第10話

 護衛という前ぶりの仕事が、意外にも大きな事件として幕を閉じた。

「……警察関係者にも話を通して、今回はあのビル一つ、焼いてもらった」

「そう……」

 翌々日の下校途中、水月が入院する病院へと向かうバスの中で、セイは無感情に今回の事件の概要を語る。

 標的たちを前にした、ロンが並べた言い訳は、確かに警察の上司に伝えられていたが、余りに突飛すぎて使えず、結局事故として処理した。

 真昼間のこの動きは、周囲の他社に気付かれることなく終え、後処理の火災の発生により、騒動が起きたに過ぎない。

 火災元が三階の研究室部分で、報知器が作動したにもかかわらず、三階部分の会社の従業員は、殆ど避難できなかったとした。

 偶々、遅い昼食休憩で外に出ていた数人の従業員は助かり、その証言で避難経路が殆んど塞がれていた事実も発覚したのだ。

 どうやら、災害の際の対策を重視する時期のみ確保を徹底し、後は杜撰な状況だったらしい。

 どの企業でもあり得る状況に、被害にあったビルの会社の責任者たちも、戦慄したようだ。

 出火元の会社の従業員の犠牲者たちの遺体が、出火後に起きた大規模な爆発によって、殆ど残っていなかったのも拍車をかけ、彼らも完全に反省している模様だ。

「……一般家庭でも、些細な不注意が災害の元になることもあるから、何とも言えないね」

 大規模な爆発は起きたものの、隣近所の建物とは少しだけ距離があったおかげで、そのビルだけの被害で済んだため、殆ど疑われることなく火災死亡事故として、処理する流れとなったのだった。

 真実を知るのは、実行犯たちと処理した面々、その他数人だ。

 その他数人の内の一人真田大地は、被害者遺族に対して多額の補償金という名の慰謝料の支払いを約束し、事実をうやむやにするつもりらしい。

 大きく取り上げられたその記事の片隅に、先日襲撃を受けた幼い歌手の無事と、その引退を報じる記事も小さく載った。

「……ランホアちゃんは、祖国に戻ったんだね」

「……ああ、二度と、会う事はないはずだ」

「そうか。色々と気になることはあったけど、もう会えないのなら、仕方がないか」

 バスの隣の席に座る雅は、しんみりと頷いた。

 学生鞄と共に、お見舞いとして購入した食べ物が入った紙袋も、膝に置かれている。

 なんだかんだ言って、最後の最後の締めを諦めざるを得なかった父親が気になっているらしく、購入した食べ物は、この間水月が食べたがっていた鶏の唐揚げだ。

 匂いが漏れないように気配りながら、大切に膝に抱える様を見つつ、セイは女が気にしているだろうことを、次々と並べた。

 最近、不穏な感情を通り越し、妙に静かで大人しいのが、逆に不安になっているのだ。

 妊娠説が間違いなのなら、矢張りエンたちと会えていなかったのが原因だろうと思うのだが、その問題が解決した今、元気がないのが分からなかった。

「水月さんの怪我の方は、殆ど問題ない。そろそろ抜糸も出来るそうだ」

「そう。良かった」

 他に何かあったかなと、内心で首を傾げるセイに、雅が尋ねた。

「保護した家出少女さんは?」

「保護者と連絡を取って、来てもらった。随分前にいなくなった子らしいんだけど、届はどの地でも出されていなくて、身元を割り出すのに苦労したと、ロンが嘆いてた」

 それでも、資料を呼んでから一昨日の押し込みまでの間に割り出せたのだから、腕はなまっていない。

 両親揃った家庭だが、思春期の悩みで家に居づらくなっての家出、だったようだ。

「……意識が戻るかすらも分からない状態で、このままかそのまま息を引き取るか、奇跡的に回復するかは、本人の気力と体力にかかっているそうだ」

 気力がなくても、若い体力が補って回復することもあると、分院にいる副医院長は言っていた。

 家出の末路としては最悪だが、ない話ではない。

 そんな思いで、淡々と答えるセイに、雅は溜息を吐く。

 正直言って、件の国の事情も、その国の革命家の覚悟も、ついでにその裏をかいた国の工作も、知ったことではなかった。

 もしもあのまま少女が革命家の手に渡っても、問題ないように手はずを整えていたらしいから、心配されたホテル内や交通機関内での大惨事は、起こらなかったはずだ。

 事実、革命家たちがホテルを後にしてから保護し、しかるべき治療を施すつもりで、手を回していたと、セイは白状したから、本当に対処済みだったのだろう。

 だがその少女の年齢が、今のセイや自分と同じくらいだったから、エンたちが気にしてしまったのだ。

 そしてその心配を、ご丁寧に側近の家々にも分けてしまったことが、再び若者を欠席させる事態にしてしまった。

「結果が同じでないことを、祈ってる」

 そうでないと、早く行動してまで保護した甲斐が、ないことになる。

 雅は再び溜息を吐きながら言った。

「……君が欠席した一昨日、律さんが春日家に来たんだ」

「そうか。だから安藤さんの事務所に来たんだな」

 頷いたセイは、成程と思った。

 大仕事の後、水月以外の当事者たちが、事務所へと戻ったところを突撃した森口律は、狼狽える兎に構わず、ロンとエンと、宥めようとした幽霊まで床に正座させて、長々と説教した。

 言われるまでもなく正座した兎が、謝りながらも必死で宥める声は、本気で慌てていた。

「……あの調子じゃあ、水月さんも反抗しないだろう」

 兎があることを指摘したことで、三人の大の男が揃って慌て、自分たちの非を認めつつも、説教する律を宥めているのを、セイはただ無感情に見学していたのだが、事態の把握が出来ず、そうしていたに過ぎない。

「そうか。今日、見舞っても大丈夫なのかな?」

「その点は、ちゃんと確認したから大丈夫だ。足をがんじがらめにされて、退院を引き延ばされただけで、食事制限はアルコール以外ないらしいから」

 この辺りは、エンの言葉だから、確かだ。

 そう言うと、雅はようやく笑顔になった。

「良かった。修羅場は過ぎてるんだね。それに……関係ないんだ」

「?」

「オキは? 最近見ないけど、何処にいるんだ?」

「? 今は、分担して公にできない仕事を、してくれてる」

 首を傾げながら答えると、雅は安どして頷いた。

「つまり、日本にいることはいるんだね? 時々、律さんとも会っているんだね? 水月さんたちより、頻繁に?」

「ああ。多分……?」

 質問の意図が全く読めないが、雅の表情が緩んだことには安堵した時、病院最寄りのバス停が近づいて来た。


 病室に着いて、ベットの上で退屈そうにしている水月を見て、顔に出さず安堵した雅を横目に、セイは提案されていたことについて話した。

「先の取引相手の国は、触る理由がもうありません」

「何故だ?」

 きっぱりと言い切られ、目を細めた患者に、高校生は無感情に答える。

「元々、売り渡された商品自体無害の、所謂サプリメントだったからです。本物は一つで、それは作動する前に消えました」

 これでは、その国を崩壊させないためという言い訳も、成り立たない。

「どういう事だ? あの品は、商品化されていたんじゃなかったのか?」

 大量生産する代物ではないが、客がつく程度には在庫もあると思っていた。

 エンが不思議そうに首を傾げると、セイは無感情に素直な答えを吐いた。

「出来ないよ、人の手では。あれは、カスミが最初に考えた品の、劣化品だ」

「劣化品?」

 目を見開くエンの傍で、水月が溜息を吐いた。

「……まさか、開発に成功したと言う従業員、あの旦那と繋がっていたのか?」

「繋がっていたと言うより、追い詰められていた時に突然現れて、その品と企画書まで置いて行ったらしいです」

 遅い昼食のために外に出、難を逃れた従業員の一人は、客と取引を成功した当の従業員だった。

 当然それを知りつつも見逃したのだが、事情聴取の時にその商品の経緯も告白していた。

 何となくそんな気はしていたセイは、先程突然学園の校門前に現れた、カスミ本人の話で裏付けを済ませ、ここに来ていた。

「あいつ本人の証言がいるのならば、少し待ってください。さっき近くの裏山に埋めてしまったので。遅くても一週間ほどで出てきますから、その後で」

 呑気に手を振られたセイは、事情を聞いた後ついつい攻撃し、学園の裏山に埋めてしまったが、出てくること前提での動きだった。

「身動きできなくして埋めただけなので、一日もかからないとは思いますが」

 そうあっさりと報告すると、大概の相手は引いてしまう。

 カスミにとって罰なのか褒美なのか、褒美なのならば、安心させるべき相手に引かれてしまうだけ、自分の方が損している気分になるのだが、この病室に集う面々は、その辺りの所も違うようだ。

 エンと雅は少し考える様に天井を仰ぎ、ベットの上の男はひっそりとその横の椅子に座る、中肉中背の男に目を向けた。

 まだ日が高い病院の一室の患者の隣に、大昔の人間の幽霊がいる事態は、恐怖と混乱を呼ぶ風景だが、ここにいる者たちの反応は薄い。

 事情を知らない雅も、気配でその人物の正体に思い当たっていた。

 動きやすい和服姿のその男は、半透明の姿で水月を見返して頷く。

「後で、その辺りを探索してみよう。今日お前の元に、夜這いに来るようにと」

「その時はぜひ、女の姿でと伝えてくれ」

 揶揄い交じりに言う男に軽く返し、水月は話を戻す。

「よくそんな完成度で、商品として宣伝できたものだな。つまり本当の客は、国の重鎮の方で、標的はこの国で消されるはずだったと、そういう事か?」

 商品を服用したのは不幸な家出少女で、それがただ一つの完成品だというならば、そういうことだろう。

 問いを投げた患者に頷き、セイは答えた。

「そうらしいですね。最も失敗して帰国して来たとしても、彼らは重罪人として罰せられるはずでしたから。あの国からすると、異国の企業に信頼を寄せる必要も、なかったと思います」

 革命家たちは、帰国したら公開処刑が待っていた。

「……理由なき出国は重罪、だからな、あの国」

 目を細め、エンが呟いた。

 意外に昔から存在する、小さな国。

 様々な国から逃げてきた、貧しい農家や犯罪者、敗戦者などが集まり、出来た国だ。

 衛星から見ると、壮大な山の森林の間に、ぽっかりと空いた空間が伺え、そこに居住地があるのも確認できているが、そこに立ち入れた他国者はいない。

 空からの侵入も出来ないほど狭い開け具合の土地であり、陸路でも未知の猛獣が多数いるため、地理的にも資源の可能性がないそこは、搾取対象にもならなかったからだ。

 故に、実は地図にも国名としては記されていない。

 だが、国として存在していた。

 ただし、その国の言葉でのみ発音できる国名であるため、世間には全く認識されていなかったのだった。

 古くから存在する割に民族性は薄く、血の気が多い者たちが、時々その小さな土地で主権を奪い合っている。

「民族性は薄い割に、その土地に対する愛着は色濃くて、様々な規約を作って国民が出国することを禁じています。発展のための留学じみた出国や、他国の情勢を知るための出国は、数年だけ許可されますが、その他は極刑です」

 無感情に説明された言葉に、子供好きの三人が一瞬だけ眉を寄せた。

 客は初老の男と少年だったが、少年の方は十代後半だと報告書にはあった。

 守護範囲外であるため、眉を寄せただけで黙っている三人を見回し、半透明の男が苦笑した。

「そんな封鎖的な国なのならば、放置していてもおのずと滅びそうなものだが。お主たちの言い分だと、随分古からあるようだな」

「それはまあ、あくまで出国が重罪なだけで、入国する分には開放的だからでしょう」

「……」

 答えたセイに、雅が目を丸くした。

 そんな女に苦笑し、エンが説明する。

「アジア圏だけでなく、どの国でも多いんですよね、女性を物扱いする人種が。金で売り買いしている方がまだ、慈悲があると思えるくらいです」

 その方がまだ、女性にも覚悟ができる。

 また誘拐婚も、覚悟と勇気、家族の愛情や執念次第では、救いがある。

 だがあの国には、救いはなかった。

「つまり……」

 嫌な顔をした雅の代わりに、似た顔立ちの父親が声を絞り出した。

「言葉巧みに連れ出す、もしくは力づくでものにした女を、連れて戻る分には、罪にならないと?」

 一度そこに連れていかれては、女性はもう戻れない。

 逃げても周囲を囲む大自然に行く手を阻まれ、断念して連れ戻されるか、獣たちに襲われて形すら残さず消えてしまうかの、どちらかだ。

「昔は、まだ途上の段階だったようで、あの国は殆どが男だったんですよ。だから、近隣の他国の村は、何処からやってくるか分からない賊に、恐れおののいていました」

 穏やかに微笑みながらも、困ったようにエンが続けた。

「ただ、時々の調査で、あの国の短所はそれだけで、他は目立つ悪さがなかった。だから、標的にするには弱かったんです」

 戦闘能力の高さには、興味があった。

 だが、謂れのない襲撃はしたくない。

 だから、その国の存在は知っていたが、放置していたのだった。

「子孫繁栄のため、やむを得ずの拉致、か。昔ならば、多少の犠牲と割り切るんだろうが、今はそういうわけにはいかんだろう」

「まあ、そうですね。それに、革命云々という話が出てくるという事は、何かが乱れているという事になります」

 嫌そうな顔のまま、水月が指摘すると娘婿候補も頷き、無感情のまま立ち尽くしている弟分を見た。

 兄貴分を見返したセイは、無感情に答える。

「一時的なものだ。何でも、最近嫁に来た女が、国王を篭絡したんだそうだ」

「ろっ……セイ、篭絡の意味、分かって言ってるか?」

「城を陥落させるのと、似たようなもんだと聞いた」

 誰に?

 顔を引きつらせたエンに構わず、高校生は無感情に続けた。

「その娘がかなり浪費していて、今まで災害対策に蓄えていた財も、底を尽く勢いで無くなっていて、国王はこれまで取っていなかった税を、国民に課せ始めたんだ。お陰で殆どの国民が飢え始めて、不満が溜まってきてはいたようだ。でも、本当に一時的で済んだ」

 つい先日、近くの山で起きた山津波で、土砂が国の殆どの家を飲み込むと言う災害があったと言う報告があった。

「殆どの住民と、国王として君臨していた者の死亡も、確認された」

「……何処情報だ? 客はまだ、帰国していないんだろう?」

 まさか……。

 目を細めた水月を見返し、セイは無感情に答えた。

「そこまでは、分かりません」

「おい。報告受けているという事は、その源があるはずだろう?」

「上辺だけの報告です。僕、高校生なので、それ以上は知りません」

「とぼけるならば、もう少し高校生らしい雰囲気で言え。無感情に言われても、疑わしいだけだ」

 年嵩の知り合いは、色々と注文が多い。

 軽く心の中で毒づいてから、セイは無感情な顔のまま言い切った。

「この辺りは、企業秘密の事案なので、ご勘弁ください」

 そんな同級生の傍で、雅が天井を仰いだ。

 何かに思い当たったようだ。

 だが、何も言わずに優しい笑顔を浮かべた。

 空気も優しいため、怒ってはいない。

 つい安堵してしまった水月は、何を危惧していたのやらと苦笑し、話を治めることにした。

「途中で脱落する失態を犯したんだ、仕方がないか。……この件は、もう解決だな、本当に、残念だが」

 潔く、とは言い難い言い分だ。

 苦笑と共に吐く息は、恐ろしく深い。

 その気持ちに寄り添うように、エンがベットに備えつけられている簡易テーブルを、静かに水月の前まで移動させた。

 近くに備えられている簡易冷蔵庫から、缶飲料を取り出してそこに置く。

 それを見た雅も、手に提げていた紙袋をテーブルの上に置いた。

「?」

「お見舞いの品です。花なんか、喜ばないでしょう?」

 目を見開いた水月は、思わず感動して娘と娘婿候補を見た。

「これからしばらく、退屈な生活が続くんですから、ここで気力を蓄えてください」

「あ、ああ。ありがとう」

 素直な男と二人のやり取りを見、セイはお暇しようと最後の要件を口にした。

「じゃあこれは、後日改めて」

 セイが手に掲げたのは、文庫本大のノートだった。

「? 何だ、あれは?」

「あ……例の、親父さんが暇つぶしにくれた、日誌です」

 弟分の手元を見て、思わず笑顔が引き攣ったエンが曖昧に答え、その手に渡った経緯を尋ねた。

「返却されるのが、随分早いな。朔也君が出した課題は、それを参考にしても、解決しなかったとは聞いたが……」

「解決しなかったけど、読み終わったからって。いつまでも借りているのは、心苦しいからと」

「ああ、成程」

 心苦しいのは、その内容が恐ろしく過激だからだろう。

 エンが苦笑しつつ、セイの方に右手を差し出す。

「じゃあ、返してくれ」

「いや。私も読んでみる」

「駄目だっ」

 間髪入れない言い分に、セイは無感情に首を傾げた。

「何で? 金田さんたちに聞いたら、恋愛の話が事細かに書かれているそうじゃないか。最近、それに関連した言葉らしきものを、よく聞くんだ。分からないままなのは、気持ち悪いんだよ」

 焦った兄貴分は、頭をかきむしりたい気持ちになりながらも、言い切った。

「これは、もう少し高度な経験を持った後、読むべきものだから、お前にはまだ早いっ」

「でも、誰かの何かが誰かの中に入ったとか、誰とやったとか、誰かに靡くとか、普通に言葉にできるほどに、頻繁に使われるんだろう?」

 本当に誰だ、そんな高度な隠語を、この子の前で吐いた愚か者は。

 目を見開いた雅の横で、エンが頭を抱え込んでしまった。

「セイ、兎が言った誰かの中にというのは、そっちの意味じゃないっっ」

「……そっちの意味もあると、暗に言っているぞ、お前が」

 完全に墓穴だ。

 呆れた声の父親の言葉で、初めの隠語を吐いたのが、あの年嵩の兎だったと察する。

 あの兎も、セイが色事に精通していないのは知っているから、余程の事があった時に吐いてしまったのだろうと予想出来る。

 つまり……。

「律さんの話か。取り繕えないほどに、慌ててしまったんだね、あの人も」

 先程聞いた、森口律が三人並べて、正座させて説教した話に繋がるようだ。

 雅が優しく笑いながら呟き、久しぶりに見る、血の繋がらない兄弟たちの会話を見守っている。

「あれが、あそこまで慌てるのは、カスミ殿のことくらいだと思っていたのだが、余程驚いたのだなあ、本当に取り乱していた」

 苦笑して遅まきの報告をする幽霊に、水月はしんみりと頷いた。

「……そうか。オキの奴も、最悪な事態にならないよう、しっかりとした対処をしていたはずだが、今回は失敗したようだ。こうなったからには、手は回しておかないとな」

 しんみりと言いながら、手は割り箸に伸びている。

 揚げたてを購入して来たらしく、紙袋越しに鶏肉のいい香りが、鼻を容赦なくくすぐっていた。

 種族を越えた獣同士の二人の、重大事件に関する根回しは、今繰り広げられている面白おかしい会話を見物しながら、この見舞いの品を片付けた後にしよう。

 そう決めて箸先で唐揚げをつつく水月に、雅が優しい声をかけた。

「律さんと、そう言う仲になったことは、ないんですね?」

「当たり前だ」

 突然、爆弾を放り投げられたが、どこ吹く風だった。

「オレは、変態じゃないぞ。ガキの頃から育てていた娘を、大きくなったからと、女として見れるか」

 答えながら一つ口に放り込み、逆に返す。

「お前はどうなんだ? 弟として育てた子を、男と見てどうこうできるのか?」

「できません」

「それと一緒だ。どうも、オレが生きた時代より後辺りの時代では、子供を自分好みに育てて手を出す話も流行ったようだが、そう言うのは、面白くない」

 ノンアルコール飲料を口に流し込み、雅の後ろを一瞥すると、血の繋がらない兄が、弟分から例のノートを取り上げたところだった。

 余りに真剣に読ませまいとしているのを見ると、相当過激な内容なのだろう。

 だが、あのカスミの手記なのなら、想像範囲内だ。

 男女無差別であると言うこと以外は、水月と似通った趣向なのだ。

「……人間というのは、性格も体格も多種多様だ。それを無理に変える時点で、面白みを半減している気がして、楽しめない。それもあるんだろうな、相手が限界に達して意識を失ったら、途端に興味が失せる。養い子は、それ以前だ。律とは、まだ凹凸がない頃から、散々向き合って来たからな。匂いにすら、くらつかない」

「ああ、分かります。小さい頃から何度も見てきた体に、どう興奮しろというのか、という話ですよね」

 同調して頷く娘に頷き返し、ふと首を傾げた。

 父子でする話か、これは?

 今更悩むのか、という顔になっている幽霊が見守る前で、水月は気になっていたことを、初めて雅本人に尋ねた。

「お前、エンのどこに、惚れたんだ?」

「主に、顔です」

「……」

「初めは、ですよ」

 何せ、初めに会ったのは、セイたちと並んでいる場だった。

 整っている男たちの中で、ひときわ国に馴染む顔立ちの、似た顔立ちのオキよりも優しい空気を持った、そんな男だったのだ。

「目を引いた、というだけだったんですけどね、初めは。ご縁があって、弟子にしてもらったことで、中身も知ることになって……もう、全てに惚れています」

「……」

 聞かなきゃよかったか。

 手放しでの賞賛だ。

 水月にとってエンはまだ、甘ったれの信用ならない男だと言うのに。

 苦い顔になった父親に気付き、雅は微笑んだ。

「まだ、待てます」

 短い言葉に顔を上げると、雅はゆっくりと言い切った。

「あなたが完全に信用できるまで、エンはお預けしておきます。だから、今回だけは、趣向云々は抜きにして、あなた好みの男らしさも、仕込んであげてください」

「……何故だ? 卑猥に聞こえるんだが」

「あなた相手なら、その卑猥な意味でも、我慢すると言っているんです。そう聞こえるのは当然です」

 何処までかが冗談だ、間違いなく。

 問題は、その何処までかが、全く分からないことだ。

 珍しく返答に困る水月を見ているうちに、後ろの二人が大人しくなったのに気づき、振り返った。

 不幸なことに、取り上げたノートを再び取り戻されないようにしながら、口先八寸で何とか弟分を説得し、渋々諦めさせていたエンには、前で交わされていた父子の会話は、聞こえていなかったようだ。

 知らぬが仏、とも言うか。

 一人黙っていた幽霊が、何事もなかったかのように、にこやかに声をかける。

「カスミ殿の日誌とやらが、医者になる勉強の参考に、なり得るものなのか?」

 それは、この話題が出た日からの疑問だった。

 カスミの幼馴染だった幽霊は、あの男が人のためになる話を、文字に残す性格ではないと知っていた。

 なのに、エンの提案に飛びつき、あの研修医はノートを借りて行ったのだ。

 結局参考にならなかったのは予想範囲内だが、不思議だった。

「色事の秘事が、医師に関係する世の中なのか?」

「ええ、精神面の治療にも、専門がいます」

「ほう……」

「伸君は、外科医志望なんですけど、専門外も詰め込まれているんですよ、師匠の金田さん親子に」

 今回は、朔也の方が、面白半分に出した課題だった。

「だから、答えを得られなくても、大丈夫だと思いますよ」

 実際先程、教え子が降参を申し出て謝って来たと、面白そうに朔也が報告してくれた。

「得られなくても、仕方がない問題でしたからね」

 問題の課題は、『異性間と同性間における、恋愛感情の相違と、それに伴う行動の相違点を、二十文字以内で答えよ』だった。

「……何故、文字制限を付けた?」

「悩むさまが、面白かったらしいです」

 実際は、文字制限以前に、答えを見つけるに至らなかったようだ。

 困って降参してきた教え子の様子を、朔也は楽しく迎えたと言う。

「お前たちの周囲も、そんな奴ばかりか?」

「とんでもない」

 疑う舅候補にエンは目を丸くして首を振り、それは誤解だと弁解する。

「も、とは何だ、もとは? おかしな趣向はカスミ殿だけだったはずであろう? お前までそれに感化されたと聞いてはいたが、二人位ならば、周囲というほどの数でもない」

「それは……。親父さんとこの人の二人でも、相当濃いですから。周囲は塗りつぶされていたのでは?」

 現に、ロンも古株だったと言うのに、師匠である大男と共に、ひっそりとした存在感だったようだ。

「そうか、ロンでも目立たなかったんだ……」

 昔は今よりも規模は小さかったと聞くが、その中でもあの癖の濃い、褐色の男が目立たなかったという事は、頭領とその側近が、かなり曲者だったのだろう。

 幽霊の窘めに返すエンの言葉に何故か感動し、すごいなあと遠い目で呟く雅の前で、水月が手招きして、完全な空気となっていたセイを、傍に呼びよせた。

「夕飯が入る程度は、食っていけ」

 体の割に大食漢なので、見舞いの品の半分くらいならば、問題ないだろうと勧め、缶飲料も勧める。

 自分もこの後、病院食が待っているから、断腸の思いでの勧めだ。

 大き目の唐揚げを、大きな口を開けて頬張る高校生を横目に、その保護者である二人に問う。

「そんな奴らばかりなら、一人くらいはいないのか? この子にそれとなく、色事を享受できる奴が。知識をたたき込めば、賢いこの子の事だから、理解するだろう? 必要以上に目くじら立てる必要も、ない」

「いたからこそ、ここまでおかしな知識持ちになっているんです。だから、学問の場で基本を教えてもらってから、少しずつ深いところを知ってほしいと、そんな願いなんだと思います」

 困り顔のエンの言葉は、何処か他人事だ。

 首を傾げてしまった水月に、雅が言う。

「ロンたちは、そう考えているんです。その域はもう、軽く飛び越えていると思うんですけど、それを説明するのも、難しいんですよ」

 本人がすぐ傍にいるのだが、エンは構わず雅の言葉に続けた。

「方々の国を渡り歩いていたおかげで、言葉に不自由を感じることなく、人に溶け込めるんですが、それが仇になっている所も多々ありまして。その一つが、色事に関することなんです」

 はっきりとした言葉でも、曖昧な言葉でも、色事の事に関しては、全く理解できない。

「特に日本語は……発音も、文字も同じで、違う意味になる言葉がありますから」

日本語には、正規の意味と、隠語としての意味がある文字が存在する。

他の国にも、探せばそう言う言葉もあるが、今のセイは日本に身を置いており、その隠語とよく出会う事が、きわめて多くなっていた。

時々、先程のように素で発せられてしまう所が困りもので、保護者である自分たちが経験を生かして、遣り込めるしか手はない。

そんな子に初歩を教えても、ちゃんと理解できるかは分からない。

だが、

「基本を学んでからなら、一番知っておかなければならないことが話せると思うので、私も賛成したんです」

「……」

 雅の含みのある言葉で、水月は小さく唸った。

「手遅れには、ならないか?」

「もう手遅れですよね、本当は」

 即答だ。

 だが答えた後に、エンを一瞥したところを見ると、まだ雅も獣の側近たちも、最側近たちに報告するのを、躊躇っているのだろう。

 今頃知ったところで手遅れだが、まずは当人の自覚を促さなければならないと、判断しているようだ。

 でなければ、不幸な事態が発生する。

 そんな危機感を抱いているらしい娘を、水月はそっと見つめて尋ねた。

「……大体の事情は、把握済みなのか?」

「ええ。間違いと思うんですが、裏付けは、夏以降になります」

 つまり、保健体育の授業での性教育の後、一気に解決しようと考えているようだ。

 それで、手遅れにならないと言うのなら、自分が口を出す必要もない。

 黙々と、唐揚げを片付けながらも、会話を聞いているセイが、帰り道に雅を質問攻めにする可能性もあるが、それも水月が心配すべきではないだろう。

 気になる事の答えを得た後、他愛ない会話で面会時間一杯まで引き留めた見舞客二人を、幽霊が送ると申し出て、連れ立って病室を出て行った。

「……」

「……不審者と鉢合わせしても、安全だな」

「ええ。不審者が」

 幽霊付きならば、その雰囲気で近づけないだろう。

 確かにそれが幸いするのは不審者の方だが、鉢合わせする方を少しも心配しないと言うのは、いかがなものか。

「心配なら、していますよ。返り討ちしてしまわないか」

「それが、おかしいと言っているんだが」

「程々の所で、雅さんが止めてくれるとは、思いますけど。さっき沢山食べていたので、きっとお眠です」

 そっちか。

 そして、本当にお子様か。

 ある騒動から数年、この間再会するまで、エンは弟分の生存は分かっていたものの、顔を合わせていなかった。

 それなのに距離間も、関係性もそれほど変わっていないようだ。

 つまり、水月の娘である雅との間にも、それほど変わったことはなかった、という事だ。

 それどころか……。

「……お前、本当に、雅に嫌いだと言ったのか?」

「……言ってません。ただ、守られるのは、嫌だと言っただけで」

「ほう……」

 まさかここで、蒸し返されるとは思っていなかったエンは、突然の確認に狼狽えた。

「だ、だって、不味いでしょう。あなたがまだ、意識不明の時だったんですよ。こちらは混乱と心配で、あの人に隠し通せる自信もなくて……」

「ん? 心配? 雅だけならまだ納得しようと思えるが、何で、お前も?」

「あのですね……」

 きょとんとした顔が、妙に幼く見える。

 エンは脱力し、溜息を吐いた。

「あなたが、言ったじゃないですか。あなたの娘さんの、婿として教育すると。なら、あなたは義理の御父上でしょう? 心配するのが、自然でしょう?」

 そうなのか?

 大きく唸った舅候補は、嫁入りした叔母の時を思い出す。

 母方の祖父も、叔母の縁談先の舅も、既に鬼籍に入っており、全く参考にならない。

 代わりに、別なことに思い当たり、愕然とした。

「雅の舅が、カスミの旦那になる、だと?」

「今更、何を言ってるんですか。承知の上だったんじゃないんですか?」

「……そうだ、オレの血筋と旦那の血筋を娶せるなら、当然そうなる。改めて考えると、馬鹿な賭けをしたものだな……」

 本当に、今更な話だった。

 しかも、賭けはこちらの負けだ。

 その昔、引退と同時に所帯を持つことになった水月は、自分の血縁とカスミの血縁が、婚姻関係を結び子孫を儲けるだろうと予言じみたことを言われ、面白半分で賭けをしてしまったのだ。

 今は自分も率先して手伝っているから、嬉しい負けになるのだが、賭けたものが不味かった。

 自分は既に蘇っているから、カスミが自分に手を加えることは出来なかったが、こんな予想外がなければ、その蘇りをあの旦那が敢行するはずだった。

「……つまり、賭けは無効になったんですか?」

「それが、逆にどう出るかが不明になった。あの旦那の事だからなあ」

 不穏だと、顔を引きつらせるエンに、水月は優しい笑顔を向けた。

「この期に及んで、やめるとは言わないよな? 雅は乗り気なんだ。早く、あの娘を満足させられるよう、精進しろ」

「無理です」

 普段はのらりくらりな癖に、こういう時の返事は早い。

 思わず舌打ちしながら、こういう兄を持つと、あの弟も大変だなと、さっき見送った高校生を思う。

三年の予定の生活は、始まったばかりだ。

 今回こちらの落ち度で、たったのひと月で休学させる事態を作ってしまったのだが、どうも最悪、件の授業を受けるだけでいいと考えているらしい側近たちは、雅と聴覚の優れた獣の側近たちが、恐ろしい起爆剤を持っている事実を知らない。

 その起爆剤が着火されたら最後、セイの周囲の崇拝者たちの隅々まで、その余波は届いてしまうだろう。

 自分たちの所までも届くだろうそれは、当然ここにいるエンにも影響をもたらすだろうが……。

 病院食の配膳を取りに行くエンの背中を見ながら、水月は呑気に思った。

 それは、その時に考えても、遅くはない。

 どうせ事実は、既に存在しているのだから。

 今は、束の間の休息を、満喫しよう。

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私情まみれのお仕事 護衛編 赤川ココ @akagawakoko

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