第5話 すすり泣く女の子
ダンジョンには、人の想いが堆積している。
その想いに触れたとき、モンスターたちは消滅し、ダンジョンは光で溢れていく。
光が収まると、そこは水浸しの洞窟ではなかった。
いつの間にかとなりに立っていた美冬さんが、周囲を確認して目を丸くする。
「……ここは、元の世界でしょうか」
「いいや、遺物が使えるから、まだダンジョンの中だよ」
彼女が間違えるのも無理はない。目の前に広がっているのは、雑草の生い茂る河川敷。
川見つめて立ち尽くす女の子がいた。麦わら帽子を被って、ワンピースを着ている。背丈からして、まだ小学生くらいなのだろう。
「私、行きます」
美冬さんが歩き出したので、俺は少し後ろで待っていることにした。
空色の少女が、女の子の肩にそっと手を当てる。
「ねえ、どうしてこんなところで立っているの?」
「まってるの」
女の子の声は、ぞっとするほど力の抜けたものだった。命への執着を失った人だけが発することのできる、虚ろな響き。
「まってるの。お父さん、お母さんのこと」
「お父さんとお母さんは、どこにいるの?」
問いかけると、女の子は真っ直ぐに指さした。その先では、川が流れている。
もちろんそこに、父や母らしき姿はない。ただ水の流れがあるだけだ。
それだけで、全てを察するには十分だった。彼女がここから離れられない理由。ダンジョンを作るに足る、人の想い。
「……くるもん。帰って、くるもん」
少女の泣き声が、静かに響く。美冬さんは、そっと女の子を抱きしめて、その頭を撫でた。
「お父さんとお母さんのこと、大好きなんだね」
「まってるの。……ずっと、まってるの。……なのに」
「ねえ、お姉さんと一緒に来ない?」
「……え?」
「お父さんやお母さんの代わりにはなれないと思う。でも、私、あなたのことがすっごく好き。だって、あなたが作るのは、とっても綺麗なダンジョンだったから。――だからお願い。もう、一人で泣かないで」
一滴の涙が落ちた。波紋が広がって、そこからダンジョンが崩壊していく。
小さな女の子の、力強い声が響いた。
「……うん!」
◇
地球へと帰ってきたときに感じるのは、どうしようもない体の重さだ。
ダンジョンを出ると、遺物はその力を失う。さっきまで思い通りに動いていた体は、重力と肉体の制限に縛り付けられる。
翼をむしられた鳥のように、こちら側ではなにもできないことを思い知らされる。
もしかしたら、俺は。この感覚から逃げるために、ダンジョンへ向かうのかもしれない。そう思ったことが何度もある。
ゲートが消え、何もなくなった地面に、美冬さんは座り込んでいた。
「お疲れさま」
「ああ……鏑木さん。ありがとうございました」
「それは?」
「たぶん、あの子がくれた遺物です」
美冬さんは手のひらの中で、ミサンガをそっと包む。
それから、ふと思い出したように俺の顔を見つめてきた。
「あっ、すいません。これ、私のものみたいにしちゃって……」
「それは美冬さんの遺物だよ。あの子も、君に使ってほしいだろうし。それにほら、俺はもう十分持ってるから」
今日持ってきた三種類の遺物。しばらくのあいだは、これで十分だろう。
防御なし、汎用性あり、ギャンブルあり。エンジョイ勢には最高の装備だ。
「配信はもう切れてるの?」
「はい。ダンジョンを出ると、自動的に切れるようになってます。SNSに生存報告しておきますね」
スマホを操作して、視聴者たちに無事を伝える美冬さん。それが終わると、鎌を折りたたんで収納し始める。刃と柄の部分がたためるみたいで、意外と持ち運びに不便がなさそうだ。
まだ空が青い。ダンジョンに入ってから、それほど時間は経っていないようだ。
「もう一カ所くらいいけるか」
「冗談……ですよね?」
「さすがに今日はやめておくよ。遅くなったら、妹に怒られるし」
「体力は余ってるんですね」
しっかりドン引きされてしまった。
でも一日にダンジョンは一つまでって決まりはないし……俺、おかしくはあっても、間違ってはないよな。
「帰りのタクシーを呼びました。来るまでゆっくりしましょう」
「じゃあ、ジュースでも買ってくるよ。なにがいい? 俺は炭酸」
「あ、なら私も同じもので。お金、後で払いますね」
近くに自販機を見つけたので、炭酸飲料を買う。運動した後は、これが沁みる。
一気に半分ほど飲んで、大きく息を吐き出す。
ぬるい風に乗って、甘い香りがした。それが美冬さんのものだと気がついたとき、彼女と目が合った。
「鏑木さん。私の話、聞いてもらっていいですか?」
「もちろん」
「私が初めてダンジョンに入ったとき、私は、自殺しようとしてたんです」
内容に反して、彼女のトーンが軽い。それは美冬さんが、既にそれを過去のことだと割り切れているからだろう。
「ゲートが地球にできて、立ち入り禁止の措置が追いついていないときです。私は、自分の部屋のベランダから、マンションの下にできたゲートに飛び込んだんです。死にたいという気持ちと、ほんの少しの好奇心で」
そこにゲートがなければ、彼女は既に帰らぬ人となっていただろう。
美冬さんはほんの少し間を開けて、言葉を繋ぐ。
「真っ暗なダンジョンでした。光の一つもなくて、でも、それがすごく安心したんです。『やっぱり、死ぬのって素敵なことなんだ』って、思いました。しばらくして、鎌を持った死神さんが来たんです。真っ暗な中で、それだけはぼんやりと見えました」
折りたたんだ鎌を撫でる。少女が浮かべる笑みは、なにかを愛おしむように柔らかい。
「『ありがとう』って言ったんです。こんなに素敵な終わり方を、私に与えてくれて。首を差し出しました。斬りやすいように。でも……死神さんは私を殺してくれませんでした。あの人は自分の鎌で、命を絶ったんです。私を生きて返すために。ずるいですよね。そんなことされたら、生きていくしかないじゃないですか」
だから、彼女の鎌には【死神の温情】という名前がつけられたのだろう。
死神は、自分よりも彼女が生きることを選んだ。きっと、他の誰かだったらそうはならなかっただろう。普通に敵対して、どちらかが倒されていたはずだ。
死を受け入れた者だけが、勝ち得ることのできた遺物。
「俺じゃその遺物は回収できなかったな」
「はい。だから、私の自慢です」
美冬さんは鎌を撫でて、そっとケースにしまった。
ただ倒すだけでは、絶対に得られない。理解しようとして、手を伸ばして、結んだ先に力があるだけだ。遺物とはすなわち、冒険者とボスの絆である。
「やっぱり、君は冒険者に向いてるよ」
「ありがとうございます」
弾けるように美冬さんが笑った。
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