プロローグ (6)


 「ううん何でもない。ただ、私の場合、これ食べないとテンション不足で何も始まらないから。うん。かじったらようやく調子がでてきたよ」

 おかしなことを言う子だな。

 「それより、君の高校は、夏休みっていつ?」

 「唐突だな。僕のとこは三日後、27日から――いや、明日の終業式が終わったら夏休みに入るから、気分的には26日の午後からってことになるのかな」

「お、そうなんだ!」

 僕が真っ昼間のこの時間に制服姿で堂々とサボっていることについては、佐野さんからは何も言及されなかった。

「ちなみに私はもう夏休みなんだ。一応聞くけど、何年?」

 「1年だけど」

 「そか。私も高一だよ」

 「同い年? ふーん。一番つまらないな。僕より年下なら無礼を謝らせようと思ったし、年上ならもっと先輩らしく振る舞ってくださいって苦言を呈するつもりだったのに」

 「え、急にこわいな!」

 僕は本題に入る。

 「それで君のお願いって言うのは具体的には?」

 「お、よくぞ聞いてくださいました。けどね、このお願いはね。正直、ただの私のわがままなの」

「だからそのお願いって……」

 佐野さんは僕の言葉には答えず、急に席を立った。

 「――あ、 私急に用事を思い出しちゃった。ごめんね」

 「は?」

 「ちなみに私のわがままはね。零実くん。夏休みの間だけでも、私と一緒に遊んで欲しいの。君がまっすぐ生きられるように、夏の間だけでも監視させて。いっそ、いつまでも一緒に監視し合って、死ぬのが嫌になるくらい楽しい思い出を作ろうよ」

 そう訳の分からないことを言うと、佐野さんは自分の顔をなぜだか恥ずかしそうに両手でおおって走り去っていった。

 

「 何が急用だよ……うん?」

 僕はテーブルの上に先ほどまでなかったものを発見する。僕の正面、佐野さんがいたところに置き去りにされた1冊の文庫本だった。

 「いつの間に置いてったんだよ……この本、『風の又三郎』?」

 宮沢賢治の童話集だった。文庫は、去年出た人気アーティストとのコラボカバーのものだった。それと、まだほとんど読んでいないのか、ごく最初の方のページに挟まれた栞がはみ出していた。

 それでも、もしかしたら、何度も読み返している大切な本かもしれないな、と色々と考えてしまう。死のうとしてたやつの前に忘れ物を置いていくなんて……。かといって置きっぱなしにするのも後味が悪い。

 そう思いながら、文庫本を開く。挟まれていた栞だと思っていたものは佐野さんの連絡先が書かれたメモだった。

 「だからいつの間に準備してたんだよ……」

 視界の端で、水色のワンピースの後ろ姿が振り向くのが見えた。

 僕はため息をつく。

 だけど、視線に気づいた彼女は振り返るのをやめると、そのまま角を曲がっていなくなって、僕の眼はその姿をあっさり見失った。

 走ったら彼女を見つけるのは子供向けの間違い探しよりも簡単だろうけど、追いかける気力はなかった。

 何のつもりか知らないけどご丁寧に連絡先も残してくれていることだし。

 ふいに、僕はとても大事な間違いに気づいた。

――ああ。なんということだろう。

 僕はいつの間にか、本当に、死ぬことがバカバカしくなってしまっていた。

 認めたくはないけど、それが間違い探しの答えだった。

 故意に忘れていったのだとは思うけど、彼女にこの本を返さないといけない。

――何より、彼女には「色」があって。僕はもしかしたら、彼女といればもう一度絵筆を握ることができるかもしれない……。いいや、だからどうした。

 自分はこの期に及んでなお、死ぬことを許されないというのか。

 『風の又三郎』の文庫本とかじりかけのフレンチトーストと一緒に残されて、僕はひとり心の中で苦笑するしかなかった。


 君を絶対に死なせない。

 彼女のそれはとても乱暴なやり方だったし、ほんの少しの間のまやかしかもしれない。だけど、彼女の行動に、僕の心は、今日だけは救われてしまったんだ。

 今日はなんだか外がやけにまぶしい。僕はベーカリーカフェの窓の外、ビルの隙間に広がる夏空を見上げた。

 ごめん。清水しみずくん。こんな優柔不断な僕だから、やっぱりまだそちら側には行けそうにない――。どうか、もう少し、僕を恨んでいてくれ。

 皮肉にも、空だけが綺麗だった。どこまでも透き通って続いていくような、雲のない青空。そう。まるで、さっきの彼女が着ていた水色のワンピースのような群青が――。

「――え?」


 さっきまで灰色だった空が、空だけが「青」くて。そのまぶしさの正体に気づいた僕の目はにじんでいた。








 

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