キケンナアソビ
楸
第1話
◇
人を憎んだことがある。
人に対して、そんな感情を抱くことは間違っているのかもしれない。憎悪と呼ばれる単語には「悪」という感じが含まれている。だから、人が人を憎むことは悪なのだろうと思う。
それでも僕はアイツが憎くて仕方がなかった。
きっと人が人を憎むというのは、そこまで機会があるものでもないような気がする。家に帰ってから見るテレビや本などをめぐってみても、語られている大体のものが愛のようなものばかりで、それ以外に抱く感情など、人の不要物だとしか言わんばかりに禁忌のような感覚として語られれているような感じだ。
僕は人を憎んだことがある。……いいや、今でも憎んで仕方がないし、この感情が風化することはないような気がする。
人の裏腹に抱える憎悪という感情は簡単に消すことなどできやしない。他人にかかわって目に付く嫌な部分に関しては、第一印象からずっと抱えてしまうのに、適当に見つけた良いところなんてすぐに忘れてしまう。それは僕にとって愛に関連するような感情は“どうでもいい”という風にとらえているからかもしれない。
嫌いだ。嫌いで仕方がない。嫌いで気味が悪い。気味が悪くておぞましい。吐き気を覚える。嫌いという感情で、憎悪という感情で収まるのかはわからない。アイツの顔を見れば震えが止まらなくなるし、ふとした時に思い出せば悔しさを抱いて目に涙がにじむ。会話をすれば心の底から吐き気を覚えて、すべてから目を逸らしてしまいたくなる。
それが嫌悪感からくるものなのか、生理的な拒絶で来るのか。それともそうではなく、単純に彼に対しての恐怖心がそう演出しているのかはわからない。
彼に対しては感情が募る。
どこまでも、いつまでも。
感情は止まることなく、仕方のない徒労に悩まされる。
明日が怖い、明日が来ることが怖い。逃げてしまいたい。向き合うくらいならば目を逸らしてしまえば、どれだけ楽なのだろう。毎日を営むことに対して苦しさが伴い続けるのならば、きっと逃げ出してしまった方が楽なのだろう。
でも、僕にはそれができない。できない理由がある。毎日を投げ出したくて仕方がないが、それでも僕は死ぬことを許されていないし、耐えることしかできない。
この憎悪を抱えることでしか、僕は生きていくことしかできないのだ。
◇
夏の屋上には人は寄り付かない。屋上に人が立ち寄らないことに季節が関連するのかはわからないが、それでも馬鹿と煙は高いところが好き、という言葉を現実に示すように、馬鹿ばかりが屋上には集ってくる。
立ち上る煙の数々。不快な匂いが鼻まで届く。それに目を逸らしてしまいたくなるが、不快感を表情に出してしまえば、すぐに報いがやってくる。
はあ、というため息とともに吐かれる白さが薄くなったヤニの煙。
「午後の授業サボるべ」
「いいね」
「荒野行動でもやるか」
くだらない会話の残滓を耳に入れながら、僕は下を向くだけ向いて、そこに風景のように残留するだけ。
そこでは僕という存在は物でしかなく、人ではない。だから、風景の一部であることでしか許されない。
感情を持つことは許されず、ただ物であることに徹する。それだけで時間が過ぎるのならば、どれだけいいことか。
──でも。
「──おい、灰皿」
──そう声がかかり、反射的に背筋をびくりと弾ませる。は、はい、と声をわずかに震わせながら、僕は受け皿のように手のひらを広げて、彼らに差し出した。
屋上で喫煙をする三人の男子高校生。一人は僕の受け皿には興味がないように、屋上から空に向けて適当に吸殻をぶん投げる。
もう一人はニヤニヤとしながら、僕の受け皿に吸い殻をこぼそうとするけれど、それに対して「おい」とドスの聞いた声がかかる。
低い声音を発した彼の身なりは茶髪だ。ブレザーのネクタイをほどいていて、ワイシャツをズボンの外にはみ出す着方をしている。髪の中に隠れている耳にはピアスがいくつかつけられており、きっとファッション性といえるものが彼にはあるのだろう、とそう思った。
それはそれとして、彼への、中田 リツへの嫌悪感はぬぐえないけれど。
「そいつは俺の灰皿だっつってんだろ」
「……うい」
脅しのような声音で言葉を吐かれた彼は、委縮した様子を見せながら、自前で持ってきていたらしい携帯灰皿……、というか缶コーヒーの空き缶に吸い殻をしまい込む。
そんなものを視界に入れた瞬間に。
「──っぁあ!!」
──声にならない音が出る。それは悲鳴のような喘ぎ声でしかなく、肌にしみる熱の感覚を言葉で表現する小さな叫びだった。
「あぁ? 灰皿が声出すなよなぁ」
──手のひらに押し付けられる煙草の熱度。ぐりぐりと皮膚を貫通して神経を焼く感覚に、なんとか声を抑えることを努力する。
反発してはいけない。声を出してはいけない。苦痛を表現してはいけない。悲鳴をあげてはいけない。
どれだけ痛くても、苦しくても、辛くても、泣きそうでも、それを表現することは僕には許されていない。
だって、僕は物だから。無機物的な存在でしかないのだから。
ふー、とあからさまに気を抜くようなため息を吐いて、ぐりぐりと押し付けられる煙草の圧力はゼロになる。手のひらに残る熱の感触にしびれるような痛さを感じながらも、僕は堪えながら息を吐く。手のひらに残ったフィルターの残骸を指でつまんで、そっとそれをポケットにねじこんだ。
「あっ、もう行っていいよ。目障りだし」
彼から解放の合図のようなものをもらうと、僕は会釈だけをして、そうして屋上という環境から逃げるように去っていく。
手の平に残る熱の感触はぬぐえない。いくつにも重なった黒い焼け跡は、彼に出会ったときから毎日増えていった。
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