輪廻
――ミスラ、お前は特別な子だ。
――その命をみんなのために捧げなさい。
――それが私たちの一族の契約なのだから。
物心ついたときから、少女にとって家族は牢獄の名前だった。
広々とした屋敷、大勢の使用人、一族を崇める信徒たち。
確かに愛されていた。
確かに必要とされていた。
確かに家族として遇されていた。
いつか民に捧げられる巫女姫として、大切に大切に育てられてきた。
この末法の世において、戦う術を持たない人々を守護し、異能の力で繁栄する一族――そういう血統に生まれついてしまった以上、すべては仕方がないことなのだと納得していた。
その血の運命は実に単純明快だ。
――デーモンと戦って、その命が尽きるまでお役目を全うすること。
その対価として彼女の一族は繁栄していたし、一族の血を繋ぐ役割は別の姉妹が受け持つ。
ミスラに求められるのは、生まれつきの優れた異能の力を使って、できるだけ長く生き延びてデーモンと死ぬまで戦うこと。
今はまだ修行の身だが、少女は生まれながらにそういう生き様と死に様を約束された存在だった。一族の男も女も、そういう循環の中で生きて死ぬ。それがミスラにとっての当たり前であった。
デーモンは恐ろしい存在だ。そして誰しもに自力救済ができるほど、人はデーモンに対して強くない。
異能の力を持って生まれた一族は、そういう世の中にあって、一族の犠牲を礎にして自らを特権階級にしていった。
そしてミスラが九歳になった年。
忌まわしい嵐がやって来た。
身体の芯まで凍えてしまうような真冬。
晴れ渡った空の下、鳴り止まぬ銃声がすべてを終わらせた。
父も、母も、兄も、姉も、誰一人として生き延びることができなかった殺戮の嵐。重機関銃がうなり声を上げて逃げ惑う人々を引き裂き、血に酔った兵士たちが暴虐の限りを尽くしたあの日。
大勢の人が殺された。
ミスラが守るべきだった人々も、ミスラの家族だった人々も、平等に銃弾の餌食となって散っていった。
屋敷に火の手が回って、大切に大切に屋敷の奥で囲われていた少女もまた、家族のあとを追うかと思われたときだった。
あの人はやって来た。
黒い長髪。産毛一つないなめらかな肌。この世のものとは思えぬ美を携えて。
死神めいた黒衣の青年は、優しく少女に手を差し伸べた。
「――おまえを助けに来た」
身も心も焼き尽くされるような恋をした。
これが運命でないはずがない。
そう思った。
◆
そして今。
夕闇に沈んでいく農業プラントの敷地内で、ミスラは一人、育苗工場――平地に立てられた巨大なバイオプラントだ――の入り口に陣取り、ナイフ型の
黄昏の空の下、薄暗い闇の中を無数の影が跳ね回って襲い来る。獣のうなり声、戦鬼どもの哄笑、爆ぜる銃火の音。
飛来した銃弾を防御術式〈光の盾〉で弾き、発射方向に向けて攻撃術式〈光の杭〉を撃ち放つ。
ぎゃいん、と獣の悲鳴。
ワーグに当たったか。
だが、仕留めきれていない。銀色の液化エーテルがまき散らされ、夕闇の中でキラキラと輝いている。
その光を目印にして第二射。
胴体をぶち抜かれたワーグが地面に倒れ伏し、騎乗していたオーク騎兵が宙に投げ出される。
さらにその頭部を〈光の杭〉で撃ち抜く。
これで十八体。
ミスラは目を細め、その奥の青い瞳で敵を視認する。
すでに九騎のオーク騎兵とその乗狼ワーグ、つまり十八体のデーモンを攻撃魔法で射殺した。
キルレシオはこちらが圧倒的に有利と言っていい。
巨大な狼にまたがったオーク騎兵は、四つ足の
つまりどういうことかというと、騎乗しているオークの側だけを倒してもダメで、しっかりワーグの方も撃ち殺さなければいけない。ワーグはオルトロスと異なり魔法を使ってこないが、雄牛のようなサイズの狼というだけで人間には脅威だ。
そして馬よりよほど戦意旺盛――というより人間への敵意に満ちている。
工場の門を背にしている分、背面の警戒をしなくていいのが救いだが、ミスラは一対多数の戦闘を強いられていた。
ミスラが外に出てきたのは、オーク騎兵の気配がしたからだ。
この工場は頑丈な建屋だが、それでも複数のオーク兵が武器を振るえば表門の施錠などすぐ破られてしまうのはわかった。
迎撃に出るのは必然だった。
『ウォロロロロ!!!』
オーク騎兵が尽きる様子はない。山の方から次々と降りてくる彼らは、ミスラの戦力評価を終えたらしく、斜面を駆け下りて一斉に突撃してくる。
騎兵銃ではなく腰に穿いた刀を抜き放って、オーク騎兵が三十騎、横に広がってこちらへ押し寄せてくる。
ミスラは生来、常人離れしたエーテルの蓄積容量を持っている。
つまり燃料切れにはなりにくい体質だ。
だが、こうも多くの敵を一度に殲滅する
レンに引き取られてから五年、それなりに厳しく育てられてきた自覚はあるが――そもそも、十四歳の子供に習得できる術式の数には限りがあるのだ。
そして師が弟子に優先して習得させたのは、〈光の盾〉をはじめとする防御術式の即応起動だった。
弟子の生存確率を優先した教えは、レンの優しさだ。
しかし今、それゆえの攻撃手段の乏しさが命取りになっていた。
ミスラは攻撃術式〈光の杭〉――貫通力に優れるが連射性には乏しい――を撃ち放つ。
だが、いい加減に種も割れているらしい。
人間のデーモンハンターとしては規格外の強さのミスラも、制圧力に乏しい砲台のようなものだとバレてしまえば、オーク騎兵たちに対処できる存在だった。
〈光の杭〉が軍刀で切り払われる。
次弾を発射する暇はなかった。横方向に広がったオーク騎兵が、醜悪な狼型デーモンと騎乗するオーク兵が、ミスラを八つ裂きにしようと迫り来る。
ミスラは迷わず移動のための術式を起動させた。
機動術式〈光の翼〉――空間中のエーテルを取り込み、ジェット噴射のようにして背中から放出する。ジャケットを羽織った少女はまるで、翼を得たかのように宙を舞った。
突撃してくるオーク騎兵の頭上を、少女が飛び越える。
突然の獲物の三次元的な跳躍に対応しかねて、オーク騎兵たちの反応が遅れる。このために今まで伏せていた攻撃術式〈光の礫〉を、オーク騎兵の頭上から発射する。
物質化エーテルの質量弾を散弾として発射する攻撃術式。
着弾、着弾、着弾。
通常の術式よりも高出力なミスラの〈光の礫〉は、文字通り必殺の一撃だった。
甲冑ごと穴だらけになったオーク騎兵が五騎、ボロクズのようになって脱落した。
だが、ミスラに切れる手札はここまでだった。
「ぐぅう、はぁああ……」
着地した瞬間、これまでの疲労が噴き出たように錯覚した。
すぐに立て直したが、それは相手も同じだった。先頭集団を殺戮されたオーク騎兵、二十数騎が、反転してこちらへ迫ってくる。
不味い。
次の手立てを考えなければ。
防御術式はダメだ。雄牛ほどもあるワーグの体当たりを押しとどめられる強度はないし、斥力障壁は相手側の事象変換術で中和されるだろう。
だが、一度見せた〈光の翼〉による跳躍はもう出せない。
敵のいくらかは騎兵銃を構えて、こちらを撃ち落とす準備をしている。
どうする、どうする、どうする。
頭が真っ白になる。
少女を惨殺しようと接近してくるオーク騎兵の息づかいが、手に取るようにわかった。
自分に近接戦の才能はない。師であるレンのように剣を振るってオークを蹂躙できる技量はない。
ああ、自分は死ぬのだと納得しかけた刹那。
どくん、と心臓が脈打った。
誰かの声を聞く。
若い女の声。
――まだ、わたしを殺せると思ってるんだね、レンくん。
焦がれて、焦がれて、焦がれて――何もかもを飲み込むような激しい愛情を感じた。
その瞬間、脳裏をよぎったのはまったく未知の攻撃術式の実行プロセスだ。
今から十分に実行可能なシンプルで美しい構造体。
――射角計算、散布範囲を決定。
――広域殲滅魔法〈光の雨〉。
左手で逆手に予備の
瞬間、ミスラは上空に向けて条件分岐する
それは一見すると照明弾のようにも見える光り輝く直径一メートルほどの球体だ。
オーク騎兵たちの突撃は止まらない。
数秒後、ミスラの身体はズタズタに引き裂かれてワーグの餌になるだろう。
ああ、けれど哀れなことに。
――死ぬのは彼らの方だった。
頭上に打ち上げられたエーテルの発光球体は、規定の高度に達した時点で定められたとおりに分裂。
そして自由落下速度をはるかに凌駕する爆発的加速を付与し、銃弾の雨を降らせた。
光輝の雫が降り注ぐ。
それは光の豪雨。
触れたものすべてを穿ち、肉を引き裂き、骨を砕く銃火のスコールだ。
オーク騎兵二十数騎は、もうもうと上がる土煙の中で絶命し、原形を留めぬ肉塊になって散華した。
空間中のエーテルを物質化させた銃弾の雨は、正確にオーク騎兵の展開していた空間だけを打ち砕いていた。生体コンクリートで舗装された工場前の敷地は、オーク騎兵だった肉塊と穴だらけになった地面でぐちゃぐちゃになっていたけれど。
まるで精密誘導兵器でも使ったかのように、工場の屋根には穴一つ開いてない。
死んだデーモンの発する崩壊光を浴びて、身体に力が満ちていくのを感じながら――ミスラはふらふらと頼りなく数歩、前に進んで。
いつしか砲声も銃声も聞こえなくなっていることに気づいた。
もう何十分、何時間戦ったのだろう。
わからない。
今度こそ本物の限界が来た。
地面に尻からへたり込む。
遠のく意識の中、ミスラは誰かの声を聞いた。
遠い昔、誰かが聞いたのであろう言葉の残響を。
――俺は、間違えたのか?
◆
――ガタンガタン、と揺れる音。
目が覚めると、少女は車中の人だった。
窓の外には一面の緑が広がっている。
空は東から昇った朝日で薄く朝日が差し込み始めている。
馬鹿でかい虫が、びっくりして車の窓ガラスに突っ込んできていた。
こつんこつん、と窓を叩く音。
昔、師が与えてくれた図鑑で読んだことがある。
アブというやつだろう。
中々、ヨミナガ市の近隣ではお目にかかれない光景だ。
意識がまだぼんやりしているミスラは、しばらく外を眺めていた。
雑草に埋もれたような道を、四輪駆動の電動車両が走っている。寂れてボロボロになった家屋の残骸らしきものが、草に覆われた道沿いに点在している。
何の歯止めも利かずにあちこちで熱核兵器が飛び交い、
その光景はきっと醜悪で愚劣で貪欲だったろう。
そしてそれでもなお、人類とその文明は滅ばなかった。
自らが血まみれの獣であったことを思いだしたとしても、人間はその営為を図太く続けていった。
生い茂った雑草だらけの古い国道の成れの果ては、修繕する人間がいなくなったからひび割れて穴だらけのアスファルトに覆われていた。
それは人間が文明によって征服した世界が、再び獰猛な自然によって侵食されている証だ。
だが、生まれたときから荒れ果てた世界しか知らない少女にとって、それはありふれた当たり前の景色だった。
同じ景色を見ても、生きてきた時間の長さが異なる人間同士がわかり合うことはできない。風景の変化から文明の衰退や必衰の理を見いだすのは、年経た人間が現実を受け入れるためにひねり出した理屈だ。
どれだけ無残な歴史を経た世界だとしても、生まれたときからそうだった若者にはそれが当たり前だ。
そしてミスラは察していた。
きっと師であるレンが歩いてきた道のりは、彼女には想像つかないほど長く過酷なものだったのだろう、と。
その事実がもどかしかった。
身じろぎすると、電動車両の運転席でハンドルを握っていた師匠が声をかけてきた。
「起きたか、ミスラ。痛むところはないか?」
「あ、いえ…………あの、わたしはどれくらい意識を失っていたのでしょう」
「一晩経った。安心しろ、もうすぐヨミナガに帰れる」
あまりに自然に自分が自動車の助手席にいたので、違和感に気づくのに遅れた。
レンとミスラは、あの村へ行くとき依頼人カナの持ち出したトラックに乗って移動した。なので自前の移動手段はないし、徒歩で帰還する場合は数日間は歩き通しになっただろう。
なので当然のように帰路は車に乗っているのはおかしい。
「ちょっと待ってください、師匠。この車はどうしたんですか?」
「買った。依頼料込みで値引きしてもらってな、まあ安くはないが悪くない買い物――」
「そんな持ち合わせあったんですか?」
「デーモンの死骸があったろう。良質なエーテル結晶体が採取できてな、なんとかなった。こちらの方で信頼できる業者を紹介したからな、割引価格だ」
エーテル結晶体はデーモンの死骸から採取できる魔術資源の一種だ。
肉が腐敗せず、代わりに時間経過と共に溶けるように消え失せるデーモンの死骸の中にあって、その一部を構成するエーテル結晶体は残留することがある。
デーモンハンターが用いる
戦渦に巻き込まれた農場の収穫物は、少なくとも今年分はダメになったかもしれないが――大量のデーモンが残した結晶体を売却すれば、彼らが飢えることはあるまい。
損傷した施設の修理もなんとかなるかもしれない。
そう聞いてミスラは安心した。
故郷が滅んで流浪の民になれば、長く苦しい生活が待っている。あの農業プラントの住人が生活を再建できるならそれに越したことはなかった。
一つわからなかったのは、どうして師が一晩、危険な夜道を走ってまで移動したのかということだ。
数百体のデーモンを殲滅したという事実そのものが、師弟を悪目立ちさせるのを恐れているのだろうか。
自身もその若さと比して卓越した術者であるミスラは、レンが行った一方的戦闘――否、殺戮がどれほど異常か正確に認識できていなかった。
前を見たまま、レンが口を開いた。
「…………すまなかった、俺の判断ミスだ。おまえに命がけの選択を強いてしまった」
何を言うかと思えば、師はミスラが倒れたことを気に病んでいるようだった。
確かに師は判断ミスを犯したのだろう。自分が強すぎるから、弟子にできる範囲の無茶の限度を見誤ったのだ。
あれほど死を意識して、神秘体験紛いの妙な声まで聞いた――詳細は忘れてしまったけど――わりに、終わってみれば少女はけろっとしている。
ボブカットの黒髪を助手席のシートに押しつけて、ミスラはフロントミラーに目を向けた。前を向いて運転に集中しているそぶりの師匠は、しばらく口を閉じていたけれど。
やがてこう言った。
「おまえは、自身の命とみんなの命、両方を守った。最も困難な闘いを成し遂げたんだ……よくやった、ミスラ」
その褒め方が不器用すぎて、ミスラは微笑んだ。
目を閉じる。
今のレンからは呼吸音がほとんどしない。それは彼の肉体が、もう肺から酸素を取り込む必要がないほど逸脱しているからなのかもしれない。
緊張からか常人のふりをやめている師匠のことを、ミスラは愛おしく思った。
そして少女は、歌うように慕情を口にする。
「命を賭けるのも、その結果として死んでいくのも――わたしにとっては避けようがない当たり前でした」
それは五年前、あの寒空の下で死んでいくはずだった少女の嘘偽らざる本音だ。
ミスラは口の端をつり上げて、にっこりと笑った。
それは見惚れるような可憐な笑顔だった。
「――知っていますか、師匠。わたしに何かを選んで生きる余地をくれたのは、あなたなんですよ」
一瞬、レンは目を見開いて、すぐにいつも通りの
呟きはただ一言。
「そうか」
「そうなんです」
気づけばレンの呼吸音は平常通りになっていた。嘘だらけで普通の人間のふりが下手くそな、いつも通りの師匠だった。
伝わる親愛と、伝わらぬ恋情を隣り合わせにして。
師弟の時間は過ぎていく。
――夢のように。
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