三
少しずつ街は暗さを増していく。それに伴って、雨脚も強さを増していく。
「それはまたどうして」
織笠さんがスマホ越しに紫陽花を見るのをやめ、体を起こした。
私は少し考える。それを躊躇い取ったのか、織笠さんはフラットな調子で言った。
「話したくなければ、無理に話さなくても良いですよ」
「そういう訳では。どこから話そうかな、と」
「どこから?」
織笠さんが首を傾げる。
「理由が二つあるんです。だから、どこから話せばいいかな、と。まあ、順を追って話せばいいか。とりあえず、歩きましょうか」
「そうですね。お待たせしました」
リュックにスマホをしまった織笠さんが傘の柄を握る。私は素直に傘を渡した。
ゆっくりと歩きはじめる。
「一つ目が……いや、これはちょっと、あの恥ずかしいので言わないでおきます。二つ目の方だけお話しします」
ばらばら、と傘にぶつかった雨粒が音を鳴らす。その音に負けないように、少しだけ声を張って話し始める。
「幼稚園の年少の時、五歳の時ですね、その時に、家の裏庭で兄が両親にきつく怒られているのを見たことがあって。怒られて泣いてる兄の後ろに紫陽花が生えてたんです。だから、今でも紫陽花を見ると自動的にその時のことを思い出して、トラウマというか、なんとなく嫌な気持ちになります」
雨上がりのじめじめとした空気と地面に転がるジュースの容器。怒る両親。大泣きする兄の真っ赤になった頬と、同じ色をした紫陽花。その光景は未だにありありと思い出せる。
織笠さんがこてん、と首を傾げる。
「あら、お兄様、何か怒られるようなことをしてたんですか?」
「裏庭にジュースを捨ててたんです」
「ジュース?」
「はい。実際に捨てたところを見たわけじゃないんですけど、両親が『何で飲まずに捨てたの!』って怒ってたので。地面に空の容器も転がってましたし」
「何でそんなことをしたんでしょうか?」
「さあ……ちょうど反抗期で気難しい時期だったからじゃないでしょうか。親が買ってきた嫌いな味のジュースが気に食わなくて、飲まずに裏庭の土に撒いてたんじゃないですか。こんなもの飲めるか! みたいな。実際、こんなの嫌いだったんだー、みたいな声も聞えてましたし」
「はあ」
あまりよく分かっていなさそうな、ふわふわした返事だった。偏見だが、織笠さんに反抗期の経験はなさそうだから、気持ちが理解できなかったのかもしれない。
「捨ててたジュースが、よりによって兄のためだけに両親が買ってたものだったんですよ。だから、余計両親の逆鱗に触れたのかもしれません。
あとは、裏庭は母が熱心に世話してたんですけど、紫陽花はその当時植えたばっかりだったので、母親が特に怒ってましたね。『根が駄目になったら、どうするんだ!』って。あとは紫陽花以外にもツゲの木があって、それもすごい大事に育ててたので、さらにって感じですね」
「なるほど。それで、お兄様のためだけに買ってたジュースというのは?」
織笠さんが不思議そうに、こちらを覗き込んでくる。確かに、ここの説明がないと分かりにくかったかもしれない。
「ああ、えっと、当時兄は野球のクラブチームに入ってたんですよ。それで、体づくり、というか健康維持の一環で、カルシウム入りのレモネードとオレンジエイドと果実酢のドリンクが家に常備されてたんです。大量に買ったらかなり安くなるし、子供のおやつ代わりにもなっておやつ代が節約できるので、そういう意味でも我が家では重宝されてました」
兄のためのものだったし、幼稚園児の私にはかなりすっぱかったから、私自身はそんなに飲んだことはない。ただ、口寂しい時は母親にねだって、分けてもらっていた。でも、結局すっぱくて、渋い顔をしながら飲み切っていた記憶がある。
「兄はクラブチームの練習の時に、いつもそのジュースを持って行ってたんですけど、どうやらそれを飲まずに複数本ため込んでたらしくて。で、それを裏庭に一気に捨てたみたいです」
「なるほど」
ふむ、と織笠さんがうなずく。
「だから、兄は本当はすっぱいものとか柑橘味が嫌いだったけど、無理してジュースを飲んでいたんじゃないかと。それが、反抗期に入って我慢ならなくなって、裏庭に捨てたんじゃないかな、と思ってます」
そこで言葉を切ると、私は付け足すように言った。
「兄とはあまり一緒に食事を取らなかったので、すっぱいものが嫌いっていうのは多分としか言えませんけど」
「そうなんですね。兄妹仲があまり良くなかったとか?」
織笠さんが顎に人差し指を当てて、こちらに少しだけ視線を流す。
「そういう訳ではないです。兄は地元の野球のクラブチームに入ってたので、朝が早くて、夜は遅く帰って来てから夕食を食べてました。反対に私は朝ゆっくりで、夜は夕食を食べてから祖母の家にピアノを習いに行ってたので、夕食が早かったんですよ。だから、時間が合わなくて。
休日はさすがにお互い家にいたんですけど、結局兄は自主練に行ったり、友達と遊んだりして、私が夕食を食べてる時には家にいなかったんです。そうこうしてたら、今度は兄が中学に進学して、さらに時間が合わなくなって」
「あー、そういうことですか」
「兄妹仲に関してはよく分からないです。私自身はその紫陽花の一件があって以降、兄があまり得意ではないんですけど、兄は私のこと、結構可愛がってくれてたと思います」
何年も微妙な関係が続いていると思う。私自身、あまり感情を表に出すタイプではないのも、悪い方に働きかけている気がする。
織笠さんが、大きくうなずきながら話す。
「なるほど。というか藍川さん、妹なんですね。落ち着いた人なので、てっきり
お姉さんかと」
「姉でもあります。下に弟がいるので。六つ年下なので、今年から中三です」
「おおー、かなり年が離れてますね。三兄弟だ。兄弟とかちょっと憧れます。俺、一人っ子なので」
なんとなくそんな気はしていたけれど、口には出さなかった。このマイペースさは他に兄弟がいるように思えない。
「お兄様とはおいくつ違いなんですか?」
「七つです。だから、今は二十八歳ですね。隣の県で一人暮らししながら社会人やってます。って言っても、しょっちゅう旅行に行ってるので、正直家にいる時間の方が短いとか言ってましたけど」
「旅行がご趣味なんですね。いいなあ」
織笠さんがぽろりと溢す。どうも見た目の大人しさに反して、好奇心旺盛というか、知らない世界に飛び込むことに抵抗がないタイプらしい。この相合傘のことだってそうだ。
私はうなずいて言う。
「そうみたいです。昔からアクティブだったので。普段の生活をできるだけ切り詰めて、旅行費用を賄ってるみたいです。年に二、三回は海外にも行ってるみたいで、写真もしょっちゅう送られてきます」
「へえ、どんな写真が送られて来るんですか?」
「現地の人と仲良くなって一緒にご飯食べに行ったー、とか、美味しいバー見つけたー、とか、くだらないものばかりですよ。……見ます?」
「是非!」
目がきらきらと輝いている。ちょうど、信号に引っ掛かったところだったので、足を止め、私はバッグからスマホを取り出した。LINEを開き、兄とのチャット画面を表示する。
数枚の写真をスライドして見せる。
一枚目は、金髪碧眼の大柄な男性数人と食事している写真。テーブルにはビールとキャベツのサラダらしきもの、ステーキらしきものが乗っている。
二枚目は、茶色の目に茶髪の女性と食事している写真。兄は玉ねぎが乗った魚のムニエルのようなものを前にして、にかっと笑っている。
三枚目は、セロリと肉のようなものが入った茶色のスープに、夢中でスプーンを突っ込んでいる兄一人が映った写真。
四枚目は、色黒でぱっちりした目の青年と一緒に食事している写真。テーブルにはイカのサラダと思しきものが置かれている。
こうしてみると、なかなかいろいろなところに行っている。我が兄ながら、元気だなあという感想が浮かぶ。
「すごいコミュニケーション能力……見習わないと……俺も海外行くべきかな……」
こんなにおっとりしているのに、海外に行って大丈夫だろうか。すぐに何かしらの事件に巻き込まれそうな気がする。
「あとは、国内の写真ですね。兄はアルコールも好きなので、よく飲み歩いてるんです。私はあんまりお酒飲まないんですけど、一緒に飲みたいらしくて、可愛いカクテルの写真とかがよく送られてきます」
ついでにこれも見せておく。
淡い青色のカクテルを美味しそうに飲む兄の写真だ。この青いカクテルはお気に入りのようで、よく送られて来る。見た目も綺麗だし、妹がアルコールに興味を持つ入り口にしたいのかもしれない。
織笠さんは写真を見ながら、「へー」とうなずく。返事自体は随分気が抜けたものに感じられるが、写真に向けられた目がなぜか、暗闇の中の猫のようにすがめられている。
「ど、どうかしましたか?」
ただならぬ雰囲気に、思わず声を掛ける。
織笠さんは「へ?」と言いながら、顔をあげた。その時には、既にいつもの表情に戻っていた。
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