第4話


 家に帰ると、陽向は寝息を立てていた。電灯は居間にあるコンセントに挿している赤い豆電球だけで、その近くに位置をとりながら陽向は静かに眠っていた。あまり広いとは言えない空間、陽向は布団を自分で敷いて、すやすやと夢の世界に漂っているのだ。僕はその姿を見て穏やかに息を吐いた。


 陽向はどこまでも幸せそうだ、彼はそう振舞っている。きっと、それは見せかけのものなのかもしれないけれど。僕にだけそうやって見せて、自分の中の蟠りを隠しているのだ。僕は弟の振る舞いを見てそう思ってしまう。


 台所の近くにあるテーブルの上には、陽向が勉強したらしい紙の残骸が置いてある。


「これくらい片付けろよな……」


 誰にも聞かれていない独り言を口に出して、その虚しさに自分で笑いそうになる。僕は乱雑に置かれていた宿題らしき紙をまとめて、陽向が明日学校に持っていくのを忘れないように、今のうちにランドセルに入れておいた。


 暗がりの中では視界が確保できない。心もとないが携帯で電灯をつけて周囲を照らすようにする。その際に片手に持っていた宿題の内容がよく見える。算数のプリントと、国語のドリルを写したらしい練習用紙。その片隅には落書きがあって、見たことのないキャラクターが剣を持っているだけのイラストが描いてあった。


 子供らしいと思える姿。僕が疑っているだけで、陽向はきちんと子供なんだろう。それでも人を気遣うように振舞うその姿は、どこか大人じみているようで、やはり疑心はぬぐえないのだけれど。


 ……こうしてぼうっとしていても仕方がない。


 僕も明日の学校の準備を行って、早々に床に就く。寝ることは朝につながるから嫌だけど、寝なかったらもっとろくでもないことになるから。





 朝には目覚まし時計が鳴るよりも早く起床し、行動するには早すぎる時間帯を見てため息をついた。朝が来れば吐き気は収まらなくなる。横目に見た陽向がすやすやと寝ている様子を確認して、僕はそそくさと音を立てないことを意識してトイレのほうへと向かう。吐き気を殺すためには嘔吐を繰り返せばいいだけだ。


 なるべく声を出さずに、呻くことさえも抑えるようにしてすべてを吐き出す。日課でしかない行為。喉元に絡みつく酸味のある不快感にも慣れてしまった。


 吐き気が次第にマシになったものの、それからどうするべきかを模索する時間が嫌だった。寝ることを選択してしまえば、一刻と近づく学校の時間が嫌になって仕方がない。なにか別のことをしていないと落ち着かない。だから、今日も今日とて一人分の朝食を作って、そうして意識を逸らそうとする。


 朝食を作り終えてから数分後に目覚まし時計が鳴る。んん、と喉を鳴らしながら起きる陽向の姿を見て、僕は笑顔を取り繕った。夜であれば自然とした笑顔が生まれるけれど、苦しみしかない朝に至っては自然とした笑顔が生まれることはない。


 朝食を済ませて、学校の支度を始めた。陽向も僕の行動を合図のようにとらえて、ランドセルの支度を時間割の通りに行う。一瞬、テーブルの上で宿題を探していたけれど、僕が整理したことを伝えると、陽向はにっこりと笑いながら「ありがとう」と伝えてくれた。少しだけ癒される気持ちの中、邪魔をするように嫌悪感が生まれることが、どうしようもなく不快で仕方がなかった。


「いってきまーす」と眠気を孕んで間延びした声を見送りながら、もうすぐで自分も学校に行かなければいけない時間であることを認識する。そんな時間を迎えるたびに、心の中で一つの迷いが生まれてくる。


 別に、今日くらい休んでもいいんじゃないか。無理をする必要なんてないのではないか。苦しみを享受したくないことに理由なんているだろうか。


 休みたい、休んで布団の中の温もりに閉じこもっていた。そうしていればすべてを忘れることも容易になるかもしれない。今日も睡眠時間は浅かった、どれだけ顔面を水にさらして眠気を拭おうとしても、それは背中に張り付くように漂い続けている。




 今日くらい、許されるのではないか。




 ……いや、駄目だ。きっと、今日を休んでしまえば明日も休みたくなってしまう。それが選択肢として僕の中に入ってくる。それが日常となってしまう。僕は堕落してしまう。それを自分自身で決めることは許されない。穏やかな日常を演出するためには、苦しみは享受しなければいけないのだ。


 ささやかに過る学校で行われた虐待行為。思い出してしまえば、目覚めた時と同じような、意識にわだかまる吐き気の塊。


「……行く、か」


 決意を言葉にしないと、どうにも前に進むことはできそうにない。改めて言葉にすることで、どうにかそれを現実だと受け止める。


 どれだけ嫌でも、そう過ごすしか道がないのだから。



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