救世機械マイトレーヤ
――夢を見ていた。
まどろみの中でミスラが見るのは、ヨミナガ駐屯地全体に広がっていく白銀の障壁だった。デーモンの体液と同質の物質、液化エーテルの濁流――地下施設の一角から湧きだし、重力に逆らって地上へと逆流し始めたそれは、さながら銀色の洪水である。
あちこちで基地施設の天井や壁面を損壊させ、ゾンビ兵を飲み込んで咀嚼していく銀の津波。それが押し寄せてくる中、基地施設内部の通路を駆け抜ける女が一人。
オリンピック選手すら鼻で笑える猛スピードで疾走するのは、〈火焔の魔女〉ミドウ・クレハである。たった一人でヨミナガ駐屯地の基地機能を焼き尽くし、司令部に単独潜入してミスラの居場所を突き止めた女は今、なりふり構わず全力で逃げていた。
「ああ、もう! レンのバカ、しくじったわね!?」
ついに基地施設を飛び出し、屋外に脱出したクレハが見たのは、地上のあちこちに銀色の流体が噴き出している光景だった。地下から地上に向けて吹き出している濁流は、まるで間欠泉のごとく上空百メートルほどまで噴き上がっている。
びちゃびちゃと銀の飛沫が雨のように降り注ぐ中、そのすべてを斥力場の障壁〈光の盾〉で弾いていく――これに巻き込まれたら絶対にろくなことにならない。一目でそう理解できる地獄絵図だったので、クレハは迷いなく逃亡を最優先目標にした。
銀色の洪水の表面に無数の幾何学的模様が浮かんで、光の筋を描いているのが見えた。あれがレンが話していたヤバい事象変換術であろうと判断して、クレハは銀の洪水が侵していない方角から脱出を図った。
かねてからの打ち合わせ通り、不味いことになったらとっとと逃げる。それがレンとクレハの約束であった。
――虚空子縮退術式・世界卵〈ヘヴンズ・ベル〉。
かつてキサラギ・ミオが開発した事象変換術が、百七十年の時を超えてこの世に蘇ろうとしていた。
ミドウ・クレハが基地から離脱したあとも、噴き上がる銀の洪水は止まることなく――やがて白銀は基地全体を覆い尽くし、重力に逆らって立体的な構造物を打ち立てていくことになる。
途方もない大きさの
それは世界卵/宇宙卵。
人類が数多持つこの宇宙の始まりを示す
それは
――夢を見ていた。
かつてクズル・ミスラと呼ばれていた少女の意識は、〈ヘヴンズ・ベル〉を織りなす回路の一部となって――元々の自分がどういう形であったかも忘れて、ただ虚空を漂う。
抱くように、眠るように、祈るように。
◆
眩い光の中ですべては終わっていた。
ふわり、と長い黒髪が宙を漂う。アサバ・レンは一瞬、身体にのしかかっていた重力が消えたことを悟った。
外界と完全に隔絶された異なる世界の展開――地球という大質量の天体から、地球上の万物へとのしかかる引力から、この世界卵が完全に自由になった証。
重力という相互作用から解き放たれたこの卵の内部は、完全な異空間と呼んで相違ない状態にあった。すぐに見かけの重力は戻ってきたが、おそらくこれは事象変換術によって作られた疑似重力場だ。
重力の制御という完全に人類の科学レベルを飛び越えた奇跡を、当たり前のように実現しているのだ。
見れば、視界を覆わんばかりだった白銀の液化エーテルの洪水は消えている。代わりに視界に広がっているのは、凸凹一つなく果てなく続く真っ白な無の地平だった。この空間の空には雲一つなく、怖いぐらいに澄み切った空気を汚す塵一つなかった。
光源となるものは一切見当たらないのに、どこからか淡い光が差し込んで、レンの黒いゴシック・アンド・ロリータのドレスを照らし出している。
そんな世界の果てに、異形の少女が立っている。
裸体である。
亜麻色の髪はセミロングヘアの長さ、黄金色の瞳は澄み切っていて、乳白色の肌はミルクのよう。豊満な乳房は一Gの重力に逆らって、釣り鐘型の美しい曲線を描いている。くびれた腰つきに続く臀部は骨盤から広い安産型――かつて華奢な少女だったことが嘘のように豊かな成熟した肢体だ。
そのすべてが、かつてアサバ・レンが愛した少女であることを告げていた。おそらく肉体年齢にして十八歳ほど、デーモンハンターを始めて超人化したことで加齢が極端に遅くなった年頃の姿だった。
ただ一つ、生前と異なるのは――三対六本の異形の腕。
背中から生えた二対四本の人体に存在しない腕は、まるで天使の翼のように美しい少女を彩っている。
それが、愛する弟子の身体を乗っ取って出現したことを理解しながら、それでもレンは、うめくように呟いてしまった。
「………ミオ、なのか」
「久しぶりだね、レンくん」
キサラギ・ミオの姿をしたものが、にっこりと微笑みかけてくる。
そして亜麻色の髪の少女は、我に返ったように頬を赤らめた。
「あっ、服着るの忘れてた」
次の瞬間、エーテルの物質化が行われた。コンマ数秒で繊維構造から再現された純白の法衣が、キサラギ・ミオの全身を包み込む。
ゆったりとした衣装は腰のあたりを帯で締めていて、少女のほっそりした腰つきと豊かな胸元を否応にも強調していた。その見惚れるような美しさに現実感をなくしたレンは、すぐに冷や水を浴びせかけられる。
「この子の記憶で知っているよ、あれから百七十年も経ったんだね」
その一言で我に返った。
レンは、剣杖を片手に地面を蹴った。機動術式〈光の翼〉を起動させ、エーテルのジェット噴射を推進力に変えて音速を超える。
同様のプロセスで加速した剣杖が、閃光のごとく浴びせかけられた。
一撃。
袈裟懸けの斬撃。
装甲車を紙切れのごとく引き裂き、デーモンの体組織を狂わせる悪意の結晶というべき必殺剣。
刃が触れたものを必ず殺すそれ。
ああ、だが――アサバ・レンではキサラギ・ミオは殺せない。
「無駄だよ」
刹那、極彩色の光が弾けた。
それは爆発的事象であり、同時に緻密に制御された無数の術式の同時展開だった。
人間の脳では捉えきることすら不可能な速度で、空間中のエーテルが凝縮し、物理法則をねじ曲げて斥力場の障壁を多重発生させる。
その数は三百を超えて四百に達しようか。レンの斬撃である術式破壊の効果は、その過半数を破壊して消失させたが、それだけだった。
物理的障害を容赦なく切り裂き、事象変換術による防御を術式破壊で麻痺させる致命の一撃――邪竜プルートヴェインを仕留めたそれが、容易く受け止められていた。
音速を超えた斬撃が弾かれる。
レンはおのれの肉体、特に関節部にかかった衝撃を甘んじて受け止めた。尋常の構造体ならば関節からねじ切れるような負荷がかかっていた。
だが、とうの昔に人間に準拠した強度ではないレンには問題ない。
斥力場の多重展開に巻き込まれ、女装の麗人が弾き飛ばされる。長い黒髪がぶわっと広がり、ブーツの底が地面を掠っていく。
レンはミオの姿をしたものを睨み付けた。
「単刀直入に言おう。ミスラを返せ、死者は眠っているべきだ」
「その言い方はひどいなあ、この身体の本来の使い道はわたしの方なんだよ?」
その物言いは人の心がなかったが、おそらく事実だ。
よもや百七十年も経ってから超自然的な導きに従って、偶然にもミスラの身体にミオの意識が宿っていた――などということはあるまい。
キサラギ・ミオは恋人から発せられる濃密な殺意を浴びても平然としていた。本気の必殺剣すら平然と防ぐ戦闘能力が、その泰然とした態度を裏付けている。
「ミスラちゃんには悪いことをしたと思ってる。本当なら最初からわたしとして生まれ直すはずだったんだけど……ぶっつけ本番はよくないね。術式に不備があったみたいで、この子は独自の意識に目覚めてしまった」
「ミオは俺が殺したはずだ、おまえは何だ?」
「あの日あのとき、キミは東京決戦で世界卵に乗り込み、縮退術式〈ヘヴンズ・ベル〉の中心を担っていたキサラギ・ミオの肉体を破壊した。でも彼女の思惑を完全に止めることはできなかったんだよ。砕け散った世界卵の欠片が、東京中に降り注いだようにね」
思い出す。
キサラギ・ミオとアサバ・レンの決闘は、後者が恋人にとどめを刺す形で決着した。本格的に稼働する前に制御中枢を失った物質化エーテルの塊は、発光現象と共に砕け散って東京二十三区すべてに光の雨を降らせた。
そこに生き残っていた人々は、その奇跡の流星雨を経験していて――後に彼らの多くが異能の力に目覚めた。その中には地方に落ち延びて超人として振る舞い、そのまま領主かヒーローのようになったものも数多い。
ミスラの血族、クズルもそういう〈ヘヴンズ・ベル〉の影響を受けた人間だった。
レンの顔から完全に笑みが消えた。冷たい理解が、青年の意識に刻まれていた。
「……人間に寄生して再生したのか」
亜麻色の髪の少女が、微笑みと共に頷いた。
「
自らの意識をエーテルの情報構造体に刻み込み、人間の肉体を仮の容器として潜伏し、その子孫となって転生する。
人格のAI化、情報保存媒体への複写、人間の生殖活動を利用して自身の再構築。一つ一つの事象は解体してみるとわかりやすいが、総じて本当の意味で超越的な事象だった。
事象変換術を戦闘技術や常温核融合炉などのわかりやすいテクノロジーの形でしか理解できない、レンたちの世代の人類から外れた利用方法だ。間違いなくキサラギ・ミオは桁外れの天才であり、同時にこの世にあってはならない存在だった。
「キミに〈ヘヴンズ・ベル〉を破壊されるのは想定外だったけど――わたしは予備プランも練っておくタイプだよ、レンくん」
えっへん、と胸を張ってミオが笑う。
一度殺されたことなど何とも思っていない振る舞いに、ひょっとして悲壮感を背負っていた自分の方がおかしいのかと勘違いしそうになる。
そんな彼の気持ちを読み取ったかのように、キサラギ・ミオの人格と能力を写し取ったものが語りかけてきた。
「事象変換術は役に立ったでしょう? 放射性物質に汚染された大地の除染も、常温核融合炉の実用化も、デーモンハンターの戦う術も全部叶えてくれる魔法みたいな力――わたしはこの世界を愛している。そして何より、この大地に生きる人々を守りたい」
そして唐突に、少女は歌い出す。
まるで遠い昔、星空を彩る光の物語を聞かせてくれたみたいに。
「ある種の物質は高密度状態で古典物理学で説明できない物性を示す。これをフェルミ縮退と呼ぶんだけど――エーテルも同じなんだ。高密度で物質化したエーテルは、わたしたちの世界の常識からかけ離れた振る舞いをするんだよ、レンくん」
「……おまえの残した論文なら読んだよ」
ミオを殺したあと、レンは必死にその研究資料をかき集めて読みあさり――その危険性に気づいてそれを処分した。あるいは、その行いは人類の科学技術の進歩に対する大罪なのかもしれなかったが。
レンは断言する。
間違いなくあれは、今の人類の手に余る異形のテクノロジーだ。
エーテルの収束と縮退による高次元物質アカシャ・セルの合成――その過程で起きうる破滅的事象を知りながら、キサラギ・ミオはそれを強行したのだ。
「じゃあ知ってるよね。高密度で質量を持ったエーテル――異世界に由来する縮退物質をわたしは
「――〈ヘヴンズ・ベル〉か」
「そういうこと。そして地球はたぶん、エーテルに満ちあふれている彼らの故郷よりも、縮退術式の起動にはちょうどいい環境なんだよ。大崩壊によって
「百七十年前に聞いた。その危険性もな――世界卵はエーテルを収奪する機構だ。まるで酸素を奪うように、エーテルに適応した今の世代の人類の命まで奪う」
「あくまで可能性の話。そして現状はすでに、そんな危険性なんか笑えるぐらい危機的だよ」
刀を構える。
いつでも他の構えに転じられる、真っ直ぐな青眼の構え。
ゴシック・アンド・ロリータの姿の女装ゴスロリ剣士に対して、キサラギ・ミオは困ったように小首をかしげた。
その端整な顔立ちに浮かぶのは、今の今まで後回しにしていた疑問だ。
「ところでレンくん、なんでそんなにオシャレでカワイイの?」
これから殺し合うとは思えない天然の問いかけだった。
そしてアサバ・レンは狂っているので、当然のようにこう答えた。
「俺が美少女だからだ」
沈黙が降りた。
キサラギ・ミオの再現体、虚空子演算器マイトレーヤは深々と頷いた。
「――たしかに」
そういうことになった。
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