第3話
◇
放課後のチャイムが鳴り、夕焼けが空を飾っていた。帰路に対して思い入れとかは存在しなくて、ただ流れるだけの風景を司会に入れて、家路をただ急ぐだけ。
家に帰ったらアルバイトに行かなければならない。だが、その前にやらなければいけないことも多数ある。急ぎ目に帰宅して、様々な準備を整えなければいけない。
陽向は小学校中学年なのに、そこそこ自立しているような大人っぽい一面がある。だけれども、それはこの貧しい環境に適応するために無理をしているだけに過ぎないだろう。いつも僕が家事を行おうとすると率先して手伝いなんかをしてくれるけれど、手先は少し怪しい。調理とかもまださせるわけにはいかない。
ぼろいとしか言えない木造のアパートに帰宅して、ただいま、と小さく声をかける。玄関先にある下駄箱の中には丁寧に小さい靴がしまわれている。その靴が示すように、奥の方から陽向が「おかえりなさい」と声をかけてくれた。
うん、と適当な返事をして家の中に上がり込む。少し埃臭いと感じる家の中、最近掃除をすることをサボっていたかもしれない。明日こそは帰ったらきちんと掃除をしなきゃな、とか、そんな時間や余裕がとれるだろうか、とか思考を働かせる。そんな思考を働かせている間にも無意識に身体はいつも通り動いていて、冷蔵庫の中をいつの間にかに覗いて調理の支度を始めようとしていた。
「陽向、何食べたい?」
居間であり寝床も兼ねている空間、そこでテレビを見ている陽向に声をかける。
「なんでもいいよー」と間延びした声。
「なんでもが一番難しいんだけどなぁ」
「それじゃあ目玉焼き!」
「……よし、それでいいなら」
きっと、陽向は僕のことを気遣ってくれている。それくらいはわかる。本当に食べたいものはそんなものじゃないだろう、他の家庭の夕食みたいに豪勢なものを本当は望んでいるだろうに、陽向はそんな言葉をかけてくれる。
そんな優しさに、僕はそのまま甘える。陽向の取り繕っている優しさを無碍にすることはしたくないから。
そして僕は、朝食のような夕食を作ってからアルバイトに行くことにした。
◇
「いい子にお留守番してるんだよ」
アルバイトに出かける直前、いつものお約束のような言葉を陽向にかければ、彼はニヘラと笑いながら得意げに「もうわかってるって!」と返してくる。これは日常のテンプレートのようなもので、出かける前にこのやりとりをしないと落ち着かないところがある。
陽向の笑顔を心の中にとどめた後は、行ってきます、と言葉に出して、そうしてアルバイトに行く。扉を閉めながらも聞こえてくる「行ってらっしゃい!」の元気な声が、少しだけ募っていた嫌な気持ちを殺してくれるような気がした。
それからはアルバイトへの道のりをたどる。
街灯、電信柱、少し早めに走る自転車。それを交わすように横にずれる自動車の走行。それに交わらない歩道の中で、ただ世界を呆然と見つめるだけの時間。
一応、暮らすだけのお金は母方の祖父から出してもらっている。だから、アルバイトの必要性はないのかもしれない。だけど、将来までそれが約束されているわけではない。そんな不安が僕の心に宿ってしまう。
祖父と母は折り合いが悪かったらしい。もともと、父親を選んだ時に縁を切ったとか、そんな話を祖母辺りから皮肉交じりに聞かされたことがある。
金を出しているのはあなたたちのためじゃない、世間体というものがあるから、とはっきり祖母から口に出されたときは流石に衝撃を受けた。僕たちを愛する人は母くらいしかいなかった寂しさと、現実にここまで昼のドラマのようにキツい振る舞いをする人がいることについての衝撃が。
だから、この援助がいつなくなってしまうかという不安から働いている。それだけが理由ではないけれど、結局働くしかないと思う。不安定にしか保証されていない生活で生きることのほうが不安だから。
◇
コンビニでのアルバイトは滞りなく終わった。特に語るほどでもない労働内容、やることは多いけれど、多いだけでそれ以外に難しさはないから、働くことは別に苦しくない。
バックヤードの中にこもって、ひとつのため息を吐く。今日もきちんとやり切れたことの安堵感、ここにアイツが、……中田 律が来なかったことへの安心感から、ものすごく深いため息をついた。
働くたびに思うのは、僕を知っている人間がバイト先に来るのではないか、という不安。バイトのことは陽向以外は誰も知らない。高校で無許可で働いている現状を考えると、アイツ以外にもバレたくない人間は多数いる。
……それでも、アイツがここに来ることを考えれば、どれだけマシなことだろうか。アイツが来るだけですべてが最悪につながっていく。
「……オェッ」
安堵感は吐き気に切り替わる。思い出すことで嫌悪感を催してしまう。思い出したくない憎悪と、もうそろそろで終わってしまう一日に対して憂いを抱いて仕方がなくなる。
ひとまず、今日はもう帰ろう。
抱えきれない吐き気を噛み殺しながら、僕は帰路に就くことにした。
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