熱の太陽が身体から水分と体力を奪い去っていく。
流れる汗は服に染み付き、不快感をさらに高める。
セミは聞こえる曲を突き抜けるし、蚊に刺された左腕が痒い。
ずっと吹き続けている風は生ぬるくて、涼むことすらできやしない。
夏が好きだと言う奴が居たなら、小一時間ほど問い詰めたい気分だった。
耳につけているイヤホンからは、夏を青々と表現した歌詞が聞こえてくる。
夏風。飛行機雲。澄んだ空。夏祭り。田舎街。
あぁ、そうだな。
軽快なリズムと共に流れるその単語たちは、とても青々しく感じる。
青々しく、華やかで、夏を青く彩っている。
だけどそれは、その曲の中だけだ。
誇張表現に過ぎない。
俺の目に見える夏。
それは、今いる屋上も、高くそびえる空も、屋上から見える景色でさえも、全てがどこか濁ったように黄色がかって見えていた。
まるで黄ばんでいるようで、くすんで見える。
もちろん、一度は目の病気も疑った。
だけど結果は虚しく、診断は「正」から始まる二文字だった。
病気だった方がマシだった。
そっちの方が、治せる見込みがあるのだから。
現実の夏はそんなに青くなんかないのだ。
他の人達が言うような、歌詞が言うような青さはない。
サッパリもしていなければ、鮮やかでもない。
涼しくもなければ、爽やかでもない。
少なくとも、この瞳はそう言っている。
だから俺は夏が嫌いだった。
こんなにも爽やかさの欠片がない、永遠にも思える夏が。
嫌いなんだ。
物思いにふけっていると、すぐ後ろから屋上の扉が開く音と共に声が聞こえた。
「またサボリ?」
その声は知り合いのものだった。
イヤホンを外して、曲を止める。
どうして屋上にいるのがわかったんだろうか。
そもそも今は授業中だろう。
こいつもサボリか。
「部長に小説見せたら、淀んでるって」
俺は声がした方へは向かず、ぶっきらぼうに答える。
こいつも同じ文芸部だ。
こう答えれば、話は通じる。
「アハハ、やっぱり拗ねてる」
高らかな笑いに、俺は再度眉をひそめる。
別に気にしていない、とは言えなかった。
つまるところは図星だ。
「ねぇ」
壁から出ていた右肩をトントンと叩かれて、俺は振り向く。
柔らかい人差し指が頬に刺さる。
それは古典的なイタズラだったけれども、そこにはどうしてか優しさを感じた。
「──君。ブルーハワイ、飲んでみない?」
彼女は、ニシシといたずらな笑顔を浮かべてその明るい茶色のポニーテールをなびかせる。
手に握られた青いボトルは、キラリと太陽の光を反射させる。
眩しいな、と彼女を見て思う。
俺は影に隠れて、彼女は光に当てられている。
影と、光。
その一線を境に、住む世界が違うように感じるのは俺だけなのだろうか。
さて、俺はもう一度青いボトルを見やる。
そのボトルには、ラベルが貼られている。
白地の背景に、「氷」と、デカデカとした赤色の一文字。
どう見ても原液だった。
かき氷シロップだった。
そんなもんどうやって飲むんだよ、と内心突っ込みつつ、視線を空に戻してため息をつく。
どうしてこうなったんだったか。
話は多分、いつもと違ってよく記憶に残っている三か月前の春へと戻るのだろう。
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