第6話 行方不明

 昨日の防犯カメラからは、新しい情報が出てくるわけではなかった。

 ちょうど、彼女が踏切に入ったあたりは、死角になっているようで、踏切に入った様子がハッキリと見て取れるわけではなかった。

 鉄道会社に確認すると、

「さすがに踏切からあれだけ離れたところを映す防犯カメラのようなものをたくさん設置はしていませんからね、どうしても、死角はできてしまいます」

 ということであった。

「これじゃあ、防犯カメラの意味はないじゃないか」

 ということを考えているようだったが、それも、仕方のないことだとしか思えない。

 実際に、防犯カメラからは、新しい事実が出てこなかったのは仕方がないとして、後は目撃者ということだが、

 その目撃者というのも、正直出てくるわけではなかった。

 実際にあの時間というと、家にいる人も、昼食を終えて、テレビを見たり、ゲームをしたりという、

「まったりタイム」

 の人が多いということであった。

 表が騒がしいということで、人が出てきたというのがやっとで、ということは、

「事故現場を見ていた人は誰もいない」

 ということだった。

 さらに、あの時踏切待ちをしていた車も、営業車が多く、一台に運転手が一人乗っているだけという車が多く、そのため、皆、踏切に注目していたようだ。

 電車が来るかどうかは、マンションで見えないので、静かに電車がやってくる感覚を研ぎ澄ませるようにしていたので、他を見るという精神的余裕はなかったのだった。

 ということは、実際に線路に入ったのを見ていたのは、竹下巡査だけだということになる。

 そうなると、警察としても、その証言だけを元に捜査するしかないのだが、いくら、田舎道で、人通りも車通りも少ないところで、時間帯として、目撃者がほとんどいないとはいうのも、おかしな話だった。

 もし、これが事件だとして、犯人がそれを狙っていたというのは、あまりにも都合がいいことであろうか?

 ただ、それは、あくまでも、竹下巡査の供述をまともに信じればのことである。

 しかし、ここまで他の人の証言が得られなければ、

「竹下巡査の勘違い」

 ということだってありえるだろう。

 いくら、巡査歴が長く、警察としての同僚の証言なので、

「信じてあげたい」

 というのは、当たり前のことである。

 そのことを考えると、

「やっぱり、警察は警察を信じてしまうというのは、昔からあることなのに、どうして、縄張り意識のようなライバル心が出たりするんだろ?」

 と感じるのだ。

 むしろ、

「縄張り意識が強い中で、どうして、警察が警察を信じることの方が、おかしな気もするのだった」

 と言えるだろう。

 そうなると、

「警察は、人間を信じる」

 というよりも、

「警察の人間が警察を信じない」

 ということになると、それこそ、警察のメンツと、威信にかかわるからだといえるだろう。

 結局、警察というところは、まわりの目をどうしても意識する。

 下手をすれば、

「警察の不祥事や、手落ちという、あら捜しをマスゴミにさせて、それを暴くことで、世間の話題をかっさらい、自分たちの記事も売れれば、ありがたい」

 ということなのかも知れない。

 実際に、

「警察というものが、信用されていないだろう」

 ということは、現場の刑事には分かっているような気がする。

 ここ数十年での刑事ドラマ系を見ていれば、そんなにになるのは当たり前というもので、実際に、刑事として捜査をしているのを見ていると、

「横のつながりがなく、さらに、キャリア組、ノンキャリ組と、その差は歴然としていて、その間には、結界と言えるようなものが存在している」

 と言えるだろう。

 だから、自分たち刑事も、昔の刑事ドラマのDVDなどを見て、

「いいところ、悪いところ:

 のそれぞれを感じていた。

 昔の、特に昭和の時代の警察というのは、今とはまったく違う。

 何と言っても、取調室や、刑事部屋と呼ばれるところは、本当に、

「役所」

 という感じであった。

 取り調べ室など、まったくひどいもので、灰皿に吸い殻が、山盛りになっている。

 長時間に渡る、取り調べで、ストレスは最高潮、タバコの本数が増える一方なのは、当たり前だといえるだろう。

 しかし、今の取調室はキレイなものだ。

 何と言っても、

「禁煙である」

 ということだけでも、まったく違うのだ。

 昭和の頃も、基本的には、禁止されていた、恫喝による自白の強要は、かなりあっただろう、

 刑事ドラマなどで、取り調べ中に、怒鳴り声をあげて、

「お前がやったんだろう?」

 という言葉と同時に机を叩いて、恫喝するというやり方、もちろん今でも許されない。

「あり得ないことだ」

 といってもいいだろう。

 刑事ドラマなどでは、スタンドのようなものを、目にかざしたりして、完全な脅迫に近いものだったが、容疑者の態度も、かなりのものだった。

 踏ん反り返っていて、刑事を睨んでいる。

 そういえば、刑事ドラマの取調室では、比率から言って、

「おとなしい容疑者へんお取り調べシーンよりも、ふてぶてしい態度の容疑者の方が、数倍いたような気がする」

 というくらいであった。

「警察というものを、なめんじゃねえ」

 と刑事が言いたくなるのも無理もないほどのふてぶてしさ。視聴者にもそう思わせるだけの演出があるのも、無理もないことであろう。

 警察が逮捕交流の場合は、48時間というのが決まっている。それでも、白状しない時は、延長もあるのだが、それでも、事件が進展しない場合は、

「証拠不十分における、釈放」

 ということになる。

 しかし、そこでその人を、二度と罪に問えないということはないので、警察は、

「まだ、怪しい」

 と思えば、そのまま尾行をつけるというのは、当たり前のことであった。

 それに、刑事の取り調べがきつく、それによっての自白は、刑事側の敗北ということになる。

 というのも、ここで自白をもって、検察側は、

「起訴することになる」

 であろう、

 つまり、自白だけで、起訴するというのだから、これが、

「相手の狙い」

 ということになるのかも知れない。

 これが、裁判ということになると、基本的には、いろいろな証拠から、検事と弁護士が、それを武器にして争うわけである。

 さすがに、今の検察では、

「自白をもって、送検」

 ということはしないだろう。

「裁判になって、警察の行き過ぎ捜査において、自白の強要があったということを前提についてくるだろう」

 ということになるのだ。

 もちろん、起訴するにあたって、若干の証拠がなければ、いくら検事でも、それはないだろう。

 何しろ、起訴した検事が、裁判で争うわけなのだから、しかも、相手が百戦錬磨の弁護士ということになると、よほどの証拠がないと裁判になると、厄介なことになるのであった。

 警察というところは、

「捜査において、事実だけを地道に捜査している」

 ということであるが、弁護士というのは、あったく違うのだ。

 基本的に、逮捕拘留され、毎日取り調べを受けている中で、若干の時間の面会が許されるという程度である、

 その中で、依頼人である容疑者の、

「利益を守る」

 というのが、弁護士の基本的な存在意義であった。

 それは、裁判に入っても続くことであるが、

 検察も、弁護士も、被告人に対して、分かり切っているような質問をしたり、あつめてきた証拠を裁判所にあらかじめ提出しておいたり、さらに、証人を探してきて、出頭させたりという手順を踏んで、最後は判決ということになる。

 弁護士は、

「どんなに、こちらが不利であったとして、実刑は免れない」

 と考えると、今度は、情状酌量を狙って、被告の人間性を訴えてくれる、被告の知り合いを探して切る方に。舵を切ったりするのだ。

 だから、

「弁護士は、被告の利益を守る」

 ということで、

「この人が、犯人かも知れない」

 と思っても、できるだけ、罪を軽くする方に舵を切ることも当たり前にあることだ。

 そこで、弁護士として、一番大切なことは、

 限られた面会時価の中で、

「私にだけは、ウソは言わないように」

 というのを言い聞かせることだった。

 確かに、

「犯人は、自分が助かりたい一心でウソをつく」

 というのは、それこそ本能というもので、

 だからといって、自分を助けてくれるはずの、弁護士に対しては、

「ウソをいうことは、本当は、自殺行為になる」

 ということを分かっていないだろう。

 ここで、

「ウソをつく」

 というのは、裁判における、

「黙秘権」

 とはわけが違っている。

 というのも、裁判における、黙秘権というのは、

「自分にとって、不利になることは言わなくてもいいが、逆に口に出してしまったことは、すべて証拠として扱われる」

 ということが言われるのであった。

 だが、それは、

「裁判という形式的なこと」

 と違って、

「その人の利益を守るため、金銭で雇った弁護士なので、相手は、裁判で勝つためには、何でもする」

 ということで、必死であった、

 それは、

「金銭的なところ」

 でも、言われることであったが、それよりも、

「自分の弁護士としての、キャリアが、裁判に勝つと負けるとでは、雲泥の差になってしまう」

 ということになるのだ。

 だから、

「決して負けられない戦い」

 というものをしているのだから、弁護士も必死なのである。

 しかも、相手はお金を出して雇っているのだから、

「助かりたい」

 と思うのは当然だが、弁護士の仕事を知らずに、

「ただ、仕事だから」

 ということだけしか考えていないと思うと、結果として、

「信じ込んで、すべてを話してしまっていいのだろうか?」

 つまりは、

「人を信用できなくなっている被告だっているわけで、そんな状態にした被害者に対して、過去の恨みを晴らした」

 ということであれば、本当は、そのことを包み隠さずに話さなければいけないが、どうしても、弁護士というものを勘違いしていると、言えなくなってしまう。

 もし、弁護士が知らないことを、検察側から指摘でもされると、

「弁護士としてのメンツも丸つぶれ」

 ということになり、

「そんなに私が信用でいないのであれば、もうあなたの弁護などできないですよ」

 といって、法廷が終わると、面会でそういうかも知れない。

 そうなると、最悪の場合、

「裁判の途中で弁護士が変わる」

 ということもありえなくもない。

 被告がm、それを選ぶことができるからだ、

 だから、ここでいうウソというのは、

「何も、ウソをついたことだけが、ウソではない」

 つまりは、

「言わなければいけないことを言わなかったとしても、それはウソの類になるというわけだ」

 ということになる。

 被告が、

「正直に話してくれない」

 ということであれば、

「私には弁護はできない」

 ということで、引き下がることもあるだろう。

 もちろん、それが、被告の意見で会った場合であろうがである。

 そんなことを考えていると、今のところは、

「事故の可能性が、限りなく高くなってきたようだ」

 と言える。

 証人としては、武下巡査が見た光景だけであり、それ以外に、事件を臭わせるものはないのだった。

 しかし、気になるのは、

「被害者を介護していた」

 という介護人の行方であった。

 会社には、

「休みがほしい」

 といって、何の疑いも持たれる、休暇に入っていたが、実際に、住んでいるマンションに行ってみると、そこにいる気配はなかった。

 だからといって、

「行方不明」

 と決めつけるのは、早急であったが、一つ、会社の方で気になることを言っていたのだが、その内容というのが、

「彼は休暇に入った時、前は毎日のように、定時連絡をくれなくなったんです。もっとも、その頃から、よく旅行に出かけることが多きなったからいうのが理由でした」

 と言っている。

「でも、よく旅行に行っていたと分かりましたね?」

 と聞くと、

「それはそうですよ、お土産とか買ってきてくれていたので、疑う余地はありません。何といっても、休暇なんだから、その時間を本人がどのように使おうが、会社には関知する権利はありませんからね」

 というのだった。

 それは、当たり前のことであり、そこまで会社が介入するというのは、今の時代においては、

「コンプライアンス違反」

 といってもいいだろう。

 何といっても、会社は、個人を縛り付けることはできない。

 これが拘束外の時間なのだから当たり前だが、拘束時間であっても、縛り付けることはできない。

 それをすれば、

「パワハラ」

 であったり、

「モラハラ」

 という風に言われてしまうだろう。

 それを考えると、会社側が、社員のプライバシーに踏み込めない以上。

「何かあっても、それは会社とは関係のないところだ」

 と言って、

「逃げる」

 ということもできるのではないか?

 と言えるのだった。


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