第10話 第三回戦『トレーニング狂』対『達人』
――お前、天才だな。うん。いじめられる天才だよ 『弾丸』
一
小学生の頃、体が小さく気弱な性格だった本岡富士雄はいじめられっ子だった。
靴を隠されたり、掃除当番を押しつけられたり、登下校にカバンを持たせられたり……他にもいろいろとあるが、毎日そういう目に遭っていた。
幼なじみのはとこに「そんなんだからあんたはダメなのよ!」とよく叱られていた。
そのはとこ自身が率先して本岡をいじめていたのだが、それは鍛えようとした意志が多少なりともあったのかもしれない。
いや、そもそも、イジメというほど重度のものではなかったのだろう。
少なくともそこまで深刻に受け取っていたのは本岡本人だけだったと思う。
だが、彼の周りで味方はどこにおらず、理解者もいなかった。
親や先生にはとても言えなかった。
子供にだってプライドはあったし、親に心配をかけたくなかったからだ。
それに先生に告発しても問題は解決しないだろうし、一層いじめられる危険は冒したくなかった。平穏無事ならぬ平穏無視にして無私。自分は虫だ、と五分の魂で一人現状に耐えていた。
でも、心は殺しきれずごまかしきれず、ただ苦しかった。
だから、八方塞なある日、本岡は大村公園で独り、当時はそれほど錆びていなかったブランコに座って泣いた。
カレーの匂いがして――どこからか夕方の報道番組が漏れ聞こえて――秋口のその季節は少し寒くて――自分が独りぼっちのような気がして――それで涙が止まらなかった。
その時だった。
「……?」
一人の男性が本岡の前に立ったのは。
その大柄で筋肉質な男性は上下ジャージ姿で頭にはタオルを巻いていた。
頭のタオルを脱ぎ、汗を拭うと肌寒いくらいなのに滴り落ちた。
恐らく、トレーニング中か何かだったのだろう。息も上がっていた。
タオルの下はウルフヘッドのド金髪。三白眼。むき出しの二の腕は引き絞ったタオルのように凸凹していた。
極限まで削ぎ落とし、練り上げられた――異様に発達した体つきだった。
こちらを睨みつけるようにしてその人は言った。
「なぁ……なんかお前、ムカつくから殴っていいか?」
怖くて声も出せなかった本岡に、非常識なことを言った大人は続ける。
「なんで泣いてんだよ。ムカつくな。泣くんじゃねぇよ、バーカ」
「あ、え、そ、その……」
ゴニョゴニョと言葉尻が消え霞む本岡の様子で、その人は一層目を吊り上げた。
「あぁん? シッカリ喋れっての。ムカつくな。なんで久しぶりに帰って来た日本で腹立てなきゃなんねぇんだよ。おい、お前、なんで泣いてんだよ? ハッキリ言えよ」
「そ、その……あの、実は――」
本岡は恐怖心から喋った。自分が悲しかった理由を。自分が泣いていた理由を。
つっかえつっかえでしどろもどろな本岡の説明だったが、その大人は途中、口を挟まなかった。
初対面でどうしてこうなっているのか、その時の本岡は疑問にも思わなかった。いや、思えなかった。
それはその男性の雰囲気がそうさせていたのかもしれない。
その人は不思議な空気の持ち主だったのだ。
一通り聞いて、その人はうん、と頷きながら言った。
「お前、天才だな。うん。いじめられる天才だよ」
そんなとんでもないことを言われて――本岡は怯むよりも先に笑ってしまった。あまりにもむちゃくちゃだったからだ。
その人は二十歳くらいで、もういい大人のはずだったはずだ。それがいじめっ子のように歯を剥き出しにして笑うのだ。
すくなくとも大人は味方だと認識していた本岡にとってそれは想像外の事態で、わけが分からなかった。
「ま、一つでも才能があって良かったな。あー、やっぱりムカつくわ。殴るな」
「うわぁん」
体を縮こませて怯える本岡に「ま、冗談だがよ」と冗談ではない声音でその人は言った。
後から本岡が思い返してみても、チンピラみたいな人だったと思う。
何か喋る時にはポケットに両手を突っ込んでいたし、やたらと斜に構えていた。
その男性は吐き捨てるようにして言った。
「お前さ、どうして自分がいじめられるか分かるか?」
「……才能があるから?」
「それだけじゃねぇよ。お前の性根が腐りきって負けを望んでいるからだよ」
抵抗したり、歯向かったりが怖いんだろ、とその男性は言った。
「そんなつもりは……」
「ねぇってか? ……まぁ、どうでも良いや。俺の知ったところじゃねぇし」
フン、と鼻を鳴らしてどうでも良さそうにその人は言った。
本当に興味をなくしたらしく本岡に背を向けた時、
「どうすればいじめられませんか?」
何故か本岡はそんなことを訊ね、呼び止めていた。
普段なら気弱な本岡がこんな怖そうな人に関わろうなんてしなかっただろう。
自分からわざわざ積極的に虎口に頭を突っ込むような真似は彼の性格上絶対に不可能だ。
だが、外見や短気そうな雰囲気の割にその人は――どこか優しそうだった。
少なくとも独りで泣いている子供を放っておかない優しさを持った人だったからかもしれない。
その人はチラッとだけ振り返って簡潔に答えた。
「知らん」
「ううううぅうぅうぅぅぅ」
「知るか、莫迦が。俺はいじめられたことなんてねぇからな」
素っ気無くそう言い、ふと思いついたように彼はファイティングポーズを取った。
そして、本岡にとってそれは、生涯忘れられない光景になった。
その人はシャドーボクシングを始めた。
蝶のように舞い、蜂のように刺すという言葉がある。
それを後に知った時、「ああ、あの人もそうだったのだな」と本岡は言葉以上の感覚で理解していた。
ジャブからストレート。
左フックのダブル。
アッパーからストレート。
様々なコンビネーションが繰り出されていた。
速く、鋭く、力強く。ダンスのように軽やかだけど、もっと攻撃的な動き。
彼が現在、アメリカで大活躍の天才ボクサーということも後で調べて知った。
日本であまり話題になっていないのは、拠点が海外だったため。問題を起こしたのか、日本のマスコミは黙殺に近かったせい。
『弾丸』と呼ばれ、三十一戦三十一勝三十一KOというパーフェクトな記録で、スーパー・ミドル級、ライト・ヘビー級、クルーザー級とボクシング世界三階級制覇。
史上最強の日本人の看板を引っさげ、ヘビー級世界戦直前に謎の引退。
圧倒的な強さとカリスマ性を誇り、パウンド・フォー・パウンドと呼ばれた天才ボクサーだということを。
「いじめられたくないとか思うからいじめられるんだよ。どうせ媚びたり、顔色伺ったりしてんだろ? そりゃいじめられるわ。俺だってムカつくからな」
『弾丸』はシャドーボクシングが終わった後、そんなことを言った。
「せっかくだからアドバイスしてやろう。むしろおいしいと思え。いじられていると」
「うん……」
「不満そうだな。ま、どうでも良いや。俺の知ったことじゃねぇし」
「……喧嘩強かったら、いじめられないですか?」
「教えねぇぞ。そんなツマンネー理由で」
「うううぅうぅうぅ」
「言っておくけどな、俺のトレーニングメニューはな」
ズラズラと並び立てたトレーニングメニューは一言で表せばクレイジーだった。
「えっと、腕立て伏せ……何回……?」
「二千回」
もちろん一日な、と『弾丸』は言った。
「……無理だよぉ」
「誰が真似をしろと言った。あぁん? 俺のトレーニングは世界一になるためのトレーニングだぞ。てめぇごときが真似できると思うなよ。バーカバーカ」
「うううううぅぅぅぅ」
本当に『弾丸』は子供のような人だった。
ただ、先ほどまでの帰りそうな雰囲気はなくなり、本岡の隣のブランコで励ますようにしてくれていた。口が悪い割に冷たさはなかった。
だからかもしれない。本岡は素直に謝った。
「……ごめんなさい」
「別に謝る必要はねぇけどな。素直なのは悪いことじゃねぇよ。うん、まぁまぁだな」
まぁ、とどうでも良さそうに『弾丸』は続けた。
「体を鍛えることは否定しねぇよ。殴られても痛くなくなるぞ」
「そもそも殴られたくないですよぉ」
「バーカ。甘えんな。俺なんざ今までにどんだけ殴られてると思ってんだよ。お前の百倍は殴られてるぞ」
それは本岡にとって頭を殴られるほどの衝撃だった。
この恐ろしく強そうな人でも、殴られるのだ、という。むしろ、強いからこそ今まで傷ついてきたのだというそんな当たり前の事実を。
「あ……」
「トレーニング方法なんざ、趣味レベルなら腕立て腹筋背筋スクワットやりゃ、それで充分なんだよ。それぞれ毎日百回ずつ続けてみろよ。それができてからだろうが、全ての話は」
「えっと……」
「泣くほど悔しいなら、それくらい簡単だろうが。毎日、続けるだけだぜ。それとも、それもできねぇのか、てめぇは?」
「ううん……頑張る……」
首を横に振った本岡を見て、『弾丸』はニヤリと笑って彼の頭をくしゃくしゃにした。大きな手で――しかも、温かい手だった。
「よっしゃ。男なら言ったことは守れ。頑張れよ。俺は世界最強を、全てのボクサーの頂点を掴むからな」
その言葉が完全に守られることはなかったが、それはきっと何か理由があったのだと思う。
『弾丸』はヘビー級世界戦と同じくらい大切な何かと引き換えに引退したのだろう、と。
だから、『弾丸』は依然として本岡富士雄のヒーローだった。
以来、本岡は独自にトレーニングを調べ、プロテインを牛飲し、体を鍛え続け――気がつくといじめられることはなくなっていた。
その頃には、幼なじみから「うわぁ、キモッ」と言われるような、ボコボコに割れた腹筋を手に入れていた。
彼が腕立て伏せ、腹筋、背筋をサボったことはあれから一度もない。
体調不良の時も続けて、悪化させたりもしていたが『トレーニング狂』は『弾丸』のようなヒーローになりたいと願い、努力を続けていた。
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