第7話
◇
腹部にはリツの体重があまりかかっていなかった。そのおかげというべきか、鈍痛はあっても体を動かすことは容易に思えた。
喉仏を圧し潰す苦しみはあったけれど、先ほどのような気道を締め付けるような苦しみはなく、呼吸をせき止められるほどの息苦しさにはつながっていなかった。
──こいつは、僕がどんな気持ちで今まで耐えてきたと思っているのだろう。
優しい人にならなければいけない。大人にならなければいけない。悪い感情を抱いてはいけない。陽向を守るために、僕は頑張って生きていかなければならない。そのために苦しみに耐えてきた。どれだけ苦しくても学校に行って、目の前の苦しみを享受しようとしてきた。ただでさえ自分の中に抱えてはいけない憎しみが蟠ることに自己嫌悪を繰り返していたというのに、それをこいつは──。
──手が、伸びる。リツの生きている首にしがみつくように、するりと彼の喉に手が絡みついていく。僕を絞めることに夢中になっている彼は気づかないままで、僕は彼の首をそのまま触れることができた。
今まで耐えて、耐えて、耐えて。
堪えて、耐えて、堪えて、耐えて。
絶えず堪えて耐えて堪えて耐えて堪えて耐えて堪えて耐えて堪えて耐えて堪えて耐えて堪えて耐えて堪えて耐えてきたのに。
殺していた感情がふつふつと蘇ってくる。自制を取っ払った殺意が、手の中に憎悪が宿る感覚が、衝動がある。
僕は彼の喉に絡んだ首を、そのまま勢いよく締めるようにした。
「──おま、なにを」
──手の中に響く鼓動、温もり、震える感触。生温かくて気持ちが悪い。
その温もりを感じるたびに嫌悪感で手の力が強まる。僕の力なんて非力でしかないけれど、非力の精一杯が感情とともに力となって、彼の首を絞める。
──彼の握る力が強くなってきた。
喉仏をつぶして、更に気道をつぶすように。先ほど感じていた苦しみとは比較にならないほどに、空気の通る道すら存在しないように。
「くっ……、カハァ……」
目の前で苦しんでいる音が、声が聞こえる。手の中で音が震えている。それは僕が苦しくて出しているものなのか、リツの嗚咽なのかわからない。
でも、この一瞬に感じたすべては、彼が僕と同じ存在になりさがってくれたという幸福感だった。
嫌いだ、嫌いだ嫌いだ、苦しくて嫌いだ、何もかもが嫌で仕方がない。お前がやり返してみろって言ったんだからな。僕は悪くないんだ。お前が最初から僕にこんなことをしなければよかったんだ。お前が後悔してももう遅いからな。死ねよ、死んでくれよ。
苦しいか? 苦しいだろうな。お前はさっきそれを僕にやったんだよ。やり返していいって言ったお前が悪いんだよ。僕と同じ苦しみを味わえ。死ね。
死ね、死ね死ね死ね、死ね。僕の手に絞められて、そのまま死ね。死んでくれ。
憎悪が、殺意が感情を塗り替えていく。そのほかをすべて無視するみたいに、あらゆることがどうでもいいように感じてくる。
殺す、殺してやる。僕の邪魔をする奴は、正しく生きていけないように邪魔する奴は死ねばいい、殺せばいい。だから、死ね。死ねよ。
「──シ、ネ」
苦しさの中で漏れた悦楽の声。リツの手はゆっくりと力を失っていく。
「死ね、死ね、死ね死ね、死ねよ、死ね死ね死ね」
ぼそぼそと漏れる言葉の雨。
「──」
声にならないリツの嗚咽。嗚咽を吐き出そうと必死に、僕の手の中にある喉がなる。
その隙間さえ漏らさないように、ただただ首を絞めて、絞めて、殺す。
「死ね死ね死ね、死ね、死ね」
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
「 」
死ね死ね死ね、死んでくれ。
そこに震える声がなかったことに気づいたのは、十数秒後だった。
◇
はあ、はあ、と呼吸を整えた後に、僕がしてしまった行為のすべてを確認した。
目の前にあったのは、仰向けに目を閉じているリツの姿。先ほどまで僕の手に絡んでいた手は、絞められた喉を保護するように場所を変えている。体の節々から力が抜けていて、そこに生きた心地は感じな──。
「──」
──ころ、した?
僕が、リツを、殺した?
漠然と大きくなった焦燥感に、不安を抱いた衝動から彼の首に指先を置いてみる。きちんと脈拍があるのかどうかの確認。ドラマで見たみたいにきちんと生きているかの確認をする。でも、指をあてがってみても、その脈がリツのものなのか、僕のものなのかわからなくて、よくわからないままに心臓マッサージの真似事をした。それでも反応はなくて、どうしようもなくて、何をすればいいのかわからなくて、僕は逃げるようにその場を後にした。
屋上から、学校から逃げ出した。あのままリツが死んでいたらどうしよう。僕は人を殺してしまったのだろうか。憎悪のままに、殺意のままに、衝動のままに?
自分自身に起きていることのはずなのに現実感が湧かなくて、僕はただ家に帰ることしかできない。
家に帰ってから、ただ布団の中でこもることだけを繰り返した。どこかに連絡をしていればよかったかもしれない、と布団の中の温もりに浸ってから思った。自分が犯した罪を認識して、途方に暮れた。僕はどうすればよかったのかわからなくなった。
家のドアが開く音がした。そういえば鍵をかけるのを忘れていた。警察が来たのかな、そんな不安ばかりを抱いた。世界が僕を糾弾するために、罪を清算するためにやってきたのだと思った。数時間ほどたっているから、次第に諦観が心の中に生まれていた。犯した罪は消えないことを理解しながら、すべてがどうでもよくなって、僕は布団の温もりから逃げるように這い出た。
玄関の先にいたのは、陽向だった。
「だいじょうぶ?」と陽向は僕に声をかけてきた。
何が大丈夫なんだろう、何もわからなくなっていた。いつものやりとりを忘れてしまっていた。それでも、唯一陽向に吐いた言葉は──。
「──ごめん、ね」
すべてが終わったと思うからこその、最後の彼に対する謝罪だった。
キケンナアソビ 楸 @Hisagi1037
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます