第2話


 流れる水の音に心地よさを覚えた。


 教室から離れている特別棟に独りでいることが居心地のよさにもつながっているかもしれない。誰もいないことが約束されている自分だけの空間に、僕は流水の冷たさに手を浸して息をついた。


 授業の始まりを告げるチャイムはとうの昔に鳴り響いている。焦燥感が心の中にちらつくけれど、それでも今は手のひらに残る熱を忘れていたい気持ちがあった。だから、まだ授業にはいかない。


 焼き付いた痛みは焦げとなって染みつく。それが消えることはしばらくないのだろう。水の中に浸せば焦げて剥がれてしまった皮膚の残骸が視界に入る。


 手のひらに視線を移せば、いくつもの円状に焦げている火傷の数々。赤くもなく、いよいよ人間らしさを失くしたそれは、失血したような青黒さだけが残っている。


 触れれば痛いから触りたくはない。でも、消毒をしなければ更にろくでもない状況になることはわかっている。僕は必死に噛み締めながら、手のひらをこすり合わせて洗浄紛いでしかないことを今日もまた繰り返していた。




 どうして、自分がこんな目に合わなければいけないのだろう。




 そんな気持ちがいつまでも消えることはない。


 思い当たる節もなく、日常生活で悪いことをした記憶はない。だからこそ、何かの報いのように続く彼らの行為が、どうしても理解できなくて吐き気だけが胃の中にこみあげてくる。


 記憶の中をどれだけさかのぼってみても、胃が跳ねるような嫌悪感だけ。衝動的に抑えることができなかった嘔吐感は、そのまま目の前にある水面に吐き出された。


 すべてが最悪だ。最悪以上の言葉は存在しない。手のひらに残る熱の感触も、この嘔吐感覚も、僕にこんなことをさせている奴らに対しても、何もやり返すことができない自分自身にも、すべてがすべて。


 怒りで手に力が入る。えずいたことで生まれた涙の一滴が頬に垂れる。それを手で拭って、いつの間にか握りしめていた自分の拳に痛みを覚えた。


 すべて、すべてアイツのせいだ。すべて、すべて。こんなことになったのはすべて。


 人を憎んではいけない、そんな信条の裏腹に宿る一つの憎悪が、心をむしばんでいくのを実感する。


 そんな折に思い出すのは、母の言葉だった。





 小学生の頃の話だ。


陽輝ひてるは優しい子だね」と母は言った。病気で亡くなる数日前、死を悟った母が残してくれた言葉は、いつまでも心に残っている。


「そのまま、優しい大人になってね。陽向ひなたのこと、守ってあげてね。本当に、本当に、お願いね」


 涙をこらえながら、喉にしゃっくりが混じるような声音で、母は僕にそんな言葉を残した。


 弟を大事にしてくれ、という願いの言葉。僕の将来が幸福であるように、という祈りの言葉。きっと、優しさしか含まれていないであろう慈愛の言葉。


 だけど、それは僕にとって一つの呪いの言葉でしかなかった。





 父はいない。母が僕を身ごもったことを知ると、父は他の女に入れ込んでそのまま逃げたと聞いた。母はいつも父の話をしていた。彼は優しい人間だったのだと、自分が不甲斐ない人間だったからこんなことになったのだと。


 言葉の上では父をかばってはいたものの、その言葉を紡ぐ表情には憎しみが少し混じっていた。そしてその言葉を吐いた後は、決まって笑いながら「優しい人になってね」と僕に誤魔化すように言っていた。


 僕はその言葉に呪われている。これまでも、これからも囚われ続けて、呪われ続ける。


 優しい人間にならなければいけない。悪いことはしてはいけない。弟を守るために頑張って生き抜かなければいけない。そんな呪いに僕はかけられていると思った。


 僕には陽向がいる。もう一人しかいない唯一の家族である弟の陽向が。


 だから、死ぬことは許されていない。母との約束を貫くために、陽向を守らなければいけないのだ。


 でも、優しい人間ってなんだ。優しい人間ってなんだよ。


 独りの時間を過ごすたびに、そんな思考が僕の意識に渦巻いていく。


 優しい人間にならなければいけない、優しい人間にならなければいけない。優しい人間になって、陽向を守らなければいけない。


 でも、あらゆる罪を許すほどに優しくなければいけないのだろうか。自分の苦しみを取り除くことは優しさにつながらないのだろうか。自分を大事にすることは他人に対する優しさにはつながらないのだろうか。僕が死にたいと考えることは、すべて悪でしかないのだろうか。


 こんなことは考えたくはない。矛盾に苛まれて頭痛を覚えてしまうから。でも、考えずにはいられない。


 人を憎むことは悪いことだ。だから、人を憎んではいけない。それでも憎しみを抱いてしまうのは、僕が優しい人間ではないからだろうか。


 どうしてこんなことを考えなければいけないのだろう。そうしてこんなことで優しさしかなかった母の慈愛を、呪いと解釈しなければいけないのだろう。


 いつまでも繰り返すのは、吐き気と嗚咽だけ。


 心に残るものは、義務感のような生活と、その傍らで抱え続ける憎悪の塊だけだった。


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