探偵は傘の下
久米坂律
一
「雨が降ると、経済的にも涙の雨が降る」とは、我が
経済産業省が二〇〇八年に発表した資料によると、雨の降る日数が多いほど、最低気温が二五度未満の日数が多いほど、消費支出が減少するらしい。降水量一mm以上の日が一日増えると、一人当たりの消費支出が約三〇〇円減少することになるそうだ。
また、毎月の消費支出は平均〇、六%、気象に影響されていることとなるという。
かなり前の資料であるため、信憑性のほどは分からないが、人の営みはそう簡単に変わるものではない。今でもそれなりに妥当性のある説だと思う。
ただ、むしろ雨の日に支出が増加する物もあるだろう。
例えば、そう。傘、とか。
「……」
文系学部棟一号館の入り口。庇に覆われた玄関ポーチの端ぎりぎりのところに立って、私は腕を前に差し出す。
むき出しの前腕にぽつり、と冷たい感触。それを皮切りに、いくつもの雫が私の腕を濡らし始める。ペトリコールが鼻をくすぐる。私はこれ以上気が滅入らないように、腕を引っ込めた。
六月十四日、金曜日、午後三時二十二分。
私は途方に暮れていた。簡単に言おう。雨が降っているのに、傘を忘れた。
未練がましくもう一度ショルダーバッグを漁るも、あるのは筆箱、パソコン、ノート、財布に定期券。折り畳み傘は見当たらない。
五限の時はまだ降っていなかったと思う。それが六限を終えて帰宅しようとした折に、雨が降り出した。運が悪い。
ここから駅まで、歩いて四十分はかかる。その間、傘無しはさすがにきつい。
こればっかりはどうしようもないので、私は財布を取り出し、中身を確認する。コンビニでビニール傘を買おう。私のいる
雨の日に停滞する経済を回してやろうではないか。半ばやけくそになりながら曇天を睨みつけ、ぐっと覚悟を決める。玄関ポーチから走り出ようとしたその時、
「あの、すみません」
背後から、落ち着いた男性の声が聞こえた。振り返ると、真っ直ぐな黒髪の青年が立っている。年のころは私と同じくらいに見える。おそらく文系学部の学生だろう。
「良ければ傘、入っていきますか?」
まさに渡りに船。
ただ、気になるのは「傘に入っていく」という表現だ。
「それはつまり、あの……」
「相合傘ということになりますね」
さらりと答える。
頭の中を「ナンパ」という言葉が掠めていく。
私の訝しむ様子が分かったのだろう。青年は説明を始める。
「俺、傘がなくて困っている人に相合傘を提案して、交流をするって活動を個人的に行なっていて」
青年は「いや、なんかこの言い方だと怪しいな……」とぶつぶつ言いながら、なおも言葉を重ねた。
「ええと、そのボランティアみたいなものを勝手に、自主的に、やってるんです。だから、決してナンパとかそういうものでは。いや、とても綺麗な人だな、とは思ってるんですけど」
何だこの人。ナンパではないと言いながら、「綺麗」という言葉を簡単に使った。顔をちらりと見やるが、何を考えているのかよく分からない。おっとりとした雰囲気の中に、どことなく浮世離れした感じがある。
「もし不安なら、学生証をお見せします」
その言葉に、どうするべきかと私が目を泳がせると、青年は自身のリュックの中を探りながら、
「まだ不安なら運転免許証もありますし、健康保険証もありますし、あ、マイナンバーカードもありますよ!」
社会的信用のあるカードのバイキングが始まってしまった。というか、
「マイナンバーカードは見せちゃ駄目でしょう」
「え? あ、そうでした」
たはは、と青年が頭を掻きながら笑う。
私は少し考える。唇を湿らせてから、口を開いた。
「……じゃあ、傘、入れてもらえますか」
「カード見なくて良いんですか?」
「なんか、まあ、大丈夫です」
青年はにこりと微笑んで、
「じゃあ、ゼミの教室に傘置いてるんで、取ってきますね」
と学部棟入り口の自動ドアに吸い込まれていった。
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