第3話

 朝日に向かって、大声で叫べたら、どんなに気が晴れるだろう。

 ようやく自分が見えるところまで顔を出した太陽を、とあるホテルのベランダで一人眺めながら、セイは思った。

 日本の南部に位置するこの都市は、五月にもなると朝七時という今の時刻には明るい日差しが町を照り付けるのだが、この都市の首都であるこの辺りは、最近特に都市化が進み、背の高いビルが立ち並んだせいで、出てきたばかりの太陽を拝むことが難しくなっていた。

 二十一世紀も半ばになると、ここまで近代化が進むのかと、いつもならば時代の変化をしみじみと実感するだけに留まるのだが、今日はその近代化が進んだおかげで、芸能事務所なるものまでが田舎の都市に入るようになり、こんな時間にここまで出張ることになるんじゃないかと、内心毒づいていた。

 そう、結局昨日、自分が動くことで話がまとまってしまったのだ。

 あの後、きっぱり言い切ったセイに、戒は意外そうに問いかけた。

「何だ、本当に知ってるのか?」

「まあ、ね」

「それは、やっぱり……」

 雅の弟分は、酷く躊躇いながら確認する。

「エンの隠し子だから、か?」

「何で、そうなるんだ?」

 思ってもいない問いに首を傾げたセイに、戒は真顔で根拠を述べた。

「ランホアと言うのは、エンの母親と同じ名だろう? 名前に関して興味もセンスもない奴の事だ、自分の子に、母親の名を付けてしまうという事も、有り得るだろう?」

「センス云々は分からないけど、ないなりに悩んで、全く思いもよらない名前を付けそうでは、あるな」

 同意しているのか分からない返しをしてから、セイは首を傾げた。

「でも、それだと計算が合わないだろ? 十歳の女児という事は、十一年前くらいに押し倒されたってことになる」

「……男が押し倒されるだけが、隠し子づくりの手じゃねえけどな」

 含みのある呟きが、向かいの若者から洩れたが、構わずセイは疑問を投げた。

「あの時期なら、既に姿を現して、ミヤとも和解していたはずだ。挨拶回りはやってたようだけど、押し倒されるほどの隙も、時間もなかったはず」

「……しまった、またおかしな認識を知識として、吸収しちまった」

 何故か、蓮が向かいで頭を抱え込んでいる。

 話とは全く関係ないが、どうしたのかは気になる。

 だが、そちらに気づかいの言葉をかける前に、戒が真顔で言い切った。

「あのエンの子供が、ジュラの子と同じようにとどまることができたのなら、十年前でなくても可能性があるだろう。あの空白の百年の間に、どこぞの女に靡いてつい、という事もありえる」

「そうか? ミヤよりいい女なんて、そういないと思うけど……」

「何を言う。外国には大勢いるだろう? お前みたいな顔立ちの奴で、ぼんっ……」

 首を傾げるセイに、三年生徒ははっきり答えたが、それは途中で途切れた。

 戒の言葉の含みを察してしまった後輩が、つい足を動かしてしまったのだ。

 声のない悲鳴を上げて悶絶する先輩に、無感情に言う。

「そういう事は、冗談でも言わないでくれと、昔から口酸っぱく、言ってるよな?」

 隣に座る大男の大きな足を、容赦なく踏みつけながら窘めた後、また首を傾げた。

「それにしても、なびくって言葉、風以外にも使えるんだな。知らなかった」

「納得するより先に、さっさと足をどけろっっ」

 悲鳴交じりの懇願に、ようやく足をどけながら、セイは不思議そうに問いを重ねる。

「そんなに簡単に女の人になびくのなら、何で一番近くにいたはずのミヤに、なびいていないんだ?」

「それな」

 骨がミシミシとなっていたため、折れたかと危惧して己の足の具合を確かめながら、戒は頷く。

 幸い異常はなく安心しつつも、苦々しく続けた。

「お前が言うように、ミヤは完全に美人の域にある女だ。例え中身が極悪でも、それは確かだ。そんな外見だけは極上の女と長くいて……本当に分からん男だ」

 あんまりな言い分に、雅の友人の教師が思わず口を挟んだ。

「戎君、それは、余りに失礼じゃないか? 仮にも雅は、君のお姉さんだろう?」

「本当の事だろうが」

「それを、本人に言えるのか? 君は?」

「うっ」

 鋭い指摘に詰まる生徒に、千里は鋭く尋ねた。

「大体、君はここにいてもいいのか? 今日は担任の教師に、進路の事で呼び出されているはずだろう? 何でも、進路希望の紙に、殺し屋などというふざけたことを書いて、提出したそうじゃないか」

「なっ、何でそれをっ。冗談だったのに、あんたにまで漏らしたのかっ?」

「君は、まだ若い女性だからと、あの教師をなめているのか? そんなことは、私が許さないぞ」

 話が、大幅に逸れた。

 老練の教師の頼もしい言い分に、戒はたじたじになり、隣の研修医は恩師のたくましさに目を細めていて、話を戻そうと言う気配がない。

 話は、終わった。

 蚊帳の外に出されたセイは、そこで退出を考え始めていた。

 実際、出されたコーヒーを飲み干して、静かに立ち上がろうとはしていたのだ。

 それを止めたのは、話が大幅にずれはじめ、セイが立ち上がるまで静かに考え事をしていた、向かいの若者だった。

「お前、そのガキが断っただけで、ミヤが引いてくると、本気で考えてんのか?」

 中腰になっていたセイは、座ったままの蓮を見据えた。

「戻すなよ」

「甘い」

 見返した若者は、その目に不敵に笑い返し、仕草で座りなおすように促す。

 苦い顔を作りながら座りつつ、内心は溜息を吐いてしまった。

 数年前までは自分より小柄な若者だった蓮は、誰もが振り向く美男子へと成長していた。

 成長するという事は、その力も強くなったという事で、強かさも冷静さも元から叶わなかったセイにはもう、勝てる要素が全く残されていない。

 何でこの場に、この人まで引き込んだんだ?

 優秀な研修医の、こちらを貶める動きに、苦い気持ちが抑えきれない。

 だが、これは八つ当たりと分かっているから、あえて蓮だけを見据えて、先の問いに答えた。

「引くかどうかは、その子を見たミヤ次第だとは思う。でも、少なくとも、無理はしないはずだ」

「そんな半端な状態じゃあ、こいつらの気が済まねえだろうが」

 真っすぐ言い切る声に、千里が慌てて頷く。

 話がそれてしまったことに気付き、我に返った後の気まずげな表情だ。

 引かない若者を見据え、セイは冷静に言った。

「私はこの三年、この学び舎と古谷家を往復する生活を、切望されている。ここで勝手に仕事を受けて、通学が出来なくなったと知れたら、どれだけ怖い事になるか、あんただって分かるだろ?」

 冷静に言った割に、言っていることは我ながら情けない。

 だが、事実だった。

 泣きの入った頼みから始まった通学が、たったのひと月しかもたなかったと知れば、古谷家を始めとした家々はもちろん、側近たちまで嘆き悲しむだろう。

 それをどう宥めろと言うのか。

 ぞっとする想像をしてしまったセイに、隣の戒が青ざめて同意している。

 だが、向かいの蓮は違った。

「約束、させられたわけじゃ、ねえんだろうが。もしもの場合は、動いても問題ないはずだ。仲間が危険に及んだら、予定を変更して動く。それも、責任者としての務め、って奴じゃねえのか?」

 これには、隣の男女も、反論しなければならない立場の戒も、思わず納得してしまったのだが……セイは、やんわりと微笑んだ。

 何だろう、この怒りに似た、苛立つ気持ちは。

 それを笑顔でごまかしつつ、反論した。

「もっともらしい言い分だな。そんなに、ミヤが心配なのか?」

「そういう事じゃねえ」

「そんなに心配ならば、こんな無駄な説得に体力を使わず、自分で様子を見てきたらどうだ?」

「そっ」

 険しい顔になった蓮が、苦しそうに言う。

「それを、オレが出来ると、本気で思ってんのかっ」

「出来るだろ。見るだけなら」

 本当に子どもが苦手な若者の拒否反応に、少しだけ胸がすいて軽く答えた。

「見るだけなら、遠くからでも可能だろ? すれ違ってみるだけでもいい。それだけであんたなら、すぐに気づく」

「?」

「その歌手がどういう奴で、子守りや護衛がいらない奴だと、すぐに分かるはずだ」

 目を見張った蓮は、天井を仰いで少し考え、慎重に問う。

「オレでも分かるような奴、なのか?」

「ああ。きっと分かる」

「矢張り、本当にエンの隠し子なのか?」

「……あんたまで、それを持ち出すのか」

 思わず、大袈裟に溜息を吐いてしまったセイに、蓮は厳しい声を投げた。

「元々の話が、そういう話から始まってんじゃねえか。ミヤがもし、本当に妊娠しているとしたら、それこそ周囲が騒ぐぞ。とうとうお前にも隠し子がってな」

「? 隠れてるか? これ?」

 真顔の言い分に、真顔で問い返してから、頭に浮かんだ考えを言葉に乗せた。

「それとも、まだ生まれていない子供の事を、隠し子と言うのか? いや、それだと、この歌手をそうだと断じる根拠が、なくなるか……」

「お前、そんなことも知らねえのかよ。隠し子ってのはなあ……」

 その辺りからまた、話が逸れていたのに気づいたのは、かなり後だ。

 この時にはまだセイも、話の相手だった蓮も気づかずに話していたのだが、向かいの二人は静かに目を交わし、一気に話を治める手はずを考えたらしい。

 話が本格的に明後日に向かう前に、千里が話に割り込んだ。

「そちらのお話が本格的に深くなる前に、こちらの話を決めてしまおう」

 我に返って表情を改めた蓮は、次の伸の言葉で目を剝いた。

「この際、お二人のどちらかが、まずは様子見に行っていただく、という事にして……」

「おいっ?」

 何でそうなると言いかける若者に構わず、伸は妥協案を切り出した。

「じゃんけんで、決めてしまいましょう」

「じ……」

 唖然としてしまったセイに、瞬時に思惑を悟った蓮が気持ちを切り替え、不敵に笑った。

「ああ、成程、それがいい。じゃんけんなら、公平だよなあ」

「なっ、待てよっ。何処が、公平……」

 慌てる一年生徒に、若者は不敵に笑いながら言った。

「万が一、まかり間違ってオレが負けたら、その様子見に行ってやるよ。だから、それで決めようぜ。なに、本当に問題ないようならば、学校を休むことも、ねえだろう?」

 ……朝日に向かって、じゃんけんの馬鹿野郎と、叫べたらどんなにいいだろう。

 本当にやってしまっては、ホテルの泊り客の迷惑になるため堪えてはいるが、思い出すたび腹立たしかった。

 蓮は兎も角、あの教師と研修医の男は、自分がじゃんけんで勝ち知らずだと知らなかったようで、公平に決めようと提案したのに、鎌をかけられたような反応をされてしまったことに驚いていた。

 うかつな反応をしてしまった自分が、本当に腹立たしい。

 何かに毒づきたい気持ちのまま、一晩でこの件の概要を調べ上げ、セイは律義にやってきていた。

 簡単な報告は、チョウ・ランホアのデビュー前にされていた。

 詳しい話は聞かない方向でこれまで来ていたのだが、ここまでの事になってしまっては、そうもいかなそうだ。

 この事案に関わっている面々とも、昨夜の内に会い、詳しい話も聞いてきた。

 ランホア本人の希望も。

「……」

 ベランダから下を見下ろしながら、大変なことになっていたんだなと、しみじみと思っていた。

 ここからビルを見る限り、無事ではあるようだが、まだ確かめることはある。

 未だに、チョウ・メイリンの意識は戻らず事情は分からないが、昨日ランホアと雅が顔を合わせたのならば、昨夜の内に情報交換も話し合いも済み、今日から始動するだろう。

 雅の妊娠云々の問題もあるから、こちらも慎重に判断をする必要があった。

 どうやら昨日、別な知人もこの件に巻き込まれてしまったようなので、もしもの喧嘩が起こった場合は、その男が穏便な仲介をしている事だろう。

 そうなると、この後遅刻して登校できそうだなと、セイは軽く考えていた。

 ビルの中に入っていく、顔見知りの女の姿を見るまでは。

「?」

 顔までは分からないが、雰囲気が昨日と変わらないように見え、若者は一人戸惑った。

「? 泊ったと思ってたのに……」

 女の心境などよく分からないが、あのビルの中には宿泊場が多数あると聞いているのに、それを辞退して通いを選んだ、という事だろうか?

 険悪な空気で、昨夜の顔合わせは終わってしまったのか?

 自分たちが住む地から、この都市は車で一時間弱だ、という事実は置いておいて、セイは無理やり納得したのだが、その数分後、雅が小さな少女と共に現れたのを見て、身を乗り出してしまった。

 見送りに出たのは、依頼主の社長らしき男ともう一人、それよりも大柄な男だった。

「? あいつが、外泊?」

 自分も顔見知りの大男は既婚者で、今は妻と二人暮らしだ。

 その妻は体が弱く、余程の事がない限りは、外泊などしないと聞く。

 そのためにキャリアを目指したのだと、いつも胸を張って言い切っていたのに、今日はそのビルに泊ったらしい。

 コハクさんには、ちゃんと話を通しているんだよな?

 気にしながら見ていると、その視線を感じたのか男がこちらの方に視線を投げた。

 慌てて視界から逃れたつもりだが、勘の鋭い男の事だ、誤魔化せなかっただろう。

 そこでようやく、どうしようかと悩んだ。

 遠目で見ただけでは、素直な気持ちでの就業が否か、分からなかった。

 事情を全て察し話し合った上で、通いでつくと決めたのならば、自分が出る幕ではないだろう。

 だが、何も察することが出来ず、本当に子供を心配しての事だったら……。

 どちらなのかが明るみに出てくるまで、このまま放置も手だが、どうもこれ以上放置していたら、更に大変なことになってしまいそうだ。

 そうなった後に手を差し伸べても、彼らは頑なに自分の関与を拒否してしまうだろう。

 それなら今、巻き込まれてしまった方がいい。

「後で、古谷さんたち一同に、奴ら全員の雁首揃えたうえで、土下座させよう」

 自分と雅を、あの学園に潜り込ませるための、数々の裏ワザ。

 それを編み出してくれたのは、間違いなく社会に順応していた側近の家々だ。

 その努力を、水の泡にしてしまいそうなのが、本当に申し訳ない。

 この、鋭く無い六感が外れている事を祈りながら、セイは行動に移した。

 軽く周囲を見回し、ベランダを飛び越える。

 頂上に近いそのホテルの部屋のベランダから、数階置きにベランダの端に足を付けて勢いを殺しながら、地面に降り立った。

 監視カメラの視界での動きだが警戒は怠らず、それでいて不審がられないように自然に、ホテルの門をくぐって道路に出た。

 待ち合わせ場所は、そこから一分も行かない駅の前だ。

 約束の時間より、五分前にそこについたが、既に落ち合う二人は待っていた。

「おはようございます」

 小走りになって駆け寄ってしまったセイに、二人は頭を下げながら挨拶をした。

 一人は笑顔で。

 一人は無表情に。

「こんな場所まで呼び出して、申し訳ない」

 軽い侘びに、無表情の男が首を振った。

「いいえ。今日は非番ですので。寧ろ、何かあったのならば呼んでもらった方が、安心します」

 大きな男だ。

 灰色がかった銀色の髪と瞳の色と、険しい目つきと無表情のせいで、色白で整った顔立ちなのに人を敬遠させている、らしい。

 セイからすると、羨ましい体格と体力の持ち主なのだが。

 日本で戸籍を真面目にとり、日本名を取得しているが、仲間内ではゼツと言う名で知られる大男の隣で、中肉中背の男が真顔で問いかけた。

「どうでしたか?」

「遠目で見た限りだけど、それでも小さかったな」

「でしょうっ? あんな大事でなければ、私は大爆笑してましたよっ」

 無感情に答えたセイに頷き、高野信之たかののぶゆきはそう主張した。

 先日の事件の後、ランホアが個人で呼び出し、頼ったのがこの刑事だった。

 久しぶりに会った知人のあの姿に、信之はたいそう驚いたと昨夜も言っていた。

「……随分と、追い詰められていたようなので、大っぴらには笑えず、苦労しました」

「本当に、そんなことになっているんですか?」

 疑いの色を素直に目に浮かべるゼツには、信之や他の関係者からの情報も共有している。

 その上で、信じられないと思っているようだが、無理もなかった。

「何処まで深刻かは、実際近くで見てから判断するけど、遠目で見た限りでは、不味そうだった」

「分かりました」

 答えたセイに頷くのは、早かった。

「何処で会いましょうか?」

 信之がそんな二人に確認し、ランホアの予定を諳んじる。

「……もしもの場合を考えて、今向かった仕事の後に、会っておこうか」

 その予定を聞きながら考え、セイは即断した。

 一応、遅刻で済むくらいの時間を確保しておきたい、そんな淡い思いからだった。


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