第17話 準決勝第一回戦

 その電車内では迷惑な顔をされていたと思う。

 汗臭くてデカイ連中がショルダーバッグを担いで大勢乗っていたのだから。制服着用を義務付けられていたって、どうしたって、その体格の良さと色黒さは車内で際立っていた。他に同じような連中を探そうと思ったら、ラグビー部くらいじゃないか? しかも俺たちは、今考えればマナーがなっていないのだけど、車内にも関わらず大声で会話をしていた。それはその時の試合の内容だったと思う。

 誰かが言った。


「あのOLスゲェよ。ケツとかブリッブリだぜ、ブリッブリ!」


 その瞬間に、ある一団からの視線が異常に冷たかった。


「いや、あいつは胸も腕もスゲー。ハンパねーよ! ブリッブリだ、ブリッブリ!」


 更に視線が冷たくなった。

 それに気づいていたのは部員でも俺だけだったと思う。

 何故、そんなに冷たい視線に晒されなければいけないのか?

 ジッと考えていて――そこでふと俺は気付いたのだ。

 その視線を向けている連中がいわゆるオフィスレディ――OLであることに!

 自分たちが言われていると思ったのだろう。あからさまに侮蔑の視線を向けられていた。


 違うのに!

 俺たちの言っているOLは『オフェンスライン』なのに!


 俺は愕然とした。この日本の現状に!

 その程度の知識さえも――アメフトが浸透していない現実に!


「SEは、システム・エンジニアじゃねぇ! スプリット・エンドだ! そんなんで、本当に、良いのか? いや、良くない! だから、俺は、日本の、将来を、憂い、教職に、就くことを、選択、したんだ……」


 その語りを聞き終えて、教室内には静寂が舞い降りていた。

 その理由は大きく分けて二つに分類されていた。

 そんなことで人生決めて良いの? とあまりに下らない動機に絶句する者。

 そして、そんな理由で教育を受けさせられている自分たちの将来を憂いている者。義務教育の存在意義レゾンデートルに思いを馳せる者まで出る始末だった。


「……なるほど、それは大した理由だぜ!」


 どこかに感銘する部分のあった『番長』黒埼を除いて、教室内ではほぼ総員が同じ意見だった。

 それはすなわち、


 ヤバイ……コイツ……だ!


「教職、以外、だったら、政治家も、良いかな、と、思ったん、だがな」

「そっちの方が良かったかもしれません。日本のために」どうせ落選だし。

「クックック。どうだ? 驚いて、何も、言えまい」

「驚いていますけど、多分、あなたの意図とは違った理由です」


 市川が丁寧なツッコミを入れた。彼の表情にも疲れが見える。

 それにしても勝負が付かない。


「先生、いい加減勝負決めましょうよ。いつまでいじめているんです?」


 もう開き直って、覆面マンとさえ呼ばなくなった市川が言った。


「ああ、そろそろ、終わる」

「そうですか」

「俺の、負け、みたい、だな」


 いつの間にか、覆面マンの声が震えていた。


「え?」


 その状況は誰にも知られない間に変化していた。

 余裕を見せていたはずの覆面マンは声どころか――全身が震えている。

 汗で体がテカテカとし、歯を食いしばって、浅い呼吸で耐えている。

 そして、先ほどまで俯き、耐えるだけだった南口が顔を上げていた。

 確かに、彼も汗をダラダラと流し、苦しそうな表情ではあったが――それ以上にどこか悲しそうな表情だった。

 観客の声が失われる。

 声援さえも無粋な不純物とばかりに、皆がその信じられない光景を注視する。

 ただ、そこにただ一人南口が口を開いた。


「先生……そろそろ終わります」

「ああ」


 そして、覆面マンはどこか達観した声で言った。


「教師の、一番の、喜びで、一番の、悲しみは――教え子に、簡単に、抜かれること、かもな」


 なぁ、天才――と、その言葉に何だか重いものでも受け取ったように南口の顔が歪んだ。


「……ぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 南口が振り切るように叫ぶ。


「ぐ、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 最後の力を振り絞って覆面マンが抵抗するが、南口も負けじと力み、力み、力む。

 そして、そのまま覆面マンの右手が教卓を叩いていた。


 決着。

 勝者――『最強』南口田尾。


 その結果は本来であったなら、もうとっくについていた。

 一対一の一発勝負だったらおそらく軍配は覆面マンに上がっていただろう。だが、それはこのトーナメントルールでは適用されない。

 前の試合で消耗した――更には試合前のゴタゴタを含めても構わない――覆面マンはスタミナが切れていた。

 覆面マンは白筋の量が異常に多く、故にスタミナに問題があった。一度完全に切れてしまったスタミナは充分な休養でしか回復しない。

 覆面マンは黒埼の勝負で遊びすぎた。

 それだけ黒埼が魅力的な素材だったと言うことだが、だから、南口は最初の間だけ耐えてしまえば、スタミナの切れた覆面マンに勝てた――それだけの話である。


 試合後の話、覆面マンは勝者の『最強』に語りかける。


「なぁ、南口。俺の正体は君たちが尊敬する武藤先生だ」

「……はい」


 少しだけ間が空いたが、南口はちゃんと頷いた。

 目は泳いでいたが、彼は頑張って知らないフリをした。

 覆面マンは南口の挙動不審を気にもせず、真摯に語りかける。


「一度で良いんだ。アメフトやってみないか? なんだったら金銭的な援助もしてやる。面白いぞ。それにお前には才能がある」

「……僕、荒っぽいこととか苦手なんですけど」

「いいや、お前は向いている。真面目で優しい奴だからな」

「……?」

「真面目で優しい奴はな、手が抜けないんだよ。丁寧に潰すんだよ」


 今みたいにな、と。

 結局、覆面マンは覆面を取らずに去って行った。

 上半身裸で。レスラーパンツで。汗だくで。鼻息荒く。

 その黒光りする筋肉質で毛むくじゃらな姿――廊下ですれ違う女子生徒に本気の悲鳴を上げられている。

 とても惹かれるものはなかったが、あそこまでやられると、


「……一度くらい見学行くしかないかなぁ」


 南口はため息を吐きながらそう呟いた。


 それが『最強』南口がアメリカンフットボールプレイヤーになる第一歩だった。

 将来、日本史上最高のセーフティと呼ばれ、NFLにてスターターを獲得することになる南口田尾がアメフトを始めた理由なんて、そんな程度のものだった。


     三


「んじゃ、今回の罰ゲームは――」


 と言いかけた市川だったが、本当に良いのだろうかという空気が流れた。

 相手は『一応』とはいえ教師である。

 それに覆面マンはもう教室を出て行ったのだ。わざわざ追いかけて呼び戻す必要もないのではないか。このまま見て見ぬふりでも構わないのではないか、という穏当な意見が大勢を占めていた。そういう流れになっていた。

 だが、その時、どこか遠くで悲鳴が上がった。

 ホラー映画的というか「ぎゃー、バケモノー!」的な悲鳴である。

 そして、その悲鳴の発生源は徐々に近寄ってきた。ホラー映画はホラー映画でも、ゴシック系の演出である。


「……すごく嫌な予感がするんだけど」


 とは元宮の言であるが、うんうんと周囲の人間も同意した。皆が顔色を失い青ざめている。


 そして、

 ガラガラと大きな音を立て、

 扉を開け放ち、


 恐怖が侵入してきた!


 それを克明に描写することは心理的に抵抗がある。

 だが、一言で済ませられるなら「ナースが現れた!」である。

 そのナースは地獄のナースだったがな!

 ムッチムチの体にきつきつの制服に身を包んだ『謎の男』っつーかもういいだろお前は本当に教師かいや狂死だ武藤児輔覆面にナースってどんな新時代だ意味分からん這い寄る混沌キタアアこの野郎莫迦だろ絶対セクハラよ警察を呼べ司法に委ねろ死刑だわ!

 という悲鳴混じりの罵声が飛び交う。

 嫌な予感に備えていた者たちもあまりの気持ち悪さに耐え切れない。多くの生徒たちがまるで沈没を予知したねずみのように教室から逃げ出そうと必死になっていた。

 それらの阿鼻叫喚を尻目に仁王立ちしながら『謎の男』こと武藤ティーチャーは不敵に笑う。


「ふっふっふ、どうだ市川?」

「どうだって、大バカ野郎ですよね! むしろ、どういう意見を期待しているか教えてくださいよ! つか、せっかく、罰ゲームは免除しようかと思っていたのに!」

「何を言うか! 約束は徹底せねば、教師としての威厳は守れん」

「もうそんなものねぇから! むしろ、圧倒的マイナスだから! つか、どこから持って来たんですか、その制服は!? 俺たち誰もそんなリーサル・ウェポン用意してねぇんですけど!」

「うむ、余興用の制服があって助かった。やはり、備えあれば嬉しいなだな」

「間違ってますからね! ことわざだけじゃなくて人生そのものから! そんなの購入とかよく逮捕されませんでしたね!?」

「うむ、ちゃんと通販で買った。マスクとセットだった」

「自覚症状あるのかよ! つか、それ、どんな需要なんだよ! 誰が喜ぶんだよ! ありえない抱き合わせ商法ですよね!?」


 こんな一発芸しなきゃ教師になれないのかよ。私、もう社会に出られる気がしない。なにこの最終兵器反面教師。誰か早く教育委員会に通報しちまえよ。セクハラよ、セクハラっ。ああ、絶対に今晩悪夢でうなされるよ、俺……というか、これが夢なの? という意見が漏れつつも、もう誰もがその恐怖の具現体を前に慄くしかなかったが。

「汚ねぇ!」「死ね!」「莫迦だろ絶対!」「キモイ!」というあらゆる罵詈雑言も馬耳東風。腰に手を当てて笑う武藤先生は本当に逞しかった。



「ねぇ、兄さん? 武藤先生って面白い人ですね」

「あ、うん。まぁ、言葉を選べばそうかもね」

「いつまでも童心を忘れないなんて、素敵だと思います。約束を遂行する姿も教師の鑑ですよね。見る目が変わりましたよ」

「え? こ、琴梅、何を言ってるのさ」


 クスクスと口元に手を当てて笑う妹を見ながら南口は神経を疑う。

 それはからかいなど皆無で、本気で思っている好意的な笑顔だった。

 ゴクリとつばを飲み込み、恐る恐る『最強』は言う。


「こ、交際は認めないよ?」

「そうでしたね。……残念です」


 言葉通りちょっぴり残念そうな妹を見ながら、南口は勝てて良かった、と真剣に胸を撫で下ろす。残念な趣味だよなぁとか、そういう治療のできる病院ってどこにあったっけ、とか考えていた。

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