青年は、藤色の傘を持って五分ほどで玄関まで戻って来た。


「お待たせしました」

 青年が傘の柄のボタンを押すと、ぼん、と音を立てて傘が開く。滑らかで、重みのある音だ。

 青年の傘は、普通のものより骨の本数が多いようで、優美でまろやかなシルエットを描いている。一目で値の張るものだと分かった。


 紫藤しとうのものだろうか、と柄に目を遣ったけれど、〈SHITO〉の文字は入っていなかった。

 ちなみに紫藤とは双緒市の名家の名である。もともと傘を専門に作成する職人の一族だったらしいが、そこから手広く事業を広げ、今では「双緒の発展は紫藤なくして語れない」とまで言われている。

 今でも傘を取り扱う部門があり、このあたりで値の張る傘と言えば、大抵が紫藤のものなのだが。彼の傘は違うようだ。


「じゃあ、行きましょうか」

「あ、はい」

 玄関ポーチを出る。雨音に包まれた街を青年と並んで歩き出した。


 雨は少しだけ勢いを増している。その割に雲の色は白っぽいため、奇妙な明るさがあった。


「自己紹介しておきましょうか。俺は織笠周おりかさあまねです。

 西陣織の『織』に、笠地蔵の『笠』、周辺の『周』で、織笠周です。学部は文学部で、今三年生です。あ、専攻は近現代の日文、えっと、日本文学ですね」

 青年、もとい織笠さんは前を向いたまま、静かに言った。織笠さんに倣って「私は……」と言いかけたけれど、それは遮られた。


藍川あいかわさん、ですよね。藍川夏凛かりんさん」

「……どうして私の名前を」

「以前、学内新聞でお見かけしたことがったので。〈ほまれ〉の特集が組まれた時に、サークルメンバーとして集合写真と名前が載ってました」


〈ほまれ〉とは私が所属しているボランティアサークルのことだ。奉仕活動を盛んに行なっていたという初代学長が名前の由来らしい。

 確かに、〈ほまれ〉は昨年の九月に学内新聞の取材を受け、部長のインタビューとサークルメンバーの集合写真が掲載されている。サークルメンバーは二一名。決して多くはないが、少なくもない数字だ。それなのに、私のことを覚えていた、と?


 訝しむ目を向けると、織笠さんはさして気にしていない様子で喉を触りながら言う。

「俺、昔から記憶力良いんです。藍川さん、顎のほくろが特徴的なので、特に印象に残りやすかったですよ」

 織笠さんは自身の顎を人差し指でとんとんと叩く。それからはにかんで言った。

「ただ、さすがに他には何も知らないので、教えていただけると嬉しいです」


 なんとなく空恐ろしいものを感じながら、私はおずおずと述べた。

「……経済学部の三年生です」

「お、同学年ですね。卒業論文のテーマってもう決めてます?」

「……いや、まだですね。なんとなくの方向性はうっすら考えてますけど。織笠さんは?」

「俺もまだですねえ。あ、でも、梶井基次郎とか良いなって思ってます」

 梶井基次郎。と言うと。

「『檸檬』の作者、でしたっけ」

「そうですそうです。あとは『桜の樹の下には』なんかも有名ですね」

「『桜の樹の下には』?」


 聞いたことがあるような、ないような名前だ。

 有名作ということはどこかで耳にする機会もあったのだろう、と思っていると、


「『桜の樹の下には屍体が埋まっている!』」

「ひいっ!」


 唐突に耳を叩いた大声に、つい情けない反応が出てしまった。

 ばくばく鳴る胸を押さえながら、声の主を振り返る。当の本人はけろりとした様子だった。


「あら、すみません。驚かせてしまいましたか」

「何なんですかそれ」

 隠しきれなかった苛立ちがほんの少し語気を強くする。


「『桜の樹の下には』の冒頭部です。簡単に言ってしまうと、桜が美しいのは根元に死体が埋まっているからだ、って話ですね」

「……随分悪趣味な話ですね」

「そうですか?」

 織笠さんはこてん、と首を傾げている。本当によく分からない人だ。


 大学の敷地内を出て、五分ほど歩いた位置にあるスクランブル交差点で、足止めを食らう。

 並んで待っている近くに、小さな花壇があった。そこには数本の紫陽花が植えられている。

 織笠さんは、ほんのり口元をほころばせて、紫陽花に手を伸ばした。

「お、紫陽花だ。ここのは紫色ですね。せっかく綺麗な紫色ですけど、紫陽花は花の色が変わりやすいですから、この色が見られるのも今だけかもしれませんね」

「土壌のphで変わるんでしたっけ」

「そうですそうです。酸性が、っつ」

「え?」


 織笠さんはこちらを見て、にへらと笑った。

「お騒がせしてすみません。葉のふちで指を切ったみたいで。あ、血出てきた」

「ちょっと、大丈夫ですか⁉」


 私は慌てて、バッグの内ポケットを探る。あった、絆創膏だ。

「指出してください」

「そんなに大きな怪我じゃないですよ」

「でも、絆創膏貼らないと、血が」

「そこまでしてもらうわけには」

 織笠さんは最後まで渋っていたけれど、私は勢いに任せて、血の出ている人差し指に絆創膏を巻いた。


「ありがとうございます。手当てしていただいちゃって」

 織笠さんは絆創膏の巻かれた人差し指を立てて、じっと見つめてから、私の方に向き直り、頭を下げた。

「別にいいですよ」

 私は目を逸らしながら、答える。親切心というより、からやったことだったので、一抹の罪悪感を感じる。


 信号はもう既に青になっていたけれど、織笠さんは紫陽花が随分気に入ったようで、足を止めたままだ。普段は通らない道なのかもしれない。

「それにしても、この紫陽花綺麗ですねえ。そういえば、藍川さんの髪型も紫陽花みたいですね。綺麗です」

 私は自分の首筋に手を遣る。夏が近づくと、いつも髪を軽く編んで、うなじ辺りで団子状にまとめていた。確かに、小さな花が集まって咲く紫陽花のように見えなくもないかもしれない。

 というか、また「綺麗」と言ったなこの人。ただ、何と言うか褒められている気がしない。本人は褒めているつもりだろうし、事実褒められているのだろうけれど、そこに特別に意味が込められていない気がする。真に受けるべきではないと本能が言っているので、最初に言われた時ほど何か思うことはなかった。


「ちょっと、紫陽花の写真撮っても良いですか? もうとっくに信号変ってますけど」

「どうぞ」

「やった、ありがとうございます」

 いそいそと、織笠さんがリュックからスマートフォンを取り出す。片手では写真を取りにくそうだったので、私は無言で傘の柄を掴む。織笠さんは私の意図が分かったようで、はにかみながら軽く頭を下げると、傘を私に渡した。


 中腰になって写真を取る織笠さんの横で、私はぼんやりと紫陽花に目を向けていた。

 紫陽花か……。


「どうかされましたか?」

「え?」

「いや、浮かない顔をされていたので。体調が優れないですか?」

「そういうわけでは」

 私は少しだけ目を伏せて、答える。もう十五年近く前のことだ。引きずっている方がおかしい。

 ただ、なんとなく話してみようと思った。織笠さんの浮世離れした雰囲気と、雨に沈んだ街の、どこか異世界じみた空気が、そうさせたのだろう。後になって思えば、愚かなことにメランコリーに酔っていただけかもしれないが。


 私は静かに口を開いた。

「……私、紫陽花があまり好きではないんです」

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