上書き

いSK

昔話

緊急事態を知らせる警報音が鳴り響き、施設内の防火扉が次々と閉まっていく。

だが火事ではないようで、スプリンクラーの作動は今のところ無い。

当時10歳程の俺の手を引いて、あの人は排気ダクトのところまで案内してくれた。

「もうすぐ自由になれる!そしたら僕は君のお兄ちゃんになってもいいかい?」

普段はあまり笑わないあの人が、心から笑った。それだけで俺は嬉しくなった。

「もちろんだよ!」

「ありがとう、それじゃあここからの案内は任せるね」

長い間この施設に居たから、排気ダクトの配置は頭の中に入っていた。だから俺はあの人の先導役としてダクトに入った。

10メートルくらい進んで、後ろに誰の気配も無い事に気付いた俺は、体を捻ってダクトの入り口の方を見る。

そこには涙を流して笑うあの人が居て、震えながらもしっかりとした口調で言った。

「君の未来が素晴らしいものになる事を、お兄ちゃんはずっと祈ってるよ」

「待って!どこに行くの!?」

「外に出れたら裏手の焼却炉の隣から森の中に逃げ込むんだ!君なら出来る」

「お兄ちゃんも一緒に行くって言ったじゃん!」

「早く行け!」

初めて怒鳴られた。初めて怖い表情を見た。

「居たぞ!」

遠くで大人の声がして、あの人は居なくなる。裸足で走る足音は、だんだん小さくなっていった。すぐに大勢の足音、そして銃声。

混乱した俺は、排気ダクトの中で体を丸めて震えていた。



人体情報保護法。

特別な事情がある場合を除き、人間は、その身体的情報の変更及び追加を行ってはならない。


人間の性能の根幹を揺るがす遺伝子操作プログラムが確立された時代、人類の公平を保つ為に制定された法律だ。この国だけがこのプログラムの作成に成功し、すぐにこれを禁じた。

研究の背景には、非公式でのクローン人間での臨床試験などの非人道的な行為が多数あったが、国は隠蔽工作の為の手段を選ばなかったようで、表向きには何も告白される事は無かった。

これにより、各国の表立った研究開発にストップがかかり、表向きは従来のような個性を尊重し合う社会に戻ってきている。


研究機関は解体され、研究資料は破棄された。記録媒体は破砕した後焼却処分され、記録として残ったものは完全に無くなってしまった。


ところが、研究の過程で生まれた記憶力特化型の俺の頭の中には、それらの情報の全てが詰め込まれている。

研究者が興味本位でこれまでの研究とその結果、そしてその時のプログラムの内容と流れを教えてくれていたのだ。

必要な装置も環境も、俺が外に出る事は無いと安心していたからか何も隠さずに話してくれた。

「お前に話しても無駄なんだけどな」

いつもそう言って研究者は意地悪に笑っていた。


そしてこの襲撃事件が起きた。

排気ダクトに隠れていた俺は、全てが終わった後に都合良く到着した警察に保護されて、そこから孤児院に移される。

それからしばらくの事は、現実味を帯びないまま、他人の夢の中を覗くように客観的にしか覚えていない。

研究所が襲撃された事、研究材料だったクローン人間のほとんどが、救済社という組織に回収された事、抵抗した者は容赦無く殺された事。

お兄ちゃんが生きてるかどうかを確かめる手段も無く、悲観的になって過ごした。


白井フミヤ、それが新しい名前だ。今までは、試238と書かれたタグだけが俺を証明する唯一の情報だったが、語呂合わせでお兄ちゃんから呼ばれたフミヤという名前はどうしても離せなかった。

名前しか覚えていない記憶喪失の子供、そんな装いで俺、白井フミヤは人間に溶け込んだのだ。

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