第14話 時代背景解説〜巫蠱の獄〜

 歴史に残る大冤罪事件「巫蠱の獄」のきっかけはちょっとしたボタンのかけ違いから始まった。最終的にジェノサイドを引き起こした江充を到底擁護することはできないが、槍vs砲台やりたい放題の支配階級に対して警鐘を鳴らしたという意味において、庶民にとっては功罪半ばとも評価する事はできる。


 巫蠱の獄なしに順当に劉病已が位を継いだとしたら政府としての腐敗を見直すこともなく、漢は武帝のあとそのまま衰退し、歴史の藻屑と消えたはずだ。


 2100年という時間が経っているにも関わらず、因果関係の骨格がシンプルに変わることなく明確に語り継がれている。これはその因果関係のストーリーの骨格の強さ、人類の支配関係の歴史に流れる通奏低音としていつの時代でも見慣れた光景であるからだ。


 しかし支配階級にとっては山上徹也と並んでその歴史的事実そのものを消し去りたいほどの悪夢でもある。だからあまり触れられないし、巫蠱の獄に関する格言や諺は無い。


 巫蠱の獄の話の骨格はこうだ。江充はもともとカルトとかでなくまともな裁判官のような仕事をしていたが、ある時時の皇太子の不正を公正に裁いてしまう。その判決を忖度なき公正な判決であると時の皇帝(武帝)が高く評価。


 もともと人が死ぬような重い罪でも重い罰でもなかったようだが、プライドが高くケチをつけられた皇太子は不服で、今の武帝亡きあと次に皇帝になるのは誰だと思ってる?その時はお灸据えてやると江充を脅迫。


 しくじりに気付き、武帝も体調不良で余命カウントダウンに入り追い詰められた江充はダメ元で皇太子を亡き者にすることを計画。皇太子被害者の会を結成し、匈奴からきた当時流行ってた恋愛成就のおまじないをそれは武帝を呪うものであるから禁止としたうえで皇太子の取り巻き一人一人冤罪をセットアップして処刑していった。


 本当は武帝亡き後の話をしたことで皇太子本人は潰せるはずだったのだが、将を射んと欲すれば先ず馬を射よということで、擁護しそうな取り巻きから潰していった。とんだとばっちりだが、このとき生命をつなぐために宦官になった者が大量発生。


 そして、逆に追い詰められた皇太子が江充を潰すために挙兵し宮殿を襲撃。なおその襲撃により江充本人は戦死してる。しかし、どんな事情があるにせよ飛び道具による流れ弾が天子を捕らえる危険のある宮殿への襲撃はアウト。事前に取り巻きから潰されていた皇太子を擁護するものは一人もいなかった。


 そして皇太子一族郎党死刑判決が出る。その理由付けには既に法廷を乗っ取っていた皇太子被害者の会の十八番、巫蠱の術をやっていたからというのをコピーして名前だけ書いて死刑判決を量産した。そこにまだ穴を掘るどころか自分の排泄さえ自分の意志で御せない赤ん坊が含まれていたことで雑な仕事がバレて、今度は皇太子被害者の会が、巫蠱の禍被害者の会によって粛清されたというストーリーだ。

 皇太子への有罪判決から中央省庁を片っ端から巻き込み犠牲者を出し、江充が戦死するまで1年もかからなかったが、犠牲者が出たことで禍根を残し、それぞれの残党が残り勝手なことをしていたため政府への不信感が広がった。


 話者によってそれぞれの罪状の大きさが異なるが話の骨格は変わらない。ショボい犯罪とショボい判決のきっかけから支配階層のプライドと出世競争での優位を求める欲望を巻き込み火が燃え上がり、窮鼠猫を噛み、窮鼠もまた猫に食い殺されつつ火は取り巻き含めて大虐殺の応酬と発展したということだ。


 ここには主に支配階層に向けて耳の痛いくつかの教訓が含まれている。すなわち、


・仕える主の暴走は防ごう(巻き添え食らうぞ)→地盤基盤の相対化。主は主として配下を守るためにも無意味に敵を作ってはならない、また臣下も主が暴走するなら見切りをつけないといけない→やりたい放題出来ない。


・あまり相手を追い詰めると窮鼠猫を噛む


・システムの内部を知る人間のセットアップは影響力甚大(競合相手を蹴落としたいという出世欲を利用して燃え上がらせた)


・間違えたら取り返しがつかない死刑はとりあえず廃止するしかない


槍vs砲台やりたい放題でも一本の槍が砲台の司令官をひと突きに出来る事も(まれに)ある。そのように皇太子と江充は刺し違えだ。


・官僚の雑な仕事はそこを起点にひっくり返される。


 この教訓が記憶に新しく、本人が事件の当事者でもあった宣帝は、君主とは何を目的としてどうあるべきなのかを徹底的に研究し、自らあるべき君主として目的のためには手段を選ばず君主としての利益を最大化する言動を通したことで国は発展繁栄し、空前絶後の繁栄をもたらした名君として歴史に名を刻んだ。


 少年時代に庶民として身を落としていたこともあり、庶民の生活に精通していた。


 庶民の生活におけるどちらでも良いが公式の参考が必要なもの――例えば右側通行なのか左側通行なのか重量、距離の単位系といったこと――に対して政府公式見解を示すこと、自然発生することはないが誰かがひとつ用意すると広範囲に生活が豊かになる共通インフラを政府が用意するといった、政府は庶民の生活のためにあるという存在理由を明確に打ち出す。


 それ以前の政府というのはヘゲモニー争奪戦の勝者が集まって錦の御旗を振りかざして敗者から略奪するだけの単なる暴力装置であったのが、このとき近代国家が爆誕した。今でも極東のどこかの島国には利権争奪戦の暴力装置でしかなく2000年前の前漢に遥か遠く及ばない野蛮な政府があるようだが……。

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