岸壁の母
鯖じょー
猟奇な人
ある夜、羽川遠子が住むマンションのドアノブが激しく音を立てた。と言っても、それは自分のドアノブではなく、同じ階の違う部屋のドアノブであったから、遠子は多少煩わしいとは思いつつも、そのまま布団で眠りにつこうとしていた。そうしているうちに、徐々に音がこの部屋へ近づいてきている。最初のうちは頭の外から聞こえていたのに、段々と脳内からガチャガチャと金属音が響くような感覚がしていた。
ふと、遠子は今自分がいる306号室の戸の鍵をかけたかどうか不安になった。なんとなく嫌な汗が流れた遠子は、玄関まで少し早足で向かいそのままドアノブに手をかけた。騒がしい音がすぐ隣まで近づいているのを感じつつも彼女は妙な安心感で動いていたが、ドアノブがゆっくりと回ってしまった。しまった、開いているではないか。そう思って急いで錠を下ろそうとした時、凄まじい勢いでドアが開き、真っ暗な夜の闇から面識のない男が、遠子の身体目掛けて飛びかかって来たのである。遠子は声も出せず、そのまま外へと引きずられていった。
考えてみれば遠子の人生は、小学生の頃から散々であった。眼鏡をかけて常にオドオドしている細い女というのは、他人に対して残酷さを用いることに抵抗のない同い年の子供からすれば格好の餌食であった。殴っても何もしてこない、何も出来ないような遠子に対して、子供達は随分と非情であった。ある時は誰かさんの給食費が何故か遠子の机に入っていたり、またある時は花瓶の中に雑草や虫を詰め込んだものが学校の机の上に、玄関の前に置いてあったり、またある時は学校に閉じ込められたりと色々であった。
父親は夜遅くまで仕事、母親はいつも外出していたから、家族からも相手にされず、孤独を奥歯で噛み砕きながら辛抱強く堪えて迎えた高校卒業。式の余韻そこそこにマンションに帰ってきた遠子は、自分の部屋に引きこもっていつものように両親の帰りを待っていた。いつまで経っても帰ってこなかった。暗い部屋がもっと重苦しく感じた。頭は良かった遠子はすぐに捨てられたことがわかったけれど、頭の中でそれを理解するのは出来ないというか、拒否をしてしまったから、長い間一人で泣いていた。
それからは大学に進学せずに、一人で働いてそのマンションに居続けた。いつも一人だったから、別にそれまでの生活と変わらなかったが、スマートフォンとインターネットに出会ってから、遠子の見る世界は結構面白くなった。時々スマートフォンから著作権の切れた文学作品やらウィキペディアを読んで、それに憧れて自分でも何かを書いてみて、インターネットの作品投稿サイトに投稿するのが趣味だった。今まで図書館で同級生に見つからないよう一人でこっそり読んでいたものが、どこででも見られるようになったのだ。こんな嬉しいことは無かった。給料は安いし相変わらず独りだけれど、インプットとアウトプットを繰り返している間は少し明るくなれた。そんな矢先の出来事であった。
遠子が引きずりこまれたのは、二つ隣の304号室であり、押し込まれた瞬間口をテープで塞がれ、手足をロープで縛り上げられてしまった。心臓が破れそうなくらい高鳴っていた遠子からしたら、呼吸が出来ないから必死に悶えて抵抗したものの、がっちり抱き締められた身体は震えることも出来なかった。
ブウブウと荒い鼻息が遠子の耳に当たる。生暖かい粘液で包まれた唇が、耳たぶにしゃぶりついた。これは、きっと、襲われているのだ。ここまで危機的状況に陥ってようやっと遠子は実感した。
男は遠子の高校時代の制服を破って、少し膨らんだ乳房に冷たい手を乗せた。部屋着を買うお金もいっぱいいっぱいだった遠子にとって、制服は一張羅であったから、それだけは辞めてくれと足をばたつかせたが、何とも応えない。そのままスカートにも手をやり、折り目を切り取り線みたいに引き裂いて、現れた太ももと股間を撫で回した。男の温い口が遠子の乳首に吸い付いて、大きくした股間を擦り付けて来る。
......不思議な感覚であった。こんなにも無理矢理にされているのに、何故かそこまで嫌な気分はしない。思い返せば、遠子は人生で一度として「女」と扱われたことがなかった。同年代からはもちろん、大人からも、親からも、一切女として扱って貰えなかった。そんな自分を、この男は、女だと思って、こらえることも出来ずに襲いかかった。そんなにまで、自分の中の女が、この男をおかしくした、なんということだ!
「ンン......ンゥッ......」
遠子の胸がぽかぽかするような感覚がした。嬉しくて、知らず知らずのうちに涙が流れていた。
そのまま凝固した男根が遠子の下着を押しのけて股ぐらに入り込んできた。初めてのはずなのに、痛みは全くなかった。遠子は思わず柔らかい声を出しながら男の首筋を鼻で擦った。何もかもが不自由な彼女の、精一杯の愛情表現であった。それから、長い間揺れる男の下で、遠子は彼の優しさを受け止め続けた。それがどんなに激しく、凄まじいものであっても、今の広く煌びやかな心の内には小さいものであった。
羽川遠子は初めて、恋とか愛とか、そういう、美しいものを知った。頭の中でしか考えられなかった愛の形を身体で浴びた。離さないでほしかった。何もかも彼の自由になってしまったような気がした。抱かれたまま、外から柔らかい陽射しが注いだ。今なら人生のうちで一番綺麗な顔をしていると確信出来た。恍惚の遠子は、疲れきってそのまま眠ってしまった。
目覚めた時、遠子の手足を縛った縄はほどかれていた。立ち上がると、股からどろりと精液が垂れ、汗と脂がよく染みた床にこぼれた。
「うわ......」
窓から入ってくる日光をスポットライトのように浴びながら膝を抱えてうずくまっている男を尻目に、遠子は自分の部屋に戻ろうと何も言わずに歩いていった。
「ちょ、ちょっと待って!」
玄関に手をかけようとした遠子に、男は駆け寄って立ち塞がった。
「警察に行くんですか!?やめてください、ほんの出来心だったんです」
遠子は呆れた。本当に衝動で行ったのだ。ほんの出来心で女を家に連れ去って犯すような弱い男なのだ。しかし遠子にとって今はそんなことより股の不快感が大事だ。体内からべたついてくる白濁の液が気持ち悪くてしょうがないのだ。
「別に部屋に戻ってお風呂入るだけだし、何かするわけでもないわよ」
「ほんとに......?」
「何?」
遠子がキッとした眼で睨みつけると、男は黙りこくってしまった。か弱い男である。
「あんた、名前なんて言うの」
「......和泉透」
「イズミトオルさんね。あたし羽川遠子、ハネカワトオコ。......まだそんな心配そうな顔して、なんなの一体。それだったらね、自分のシャワールームでも貸しましょうかぐらい言いなさいよ」
昨晩見せた決心の強さが嘘のようであり、ちょっとイラついていた遠子は強く言った。
「......シャワールーム、貸します......」
「そ。ありがと」
そのまま遠子は動かない透に背を向けて、自分に襲いかかった男が住んでいる部屋のシャワールームをまるで自分の部屋のように好きに使ってやった。シャワールームで身体を洗っている最中、ずっと頭の中で彼のことを考えていた。......意外と彼の顔は可愛いのである。そんな顔のくせに力自体はしっかり男で、肌艶は白く綺麗なくせに手や腕は骨格が女とは全く違った。言うなれば、何だかモテそうな良い男であった。そんな透が、何を思ったか、羽川遠子という特に何も特徴のない、そんな匂いなどありゃしない地味で暗い女を選んだのである。
「うふ......うふふ......」
お湯がタイルに響く中で、汚い笑いが跳ね返る。世の中は面白い。遠子は熱い顔を真っ赤に火照らせながら、股から彼の精液をかきだしていた。でもちょっとだけ残そうと思った。自分を愛してくれた証拠になると思ったから。そしてその指を口にして、軽く痙攣した。遠子は心から透を愛してあげようと思った。自分を選んでくれた男へのお礼に、強く決心したのだった。
それから遠子は透の部屋にいつくようになった。透からは離れるなと言われていたし、それで彼がヒステリックを起こさないのならばそれで良いと思っていたからというのもあるが、最近の遠子は少し変わっていた。それまでは何をしていても一人だったし、一人で生きていかなければならなかったから、あの暗闇の静かな部屋でじっとしていても心は落ち着いていた。
だが透と出会ってから、随分と心が晴れやかになった。なんだか身体の内から虫か蛇が吐き出そうなむず痒さが一日中走るようになった。そしてそれは、彼と「初めて」を紡ぐうちにどんどんと大きくなった。人生で初めて誰かと食事をした時、心地良さに毒された。あの快感がもう一度やってきてほしくて、彼とたくさんの「初めて」をした。初めて誰かと一緒に本を読んだ、初めて誰かと一緒に家事をした、初めて誰かと一緒に寝た、初めて誰かと一緒に外へ出た......そんなこんなを繰り返していく度に、遠子は顔がボッと火照って、心のチャックが弛んだ蕩け顔になってしまうのだった。
透は、勝手に心を踊らせる遠子を全く理解出来ずに、そばに絡みつく彼女をただただ恐ろしいものを見るような目で見るしか出来なかった。今夜も今夜とて一枚の布団の上で透の首筋を舐めるよう鼻で擦る彼女に、彼は聞いた。
「どうしてそんなことを......僕は貴女を襲ったケダモノですよ」
「だって好きなんだもの、それ以外に理由が必要?」
「な、なんで、そんな考えになって......」
「私のことはどうだっていいのよ、そんなことより、貴方はどうして私を襲ったのかしら。こんなひなびて日陰で暮らしているような汚らわしい女を、どうして?」
透は彼女に背を向けた。電気は消してあるけれど、微かな光を反射する遠子の眼がなんだか怖かった。
「......好きでいてくれる人が欲しかったんです」
しばらくの静寂の後、遠子の湿った唇が離れる音がした。首筋に絡みついている手が、じんわりと汗ばんでいる。
「一緒に映画や食事に出かけたり、遊園地の帰りにホテルに寄ってセックスをしたりする女性が欲しい。どんな見た目や趣味思想をしてたっていい、ただ自分のことをずっと好きであり続け、なんでも自分の言うことを聞いてくれるような女性がいい......そうずっと思っていました。だから自分が住んでたマンションに一人で住んでいる女性を全員調べて、あの夜に片っ端からガチャガチャやりました。そしたら、たまたま空いていたのが貴女だったんです......」
「......」
「僕はあの時、頭がおかしくなっていた。無理矢理でも、上手くやってあげれば相手は気持ち良くて、バカになって、僕のことを好きになってくれるって思ってた。でも本当は違った、僕自身が全く心地好くなかったんだ......愛し合っていなかったから......」
それまで優しく透を撫でていた遠子の腕に突然力が入り、彼の視線を無理矢理天井へ向けさせた。じんわりと彼の身体に細くも柔らかい肉体が広がっていく。そして、徐々に遠子の瞳が冷たく光り始めた。
「そうして貴方を好きでいてくれる女がここにいるわけだけれど、どうして今はそんなに悲壮な顔をしているのかしら」
透の首に遠子の爪がぴとりと立てられる。
「貴女はおかしいんだ。普通は好きになるはずないんだ、そんな性的奴隷のようなこと、起こるはずがないんだ......」
光る眼が、勢いよく透に近づく。ゆらゆらと揺れるさまは、怨念で燃え続ける地縛霊の人魂に見えた。
「そんなの、私が馬鹿みたいじゃない......貴方は都合良く自分を愛し続けてくれる人が欲しかったんでしょうに......」
遠子の皮膚が尋常なく冷たく感じた。
「私を初めて愛してくれた、選んでくれたのは、貴方......」
激しく荒い息が透の顔に吹きかかる。遠子の体表と違って、それは酷く生暖かった。遠子の胸が透の胸に重なって、お互い肋骨を突き破りそうなぐらいに心臓が高鳴っていることが伝わった。
「絶対好きって思わせたい......」
そう言うなり、遠子の唇が透の唇に重なった。大きな芋虫が舌に組み付いて、結び付いた。透の全身に引きちぎれそうなくらいの強い力が入った。そうじゃなければ耐えられない。まだ自分は、自分の行いを振り返り後悔出来るだけ、肉体的には堕ちるところまで堕ちたとしても精神的にはまだ、純粋で清潔で清純な男だと思っていた。が、その綺麗だと思っていた心を、自分が汚し心を狂わせた女に無惨にも砕かれてしまったのだ。
永遠とも思える暗黒の世界の愛が、徐々に透の心を蝕んでいった。あらゆる自分が、遠子の自由になってしまいそうであった。それからの記憶は、何もなかった。
それからというもの、遠子は一貫して透の理想の女になろうと必死であった。真っ暗な部屋に引きこもり体育座りで俯いている、自分の罪と向き合っているのか、現実逃避をしているのかよく分からない状況の腑抜けた男に、初めて愛した男としてただひたすらに尽くし続ける。そしてそれは自分の意思だとか、思考とか、体力とかを捨ててまでのものだった。
ただ、そんな滅私奉公な遠子でも唯一求めるものがあった。子供である。透と遠子の子供が欲しかったのである。これに関しては譲れない女であった。それまで収入はあったという透が動かなくなり、二人分の資金を捻出するために重労働をする遠子は、家に帰れば疲れた素振りも見せずに透の布団に入り込んでは首に噛み付き、搾り取ってはウットリよだれを垂らすのである。
そんなことを毎晩し続けているものだから、三ヶ月後には腹に愛の結晶を抱えてしまったのである。
だんだん腹が膨らみ、遠子が少しずつ動けなくなっていく様子を見て、とうとう焦りを感じ透も労働を再開し始めた。遠子の代わりに働いている間、常に彼の背筋は戦々恐々と震え上がっていた。誰と話してもぐっしょりと手汗をかき、深く考え事をして何も聞こえなくなることばかりであった。それもそうである。自分がいない間に遠子が逃げ出したら......出産するとして病院に連れて行ったら自分が彼女を強姦したことがバレてしまうのではないか......常に考えても考えても見えないトンネルのような未来を想像して、食べたものを吐き出していた。マンションに帰りたくなかった。
ある日、透の携帯電話に着信があった。出てみれば、荒い息の遠子が早く来てくれとこちらを急かしてくる。大慌てで帰った透を待っていたのは、嫌に優しく、そしてどこか気色の悪い微笑みをする遠子であった。
「見て、もうすぐ産まれるみたいなの」
喘ぎ声を漏らす遠子の股が広がっている。異様な蒸れ付きが部屋に充満していた。
「それだったら、早く病院に行かなきゃいけない」
「連れて行きたくないんでしょ。バレるのが怖いんでしょ......?」
図星である。透は目を背けた。
「じゃあ行かなくて良いわ。その代わり......見て。だから貴方を呼んだの」
遠子が立ち上がり、下がって逃げようとした透の顔を掴んで、深く味わうように彼の唇を貪った。透は自分が世界で一番不幸なキスをした実感に心をポッキリと折られてしまった。
真っ暗な視界がどろどろに融けて混ざるような目眩が襲ってくる。だがそれが逆にありがたかった。目を開けば、股をこちらに開いて喘ぐ女がいたから。時折何かが床にこぼれたり、悶えたりする音が聞こえるけれど、正体は知りたくない。透はもうあらゆる感覚を遮断して、なにも考えられないようにしたかった。しかしどんなに抵抗しても、うっすらと見える遠子の色、かすかに耳を通り過ぎる遠子の声、ほんのりと匂う遠子の体液の香りが、精神を徐々に蝕んでいくのだ。生命が生まれる過程というものは過酷だったとしても、もっとこう、人肌のぬくもりを感じられるものではなかったのだろうか。永遠とも思える時間を堪えるため透は必死に頭の中で問答を繰り返した。いつの間にか、遠子は笑っていた。聞こえたのは自分の子供の泣き声であった。
心を砕かれた透に代わって遠子は働きに出ていた。そういうわけだから子供は透の手で面倒を見ることになった。子供の名前は、(遠子曰く「多分女だから」ということで)「花子」になった。とある児童文学作家の名前だそうである。
花子は随分と大人しく、人懐っこい子だった。透か遠子がそばに入れば夜に泣き出さないしいつもニコニコしている、可愛らしい子だった。透が花子の世話をし始めてから一ヶ月経った。虚無の顔をしながらも心の中では穏やかに花子の世話をしていた透はふと、成長し世界からあらゆる常識と倫理観を吸収した彼女が、一時の興味で自分のアイデンティティを知ってしまった時、母が許し愛した父だとしても同じ女として透を憎むのではないかと思った。それはなんの気もなしに、前触れもなく現れた妄想の類に過ぎなかったが、いつの間にか頭の中がそれいっぱいに膨らんで、もうほかのことを全く考えられないくらいになってしまった。花子が透に笑いかけてくる。気を確かにして手を振ったが、透はこの笑顔がいつか自分を刺し殺す憎悪の顔に変わることを恐れた。女の執念深さというのは羽川遠子で嫌というほど学んだ。もう失敗したくない。透は強く思った。
もう十七時である。透は花子を優しく抱きかかえた。花子はすっかり安心して、静かに眠りについた。
遠子は透の部屋に入ってすぐ違和感に気付いた。花子の声が聞こえないのである。いつもなら遠子の「ただいま」の声を聞くなり喜びの声を上げるのに、今日に限っては泣き声も何もあげないのである。
遠子がすぐさま部屋に上がってみると、透が一人座っていた。彼が花子を抱いているわけでもない。
「花子はどこ?」
呼びかけても彼は答えない。部屋を探し回る。しかしいない。
「黙ってないで何とか言いなさいよ!」
「もういないんだって」
全く動かない、不安がろうともしない透に苛立って声を荒らげた遠子に、彼はそう返した。
「近くにヤセ崖ってあるでしょう。痩せるような想いが出来るってことでちょっと有名なあれです。あそこにいます」
小さく震えている透がそう言った。遠子はすぐに彼が何をしたのかを察して駆け寄った。
「あんた、気でも狂ったっての!?」
叫びながら肩を掴んで揺らした遠子を、透は無理矢理押し倒して顔を叩き始める。
「お前なぁ!俺の身にもなってみてくれよ!強姦魔とそれに恋した頭のおかしい女との間に生まれた子供なんて、幸せになりっこないだろ!」
遠子のこめかみに当たった手が彼女の眼鏡を弾き飛ばして壁にぶつけた。ガラスの割れる音がした。
「崖から落ちていっても、花子は俺のことをジッと見て、一言も喋れない口で助けてくれ、助けてくれって叫び続けてたんだ......目を瞑れば裏から浮かんで俺の事を呼んでくる......」
「馬鹿なことをするからそんなことになるんでしょうが」
「楽になりたかったんだ......全部無かったことにしたかったんだよ......」
透の顔が紙を丸め潰したようなシワだらけになっていく。
「だいたいなんだよ強姦魔に恋する女って!そっちの方がおかしいじゃないか!怖くて仕方なかったんだぞ!」
「だからって、人殺しをしていいわけないじゃない!」
「黙れ!」
どんどんと激しくなる殴打に、遠子は身の危険を感じた。犯された時よりも恐ろしい、死の恐怖が身体を包んだ。
「これは俺が決めたことだ!絶対に否定はさせない!」
「なんて臆病なやつ......!」
透が遠子の細い首に手をやった。骨が強く圧迫され、空気が薄くなる。目が眩んだ。なんとなく、これは彼が見た光景に近いのではないかと思いながらも、徐々に動かなくなる腕を必死に動かして周辺を探す。何か鋭利なものが遠子の手に触れた。遠子はそれの正体を知らずに、そのまま透の首目掛けて思い切りぶつけた。
随分と情けない声が聞こえた。少しずつ靄が晴れていく遠子の視界の先には、首にハサミが刺さって血を流している透が、吸っても漏れていく空気を身体全体で取り込もうとしていた。ついさっきまで殺そうと決心していた女の膝にすがりついてなんとしてでも生きようと試みる透の姿を見て、可愛い、と遠子は思った。
「ごめんね......こんなことしちゃって......」
遠子は首からこぼれていく血液を自分の身体で抑えた。透の温もりが流れていく。遠子は透の耳に自分の胸を押し当てた。徐々に死をまとっていく彼に少しでも安心して欲しかった。
「ごめんねぇ......ごめんねぇ......」
死のゆりかごになった気がした。遠子はぐっすりと眠ってしまった。
遠子が白い息を吐きながらヤセ崖へやってきたのは、日が出始めた頃だった。断崖絶壁から岩肌に打ち付ける波を見下ろしながら、遠子は服を脱ぐ。この荒れた海の底は意外と浅い。花子は真っ暗な海底でひとり寂しくなることなく、パッと死んだのだろうか。離れていく父親に向かって、一体何を叫んでいたのだろうか。それはきっと、この波風の音でかき消されていたのだろうと考えると、なんとも胸の締め付けられる想いでいっぱいになる。
遠子の胸はすっかり張っていた。行き場のない心境が自分の胸元を通って母乳になっているような感覚であった。
「もう必要ないっていうのに、出るものは出るものなのね」
乳房をそっと差し出すと、そっと揉んで搾る。少しずつ母乳が皿に滴っていく。遠子はそれを見ながら、自分が働いているから日が出ている間は粉ミルクを与えていたが、夜帰ってきてからは自分が与えていたのを思い出していた。生きた子供が飲んでいたものが、無機質な皿に与えられていく。あまりにも冷たい。胸が痛んだ。
様々な感情を含んだ母乳を、少しずつ花子の待つ海に傾けていった。ちょっとでも飲みやすくしたかった。今までやかましさしか感じられず子供嫌いだった自分が、良い人生を送ってほしいと色々と調べたことを思い出した。体調が悪くなり身体が重くなっても、俯いた透が花子に触れることで少し喋るようになったのを見て、もうちょっと頑張ろうと思ったりもしていた。しかしもう家に帰っても、返事をしない透の遺骸の他に、誰もいない真っ暗な部屋しかない。昔と同じようになっただけだ。なんなら透と暮らした時間も数ヶ月という、自分が今まで孤独に生きてきた年月と比べて非常に短いもので、むしろ一人の方が当たり前だった。なのに、なんだろうか、この胸の内から込み上げてくる不愉快さと喪失感は。思わず涙が出そうになったから、瞼を力いっぱい閉じた。
「誰のせいでもない......人生なんてこんなもんよ......」
そう自分に言い聞かせて、頬を叩いた。涙が引っ込んだ。
すぐにまた胸が張った。搾っても搾っても止まらないのは以前からであったが、気の乱れだと必死に胸を押さえつけて、遠子はヤセ崖に背を向けた。いつの間にか明るくなって、肌寒さもなくなっていたが、遠子は木枯らしの中歩くように身体を縮こませて歩いていった。
岸壁の母 鯖じょー @Sabazyor
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