昔の女はルール違反ですよね
ぽつり、ぽつり、と雨が降り始めていた。
黄色いレインコートを着たミスラは、自分のかいた汗でなんとも言えない熱気がこもっているレインコートに居心地の悪さを感じながら、早足で師のあとを付いていく。
優雅に雨傘を使っているレンは、やはり屋外でのデーモン駆除の帰りだというのに黒のゴスロリ姿だ。
もちろん仕事中もこの格好だった。
二人は朝から仕事であった。ヨミナガ郊外に出没したというデーモンの追跡と駆除のため、朝ご飯を食べてすぐに出張したのである。
先日、購入した電動自動車はアサバ探偵事務所の近くにある空き地に止めてある。
デーモンハンターの持ち物に手を出す盗人はいない。それが腕利きならなおさらで、周辺の住人が協力的になって見張ってくれる。こればかりは日頃からライフラインのごとく駆除を請け負っていることの恩恵だった。
諸々の維持費は頭が痛いが、車両を得たことによって行動半径が広がり、以前より割のいい仕事を受けられるようになったのはプラスである。
「…………降ってきたな」
その日、レンは微笑みを絶やさぬこの男としては珍しく――難しい顔をしていた。
此度の討伐において駆除したのは、
空間中のエーテルを利用した飛翔により、その見た目に似合わぬ俊敏な動きが特徴だ。
知能レベルは人間の幼児ぐらいはあると思われ、遊び半分で人間をいたぶり殺すのが大好きなので、見かけた時点で積極的排除が推奨される。
つまり空を飛ぶ上に数が多くて、殺害後に採取できるエーテル結晶の絶対量も少ないといううまみの少ないデーモンなのだ。
通常、ある程度、弾丸に余裕のある都市の警備隊などが出張って排除する面倒くさいデーモンである。
脅威度は少ない――というのはデーモンハンターにとっての話で、自衛用に銃器を持ち歩いている市民ぐらいは簡単に食い殺される。
そういうわけでハーピィ駆除の仕事をレンが引き受けたのは近場だったこと、そして比較的危険度が少なくミスラに経験を積ませるのにぴったりだからだろう。
ヨミナガ市内は一応、舗装されてこそいるがひび割れ、穴だらけになった路面だらけだ。なので雨が降るとすぐに道はびちゃびちゃになる。
水たまりを踏まないように、少女はそっと足を前に出す。
ショートパンツから伸びた二本のしなやかな足は黒いストッキングに包まれて、師と同じく厳めしいブーツを履いている。ストッキングは薄い布地だが、着用者の魔力を導通させることで防火・防刃繊維となる優れものだ。
虫刺されの予防にもなるのでミスラはこれを愛用していた。
抜けるように白い肌の少女は、屋外での仕事が中心のデーモンハンターとは思えぬほど日焼けと無縁だった。生来の体質によるものなのか、ミスラはどこか浮世離れした雰囲気の美しい少女であった。
そういう自分の美貌に自覚的――これはレンが「おまえは美少女だ……俺と同じく……!」と日頃から褒めまくり自己肯定感を絶やさなかったからだ――なミスラは、師に言われずとも身だしなみに気をつけている。
よく髪を梳いておくのは日課だったし、レンから誕生日にもらった櫛と手鏡は宝物だ。いずれ化粧も覚えたいと切に願う。
アサバ探偵事務所の入り口についた二人は、雨傘を畳み、レインコートを脱いで水滴を床に垂らしてしなし横に並んだ。
口を開いたのはレンの方からだった。
「今日のハーピィ討伐、見事だった。おまえが使った術式、俺が教えたものではないようだったが」
「あの術式ですか? わたしは〈光の雨〉と呼んでいます。上空から指向性散弾を高速発射するように簡単なセンサーと条件分岐を組み込んであって――師匠?」
ハーピィ相手には師の近接戦は効率が悪い。なので今日は二人で射撃術式をちまちま使って長距離戦を行い、小型デーモンの数を減らしていく予定だったのだが――ミスラの発明した〈光の雨〉により、ハーピィの大群は即死した。
巣になっていた廃ビルごと飛行する小型デーモンの群れは抹殺され、近隣住民の間に平和が戻るまで三十分とかからなかった。
まるで迫撃砲の集中砲火でも浴びせたような惨状が、人面鳥どもに速やかな死をもたらしたのである。
レンもミスラも銃器を持ち歩かないデーモンハンターだ。
これは二人が事象変換術に精通しているからだった。一度に使える魔力量(空間中のエーテルは無尽蔵だが、一定時間内に制御できる量には個人差がある)が常人離れしている上、防御術式の展開にかけては拳銃の早撃ち並みの手練れだからできる芸当である。
レンに言わせれば、自動火器はあつかいがむずかしい武装である。工業プラントで製造される弾薬を入手し、定期的に動作機構のメンテナンスを行い、使い手自身も銃の扱いに習熟しなければいけない。
頑丈な異界生物であるデーモン相手にはコストパフォーマンスが最悪に近い、というのがレンの言い分であり、事実としてミスラもそれに習って今日まで生き延びている。
それが強者の特権なのは確かだが、同時に傲慢ではないのが、デーモンハンター業界だった。
たとえレンとミスラが、デーモンハンター全体の上位数%以内に収まる超人だったとしても、事実は事実である。
「〈光の雨〉か……ふむ」
弟子の口にした術の名を聞いて、レンはますます気難しい顔になった。
ミスラが小首をかしげて師の顔を見上げると、顎をさすりながら問うてくる。
「アイデアは誰かから聞いたものか?」
「以前……思いついた術式を試してみたんですが……不味かったですか?」
「いや、素晴らしい術式だ。条件分岐で火力の投射方向とタイミングを弄れるのもいい。上手く使えば、術者と打ち上げた術式で、横方向と縦方向の同時攻撃もできる。汎用性と火力を両立した優れた攻撃術式と言えるだろう。ミスラ、ではこの術の欠点はわかるか?」
「
「その通りだ。そこまでわかっているなら、俺からこれ以上言うことはない」
うんうんとうなずいているレンはいつも通りの様子に戻っていた。
ナルシストでマイペースで、しかし面倒見がいい――そんなミスラの師匠だ。
少し安心して、ミスラは彼に助言を求めることにした。
「〈光の礫〉あたりと併用すればいいんでしょうか?」
「うん、そうだな――これからは攻撃術式の早撃ちにも習熟していくべきだろう。おまえは多少の燃費の悪さは気にせず事象変換術が使える。手数が多いに越したことはない」
「はい、わかりました師匠!」
「さて、そうなると――ミスラ、
急に訊かれてびっくりした。
レンはふふん、と得意げに笑う。
「市場に大量のエーテル結晶体が供給されたからな――この前、おまえは頑張った。ご褒美が必要だと思ってな」
「ひょっとして今、安いんですか?」
「まぁフリーの俺たちは多少、協会にふっかけられるだろうが、それでも今が買い時だ。どうだ、新調してみないか?」
「うーん……ちょっと考えさせてください」
市場にエーテル結晶体――デーモンの死骸から採取される剣杖の原材料だ――が流れた原因はもちろん、この前、レンが殺戮したデーモンの軍勢である。
一度に数百体が死亡するというのは本来、ありえないことだ。少なくとも警備隊や駐屯軍が出動しての大規模掃討戦になる。
死傷者もかなり出るだろう。
それがいきなり何の前触れもなく全滅し、死体処理業者を通じて大量にエーテル結晶体が売却されたものだから、その意味不明な状況に関係者は困惑しきっている。
大方デーモンハンター協会あたりはめぼしいデーモンハンターに当たりをつけているだろうが、人間社会に対して悪事を働いたわけではないので、レンはすっとぼけることに決めたらしい。
巷では「デーモンを殺す化け物が現れて、ヨミナガ地方の侵略を目論んだデーモンの軍勢を滅ぼした」という与太話まで流れている始末だ。
こんこんこん、と階段を登りながら――ミスラは師の背中に向けて問いを発した。
「師匠はどうして、デーモンハンター協会に属していないのですか?」
「んー……」
階段を登る足音。
斜め上にはゴシック・アンド・ロリータを着た師のスカートがあり、その中身が丸見えだ。ガーターストッキングに包まれた足は長く、その根元にあるパンツは見られても恥ずかしくないデザイン性がある。
黒装束に合わせてショーツも黒だった。
ミスラはガン見していた。
レンは引いた。
「弟子よ、おまえの視線ちょっとねっとりしてる」
「角度的に不可避でした」
「本当に問題になるからな、余所ではやるなよ本当に」
「わたしが本気なのは師匠だけです」
「そういう問題ではない」
階段を登り切る前に、二人は異変に気づいた。アサバ探偵事務所はビルの二階を貸し切ってある。デーモンハンターとしての仕事を請け負ったときは、留守になるから施錠していくのだが。
事務所のドアが開け放たれていた。何者かが不法侵入したのだ。
異常だった。
これまでレンとミスラがまるで気づけなかったこと自体、ただならぬ事態をうかがわせるものだった。
つまり不法侵入者は自身の存在痕跡を完全に秘匿できる
やっていることが支離滅裂すぎる。ドアの施錠を破って不法侵入したあと退散したわけではなさそうで、よくよく感覚を研ぎ澄ましてみるといるとわかるのだ。
レンは剣杖を抜いた。
自宅の敷地内とはいえ、街中で師が
ミスラも防御術式の準備をした。待ち伏せならばどんな攻撃が飛んできてもおかしくない。特に火焔放射の類は、燃料が皮膚に付着すればずっと燃え続ける。爆弾と並んで警戒すべき攻撃だった。
武器を手に師弟が二階の事務所に踏み込む。
「行くぞ」
レンが先頭に立ち、ミスラはそれに続いて事務所の開け放たれたドアに飛び込んだ。
見知った我が家のにおい、デスクとソファーとテーブルとが並ぶ雑然とした空間、日常の風景そのもの。
そこに女が一人、堂々と居座っていた。
行儀悪くテーブルに足をのっけてソファーに身体を沈めて、それはもうリラックスしている不法侵入者が一人――若い女だった。
そして美人だった。
灰色のくせっ毛のショートヘア、煌々と光る蛇のような
真っ赤な耐環境コートを羽織った肢体は筋肉質で、ミニスカートの下から伸びた脚には太ももまで丈のある黒のハイブーツ。
豊かな膨らみがそのブラウスの胸元を押し上げている。
結論。
猫科の肉食獣を擬人化したらこんな感じかなという風情の美女――へらへらした笑顔の侵入者は、右手にホットドッグ、左手にヨミナガ新聞を手にしてくつろいでいる。
新聞から顔をあげて、女がこちらを見た。
「久しぶりねレ……………………」
空白。
完全なる沈黙の時間。
一呼吸おいて、目を見開いた不法侵入者は呟いた。
「…………あんた仕事中もその格好なの?」
今さら過ぎて誰も突っ込まないことだった。
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