第5話


 頭の中で様々な迷いや誘惑が過ったものの、それでも体を動かして、なんとか学校にたどり着くことができた。


 登校の道中、歩く生徒を全く見かけなかった。少し焦った気持ちで携帯の時間を確認してみれば、おおよそ遅刻と判定されるギリギリの時間帯。そんな時間になるまでアイツのせいで頭がいっぱいになっていたことも許せないし、規範を心がけている自分自身がそんな行動をとっていることも許せなかった。


 学校に入った矢先に聞こえてきたのは始業のチャイムの音。僕は急いで上靴を履き替え、教室へと駆け足で移動する。


 教室という空間が苦手になったのはいつからだろう。入学当初であれば感じなかった視線が、確実に自分に向いていることの嫌悪感、居心地の悪さがどうにもぬぐえない。


 その視線は好奇だったり、忌避だったり。現在ではそもそも存在を無視するような扱いになっていたりするけれど、遅刻をすれば悪目立ちから逃れることができない。ただでさえいじめられているという現実が、周囲の注目を悪い意味で集めてしまうことが、どうもやるせない。


 自教室の前まで移動をする、廊下に人影はなく、いつも耳にしている喧騒はどこにもない。


 はあ、とため息をつきたくなる。というか、ついてしまった。


 これもそれも、すべてアイツのせいでしかない。学校という存在が嫌いになったのも、あらゆる行動に制限が加えられているような気がするのも、すべてがすべてアイツのせいだ。


 教室の中に入れば、また地獄のような生活が始まる。朝起きた時の嘔吐感がまた反芻して、中に踏み入ることに対して躊躇いが生まれてしまう。それでも高校生としての生活を送らなければいけないことを頭の中に刻み付けて、吐き気を抑え込みながら、なんとか教室の後方ドアをくぐることにした。


 教室の中には、点呼をしている最中の教師と、それに返事をする生徒の数々。教師が僕を一瞥した後、教室の中にいた生徒の視線が一瞬、僕のすべてに集まった。


 うっ、と胃が軋む感覚。喉元に絡まる酸味をこらえながら、「すいません、遅刻しました」と最低限の挨拶を教師に投げた。


「まあ、ギリギリセーフにしておいてやるよ」


 呆れた顔、もしくは心配そうな表情とも見て取れた。そのどちらの感情を教師が抱えているのかはわからないけれど、その言葉に僕は安堵を覚えて、そそくさと自席である場所に移動をする。


 移動をする最中にも周囲を確認して、アイツらが学校に来ているかどうかを把握する。


 ……大丈夫みたいだ、アイツらの席は空いていて、教室の空気もいつもと比べれば緩和しているような気がする。


 まだアイツらは来ていない。しばらくは安全な状況が確保できることを知って、心の底から安堵をする。


 ……それでも。


「──ういーっす、すいません。遅刻しましたー」


 耳に聞こえてくるのは、間延びをしたふざけた謝罪と、僕が憎んで仕方ない男の声音なのだけれど。





 見慣れてしまった屋上という場所に一つの煙が立ち上った。それを味わうように吸い込んで吐き戻すのは、僕を灰皿として扱ってくるリツの存在だった。


「はー、早く来たってのに遅刻扱いとかふざけてね?」


 独り言のように吐かれる言葉。そうつぶやいたかと思えば、吸っている煙草のせいで何度か咽せているリツの姿。


 ……その言葉が誰に対して吐かれているのか、僕は把握することができていない。


 いつもの取り巻きはまだ学校には来ていない。だから、この屋上には僕とリツしかおらず、灰皿でしかない僕は、彼に言葉を吐かれることはないものだと思っていた。


 彼の言葉は間延びしているものの、不快感が含まれていることを示すように、どこか声音が低い。眉間には皺が寄っていて、その不快感を煙草で紛らわそうと何度も喫煙をしているけれど、その度に咽せてしまうのが吸いなれていないことを匂わせてくる。


 僕は慣れたように両手を広げて受け皿のようにする。彼から命令されるよりも前に行動しておけば、きっとそれ以上にひどいことはされないと思ったから。


 でも。


「──返事しろよカス」


 ──声よりも先に届くのはあばらに対する衝撃だった。あからさまに不機嫌そうな声を出しながら、彼の足が僕のあばらをえぐるように蹴りだしてくる。彼の前でこらえていた吐き気が、物理的な衝動となって、僕は彼から顔を逸らしながら口にたまった酸味を吐き出すことしかできない。


「ここには俺とお前しかいないだろうが」


 僕は重い痛みにうずくまりながら、口から言葉を吐きだそうと喉に力を入れた。それでも出てくるのは嗚咽のような音でしかない。


「……ハア、本当にムカつくなお前」


 返事のできない僕に、リツは言葉を続ける。


「最初に見たときからムカついてたんだよなぁ。『僕はめちゃくちゃ辛い人生を送ってますぅ』みたいな顔して大人ぶりやがって」


 リツは言葉を吐きながら、うずくまる僕の背中に踏みつけるように足をのせてくる。無理に曲げられる背中で呼吸がままならなくなってしまう。


「ほんと、人をムカつかせることだけは才能あるよな、お前」


 ──さっきからコイツは何を言っているのだろう。嫌悪感、憎悪、意味を理解したくもない言葉で、どうしようもなく吐き気は積み重なって、唾液だけが地面の中に垂れていく。


 返す言葉はない。そもそも、彼に返せる言葉を持ち合わせていない、権利がない。だから、黙ったまま、うずくまったままで彼の反応を待つだけしかできない。


 そうしてしばらく時間が過ぎて、彼の吸殻がそのまま地面に落ちていく。それが視界に入ったあと、ようやく解放されるのではないか、そんな自分に都合がいい妄想をする。


 でも、それが叶うわけもなく、彼からまた言葉は紡がれる。


「退屈だし、


 僕にとっての地獄がまだ続くことを、認識させる言葉だった。

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