3. 約束のデート(1)



家庭教師の残り

『合格おめでとう。どこか行きたい場所はある?』


 そんな質問がメッセンジャーアプリ経由で飛んできて、志望校合格とデートの約束で浮かれていた私の頭は、ちょっとだけ冷静になった。


 どうしよう、決めてなかった。


 妄想ならしたんだ。遊園地の観覧車で、今度こそちゃんと告白したら、とか。水族館で手を繋げたら、とか。でも〝ここに行きたい〟と主張できるほどではない。


 藤野先生は、なにが好きなんだろう? 思い返してみると、授業中に雑談なんてほとんどしなかった。もしかして私、先生のこと全然知らないの? 知ってることといえば、大学の専攻が生物学だってこと。あとは――


「そういえば先生、あおむしのハンカチ持ってた」


 有名な絵本のキャラクターが描かれたハンカチが、よく先生のズボンの後ろポケットからぴょこんと出ていた。


『先生、あおむし好きなんですか?』

『ああうん……まあね』


 そんな会話もしたし、好きなんだろう。あの絵本。


 スマホのブラウザを開き、絵本のタイトルと「イベント」と打ち込んでみる。あった。電車で三十分くらいの距離にある美術館で、作者さんの特別展をやっている。ここがいいかな。絵本なんて子供の頃に読んだっきりだし、美術もよくわからないけど。

 

 先生が楽しめるなら、きっとここがいい。


『美術館はどうですか? 葵駅の近くの』

『いいよ』


 その返答にほっと息を吐き、ベッドに横になる。いいよ、だって。やった。いいよって。


 普段なら気にもかけない、なんでもない三文字が、頭の中でコロコロと転がっている。スマホの画面を見直してから、笑みが浮かんできた両頬を手のひらで押さえた。


 この間はひよってしまったけれど、今度こそちゃんと告白するんだ。


 付き合えるかなんてわからないけれど、何も言わなかったら、今度こそ会う機会を失うから。縁結びの神様のいる神社にもお参りしたし、うまいくいきますように……!


 約束の日。待ち合わせは、駅前に十三時半。あんまり早く着いても引かれちゃうかな、遅刻するよりマシかな、そんなことを朝からソワソワと考えては転がって、結局、私が駅についたのは十三時二十分だった。


 先生はもう待ち合わせ場所に立っていた。先生は噴水の前で小さな白い紙を眺めているだけなのに、映画のワンシーンを見ているような気持ちになって、すぐに声をかけられない。


 白いTシャツの上に、あったかそうなグレーのカーディガン。授業のときとは違う格好に、つい目と足が止まった。でも、後ろから来たお姉さんたちが「ねぇ、あの子かっこよくない?」と小声で話しているのを聞いて、我に返る。慌てて先生に駆け寄った。


「先生っ、おはようございます!」

「うん、こんにちは。そんなに急がなくても、まだ早いよ」


 だって今すぐに声をかけないと、先生を誰かに取られそうだったから。言えずにごまかし笑いを浮かべていたら、先生が私をじっと見てからふわっと笑った。


「初めて見る服だ。可愛いね」

「えっ、あ、ありがとうございます……」


 頭のてっぺんまでのぼってきた熱に浮かされる。やった。みきちゃんと買いに行ってよかった。みきちゃんありがとう!


「じゃあ行こっか」

「はいっ、先生!」


 ゆっくり歩き始めた先生の後ろをついて行こうとしたら、振り返った先生が、しぃと指を口に当てた。


「もう先生じゃないから、名前で呼んでくれたら嬉しいな。僕、隼冬はやとっていうんだ」

「隼冬……さん」

「うん、ありがと」


 先生がすぐに前を向いたことにほっとした。だって顔が熱くて、ドキドキが止まらない私は、きっとものすごく情けない顔をしている。


 美術館まで徒歩五分、なんにも話せなかった。先生に聞いてみたいこと、話したいこと、あったはずなのに頭が真っ白になって出てこない。先生が美術館のチケット売り場の前を通りすぎてようやくはっとした。


「先生、チケット……」

「買ってあるから大丈夫だよ。今日は萌ちゃんの合格祝いだから、おごらせてね」

「は、はい」


 合格祝い――だから。もしかして、可愛いって言ってくれたのも、名前で呼ばせてくれたのも、お祝いだから? そんなことを考えたら、ちょっと視線が下を向いた。


「萌ちゃん、特別展も見るのかなと思ってセット券を買っちゃったんだけど、大丈夫?」

「あっ、はい! 特別展が目的だったので!」

「萌ちゃん、あおむし好きだったっけ?」

「えと、好きです! すごく!!」

「そうなんだ」


 どうしよう、嘘ついちゃった。絵本なんてなんとなくしか覚えていないし、好きでも嫌いでもない。でも、先生が好きらしいのに『興味がない』なんて言えなかったんだ。


 特別展は見覚えのある絵の展示が半分、絵本のイラストを使ったおもちゃで遊べるコーナーが半分だった。見ているのは小さな子どもとその親御さんばかり。若いカップルが数組いるくらいで、けっこう騒がしい。静かすぎると落ち着かないだろうから、助かった。


 先生はじっくり見たいかな。先生の様子をうかがってみたけれど、私の予想よりさらっと見るだけで、視線をふらふらさせている。


 もしかして興味ない? 退屈だったらどうしよう。


 そんなことを考えていたら、先生がサナギの絵の前で足を止めた。あおむしでも蝶でもなく、サナギ? 絵をちょっと眺めてから先生を見上げたら、先生が私を見て困ったように笑った。


「ごめんね、次の絵に行こうか」

「サナギが好きなんですか?」

「好きっていうか、不思議で面白いなあって。幼虫と成虫で見た目も食べるものも変わるから」

「……そうですね」

「でしょ? サナギの中で、虫は組織のほとんどをドロドロに溶かして作り直すんだけどさ」

「ひぇっ」


 可愛いあおむしのイラストがドロドロに溶ける様子を想像してしまって、すうっと全身が冷たくなったような気がした。急に周りの音が遠くなる。


「なのに成虫になっても幼虫だったころの記憶を残しているっていう説があって、それがまた不思議で面白いなって――」


 ドロドロ、トロトロ。頭の中で、色がぐるぐる回ってる。車酔いしたときみたい。きもちわるい。ふらついて先生の服をつかんだら、先生が私のおなかのあたりを支えてくれた。


「ごめん! こういう話、女の子は苦手だったよね」

「だ、大丈夫です……」

「外のソファーでちょっと休もうか。ここ、再入場できるらしいから出よう」


 先生に手を引かれて外に出る。せっかく手を繋いでもらったのに、喜ぶ余裕がない。別のことを考えなくちゃ。廊下のベンチに座ったら、ちょっとだけ落ち着いた。


「水なら飲めそう? そこで買ってくるよ」

「あ、自分で――」


 慌てて顔を上げたら、目の前にカラフルな昆虫のイラストがあって、ひゅっと喉が鳴る。先生の財布だった。白地にトンボやカブトムシの絵がプリントされている。虫にびっくりして、早足で自動販売機に向かう先生を呼び止め損なった。


 ああ、情けない。膝の上でスカートを握ってうつむいたら、白い紙が落ちているのが見えた。先生の字だ。落とし物なら渡さなきゃ。拾ったら、つい書かれた文字が目に入った。


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