第2話 石ころという存在

 踏切事故というのは、

「一人の女性が、踏切に入り込んでしまって、それによって、列車が飛び込んできたということで、そのまま、轢死してしまった」

 ということであった。

 その時の様子を、たまたま、警ら中だった、竹下巡査が、その光景を目撃したのだった。

「いくら警官と言っても、あんな場面を見てしまうと、相当なショックを受けるというのも分からなくもないわね」

 というのが、主婦が、事故後に竹下巡査のことをそうウワサしている時期があったのだった。

 竹下巡査は、しばらく精神科に通うほどのショックを受け、トラウマのようになっていたのだ。

 当時は、30代半ばくらいであったが、それまで警官を続けてきて、あのような悲惨な状況を見たのは初めてだった。

 そもそも、竹下巡査は、昔の刑事ドラマを見て、警察に憧れたという、素直な男だった。

確かに警察に入れば、昇進試験を受けて、出世したい」

 と思うのが普通なのだろうが、その頃にはすでに、そんな出世欲というものは、失せていたといってもいいだろう、

 それは、

「昔憧れた警察というところと、実際に入ってみた警察との間に、埋めることのできない結界のようなものがあったからではないだろうか?」

 ということであった。

 それが、ガッチガチで融通の利かない体制でありながら、

「縄張り意識」

 のような、まるで、

「子供の喧嘩じゃあるまいし」

 ということを思わせるというものが存在しているのだった。

 警察というのは、

「組織」

 なのである。

 組織というのは、

「規律ある一つの体制でなければいけない」

 というもので、その考えは間違っているわけではないのだが、それが、いわゆる、

「お役所仕事」

 という感覚と、さらに、

「組織的な発想」

 というものが結びついて、理不尽なことに耐えられる人間はいいが、純粋がゆえに、耐えられない人間にとっては、

「苦しいだけだ」

 ということにしかならないだろう。

 そんな中において、その日の警らは、もう一人の巡査と一緒に、パトカーで、いつものコースをいつものように回っていた。

 さすがに、秒単位で、まったく同じというわけではないので、普段引っかかる踏切であったり、交差点というものが存在するわけではない。

 道路であれば、毎日同じだけの交通量というわけではない。

 時間帯によって、

「この時間は、そんなに車の量が多いというわけではない時間帯だ」

 ということに間違いはないが、だからといって、信号待ちをしている車の数は、絶えず一定ではない、却って、一定である方が、気持ち悪いくらいだ。

「信号機も、曜日によって、微妙に違っている」

 という話を聴いた。そういう意味では曜日によって、違いが分かるという人には、一目稜線というだけで、他の人には難しい感覚なのかも知れない。

 そんな道路と違い、線路においては、いつも決まった時間に遮断機が下りるということで、遮断機に止まっている車も、気にして見ていると、

「いつもと同じ車が多いな」

 ということに気付くのかも知れない。

 その日は、ほぼ毎日のパトロール、正直マンネリ化してきていたので、感覚というものは、ほとんどない状態。つまりは、

「いつも見えていても、そこにあるという感覚はあるが、実際に視界に入っていたかどうか、思い出すと思い出せない」

 というような状態だったのかも知れない。

 というのは、

 そう、この感覚は、

「石ころ」

 という感覚に似ていると思った。

 石ころというものは、目の前にあって、見えているのに、わざわざ、そこに石ころがあるということを意識するわけではないということだ。

 つまり、

「目の前に存在していても、存在している意識はあっても、わざわざ気にしないということで、視界から消えてしまっているという感覚になることであった。

「きっと気配を感じないからなんだろうな?」

 ということであり、

「兵器などで言われる、ステルスというのは、こういうものをいうんだろうか?」

 と考えてみた。

 ステルス戦闘機と呼ばれるものは、

「肉眼では見えるが、レーダーには引っかからない」

 というものであり、まるで忍者のように、

「気配を消している」

 ということになるのであろうか?

 例えば、一部の動物が、身を守るために、

「保護色というものを使って、身を隠す」

 というが、それこそ、

「カメレオン」

 というものの存在を思わせるようなものである。

「カメレオン」

 も、

「保護色で自分を守る」

 という動物も、視界で捉えることができない。

 しかし、気配を残していると、本能で、相手を察知できる動物であれば、すぐに気づくだろう。

 特に、

「天敵」

 と呼ばれるような動物であれば、

「自分の餌になる」

 という意味で、気付かなければ、自分の食べるものが分からないという、一種の、

「死活問題」

 となるからだ。

 本来気づくはずのものに気付かないとなると、自分も、

「どこか、おかしい」

 ということになるのだろう。

 だから、

「天敵から身を守るため」

 ということであれば、外見だけを隠すというわけではなく、

「気配もできるだけ消す必要がある」

 というわけだ。

 特に相手が天敵である場合は、完璧に消してしまわないと、あっという間に餌食にされてしまうのだ。

 しかし、前述のように、天敵であれば、

「気配を消されると、死活問題だ」

 ということになるので、

「自然界の摂理」

 というバランスを保つ意味で、一定の弱肉強食は必要だ。

 そうなると、

「すべての動物が、保護色と気配を消すということによって守られてしまうとなると、困ってしまう」

 というのも、当然ということであろう。

 そんな保護色のようなものとして、

「石ころのような存在」

 というものがある。

 人間であれば、

「石ころのような存在」

 ということになるのであって、他の動物にも、似たような習性があるとして、それが人間と同じように、

「石ころ」

 なのかどうかということは分からない。

 ただ、

「人間にあるのだから、他の動物にある」

 といっても過言ではないだろう。

 動物は、このような、生きていくために必要なことが、本能のような形でたくさんある方が、

「下等動物」

 ということになるのだろうか?

 いや、逆に、このような動物の習性から、

「動物のランク付け」

 というものを、人間が勝手に考えてしまっているのではないだろうか?

 動物のランク付けがこのような発想になっている」

 として考えたとしても、一つだけ言えることは、

「動物のランク付けにおいて、ダントツで高等なのは、人間である」

 ということである。

 これは、傲慢であるということに変わりはないが。

「人間には、理性というものがあり、それが、人間の中にある下等な部分による暴走を防ぐことができるのであって、それは人間だけが有しているものだ」

 と言えると、当たり前のように思っているが、果たしてそうなのだろうか?

 他の動物は、人間の知らないところで、実は、その特性を生かし、人間の知らないところで、ひょっとすると、異種の動物同士が、話ができているのかも知れない。

「ワンワン」

「ニャンニャン」

 としか聞こえない、ペットの声であったり、

「まったく声を発していない」

 と思える動物であったりと、そういえば、

「声も発しないのに、同じ種族同士で、コミュニケーションが取れているのか?」

 と考えるが、そもそも、

「コミュニケーションというものを必要とするのは、人間だけなのかも知れない」

 という考えであったり、

「コミュニケーションを必要としない動物がいたとしても、別におかしなことではないだろう」

 という考えであったりと、それぞれに不思議ではないのかも知れない。

 そんなこみにゅケーションが必要な動物を、

「高等動物」

 というのであれば、

「高等動物というのは、本能の力だけで生き抜くことができないので、生き抜くために本能を補って余りあるものを持っている」

 ということが定義とするべき動物のことを言うといってもいいだろう。

 それが、人間であり、他の動物の中には、似たような性質をもった、

「人間に近い」

 と言われる、そんな動物もいるのかも知れない。

 ただ、それは、人間には分からない、それが、わざと行われていることなのか、偶然、人間が分からないというような状況に置かれているのかは、それこそ、想像の域を出ないといってもいいだろう。

 人間にとって、

「石ころ」

 という存在は、

「その存在を、いや、気配というものをまったく消しているものだ」

 といえ、

 動物によっての石ころというのも、

「相手が天敵で、保護色を使ったうえで、さらに、その気配を消そうとしている動物と似ている」

 といってもいいかも知れない。

 人間のように見えているわけではなく、保護色で包まれていて、さらに気配を消していても、探している方の特性から、いくら隠れても隠れきれないところがあることから、見つけてしまい、食べてしまう。

 結局食べられるのだが、それでも、儚いと言われようとも抵抗を示そうとする、

「弱肉側」

 ではあるが、無駄な抵抗とは言え、抵抗を試みることは大切なことだろう。

 しかし、人間には、

「石ころ」

 というのは、自分の、

「弱肉側」

 というわけではない。

 むしろ、意識などしない相手であり、目の前に見えていて、見えているということが意識もされているのだ。

 それなのに、

「そこにあって不思議がない」

 という意識すら感じさせないほど、無意識に装うという感覚なのだろうか。

 それが、相手が、

「弱肉側」

 なのか、どうなのかを分からないのだ。

 そもそも、人間というのは、他の動物を相手に、

「弱肉強食」

 を意識しない。

 それは、自分たちの中に、

「他の動物とは違う、高等動物だ」

 という意識があるからなのだろうか?

 自分たちが、高等動物だということで、

「すべての生き物の頂点にいる」

 ということが、当たり前のようになってきて、すでに、

「下等動物」

 というのは意識しない。

 ということで、自分たち人間を勝手に差別化し、太古の昔より、存在した、

「奴隷制度」

 というものが、最初からあり、

「人間の歴史というのは、そこから始まっているといっても過言ではない」

 といってもいいかも知れない。

「人間の歴史は、地球の歴史から見れば、実に短いものだ」

 と言えるだろう。

 まずは、

「地球はすべてが海だった」

 というところから、生命が始まり、次第に陸が出てくると、

「足や手を持った、歩行をするという動物が出現してくることになる」

 ということから、恐竜を中心とした、

「巨大生物の時代」

 に入ってくる。

 といってもいいだろう。

 その頃には、人類の祖先も姿を現し、

「進化を繰り返す」

 ということで出てきたのが、人類というわけだ。

 人類というものが、どのようなものなのかというと、まずは、

「道具を使う」

 ということであった。

 その次には、

「火を使う」

 ということであり、他の動物は、火を嫌うのは、人間との比較のために、本能から、

「動物は火が苦手だ」

 ということになるのだろう。

 人間を誰が作ったのかは、正直分からないが、人間を作った時、本能をわざと発達させないようにしたのだとすると、それでも、生き延びている人間は、

「素晴らしい高等動物だ」

 ということが言えるだろう。

「火」

 というものを考えた時、一番最初にうかんでくるのは、ギリシャ神話における、

「パンドラの匣」

 という話であろう。

 そして、同じ宗教ということで、火というものが、大切となっているのも分かるというものだ。

「ゾロアスター教が、火の宗教だ」

 と言われるように、

「火を神様」

 として祀り上げるのは、人類にとっては当たり前のことだった。

 神様が存在しているかどうかは、別の話である。

 竹下巡査ともう一人の巡査とは、いつも、ペアであった。竹下巡査は年齢的にも、巡査部長を拝領していた。

 自分でも、

「このまま、現場でずっと働いていく」

 という思いがあったので、

「このまま、街のおまわりさん」

 でいようと思っていたのだった。

 もう一人の巡査は、まだまだ警察に入って間がないくらいの若い男で、気持ちとしては血気盛んだということであった。

 口癖のように、

「早く偉くなって、経験本部で、刑事として働くんだ」

 と言っていた。

 だが、彼は、最初が交番勤務ということから分かるように、キャリア組ではない。

 ということになると、刑事になってどこかの警察署の刑事課で働くようになったとしても、そこから這い上がるというのはなかなか難しいことであろう。

 まだまだ、警察組織というものをわかっているわけではないだろうから、

「きっとこれからどんどん苦しむことだろうな」

 ということは、竹下巡査にも分かっていることであった。

 彼の名前は、

「大橋」

 と言った。

 大橋巡査の運転するパトカーが、その踏切に差し掛かったのが、時間として、午後二時半くらいだっただろうか。大橋巡査も、ほぼ毎日の警らで、

「そろそろ上り方面の電車が来る頃だな」

 ということを感じていた。

 踏切には、数台の車が踏切に差しかかろうとしていた。この時間帯は、電車の本数もまばらではあるが、なぜか交通量は少なくない。しかも、パトカーが近くにいると思うと、必要以上に気にしてか、踏切の一旦停車も、

「これでもか?」

 というほどに、長いこと止まるものなので、

「それが本当なんだ」

 と思いながらも、実際には、面倒臭いと感じているのだった。

 特にまだ若くて、血気盛んな大橋巡査には、イライラが募るようだ。

 昔のギャグマンガに、

「バイクのハンドルと握ると、人間が変わる」

 という極端な景観がいたが、まさにその男のようだった。

 普段は、気が弱いくせに、ハンドルを握ると、明らかに恐ろしい性格になる。

 ただ、運転テクニックは、完璧に近かった。

「こいつ、警察なんかに来なくても、レーサーにでもなればよかったのに」

 と思う程であったが、あくまでも、

「完璧に近い」

 というだけで完璧というわけではない。

 ただ、それは、他の誰にも言えることであって、逆にいえば、

「どんなに安全運転していようが、事故をする時は事故を起こすものなのだ」

 ということである。

 誰だって、事故を起こしたくて起こすわけではない。

 逆に、大橋巡査のようなテクニックが抜群の人間が、無謀な運転に見える時に、事故は起こすものではない。

 どちらかというと、

「事故が起きそうにない、気分的に余裕のある時ほど、ちょっとした事故を起こしたりする」

 というものだ。

「停車中の車に、少しこすってしまったり」

 あるいは。

「交差点で信号待ちをしていて、信号機が青になった時、相手が進んでくれないのに気づかずに、おかまを掘ってしまった時」

 などというような、

「普段のあの運転から、こんな初歩的なミスが起こるなんて」

 ということが、往々にしてあったりするのだ。

「交通事故なんて、そんなもんだよな」

 と、交通課の刑事は、結構、そう思っていたりする。

 大橋巡査は、

「将来は刑事に」

 と思っているが、

「刑事課だけでなくてもいい」 と思っている。

 考えているのは、

「交通課でもいいな」

 と感じているのであって、

「交通課で、仕事をしている自分を頭に思い浮かべえたりもしていたのだ」

 というのは、彼は、高校時代に、県主催の祭りの中で、パレードがあったのだが、そこで見た、警察のいわゆる、

「白バイ隊」

 というものの、

「一糸乱れる統率さ」

 というものに憧れていたのだ。

 高校時代から、自分でも、血気盛んだということは思っていた。

「もし、グレていたら、間違いなく、暴走族になっていただろうな」 

 と思っていた。

 幸いなことに、グレる要素がなかったことで、真面目な高校生活を送ってきた。

 祭りのパレードで、

「白バイ隊」

 というのを見かけるまでは、

「将来何になろう?」

 ということを考えることもなかった。

 しかし、

「白バイ隊を見たのは、俺の運命なんだ」

 と思った。

 それによって、その時に、将来の道が、確定したのだった。

 それから、勉強して、何とか地方公務員試験に合格し、地元の警察署である、

「K警察」

 に配属されたということだった。

 実は、大橋巡査は、自分で考えているほど、頭がよくないというわけではなかった。警察内部でも、彼の頭の良さに一目置いている人もいるくらいで、竹下巡査も、

「大橋君だったら、近い将来、K警察署で、刑事課でも、交通課でも、好きなところに行かせてもらえるだろうな」

 と思っていたのだ。

 そんな大橋巡査の運転するパトカーが、後三台くらいで踏切を渡れるというところまで来ているのであった。


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