短編:A列車で行こう

のいげる

A列車で行こう

   決して来ない電車に乗って

   どこにも存在しない街へ行こう

   僕のことを知らない彼女に焦がれて

   触れること無き愛を求めよう


   電車で行こう どこまでも

   電車で行こう どこまでも


   決して乗れない電車に乗って

   まだ産まれていない街に行こう

   僕が見えない君を探して

   返ること無き愛を確かめよう


   電車で帰ろう いつの日か

   電車で帰ろう いつの日か


 僕が大好きな誰も知らない1970年代の歌手グリス・ベーンの歌だ。

 後に彼は謎の失踪を遂げている。




 これは僕が若いころの話だ。

 人生の岐路に立ちそれが見せる未来のすべてに絶望したとき、僕はその電車に乗った。


 ある噂があった。都市伝説ってやつだ。

 ある無人駅に深夜二時に訪れる電車があると。もちろんそれは終電より後で、回送電車ですらない。つまりは幽霊電車なのだ。

 深夜に音もなく通り過ぎる幽霊電車の中には疲れた顔の乗客が乗っていたという話から、ただ黒い影がびっちりと詰まっていたという話まである。

 その幽霊電車には乗りたい者は誰でも乗れるという。ただし、降りたい者が誰でも降りられるという話にはなっていないのがこの都市伝説の肝心なところだ。

 勇気があるなら乗って見ろ。そう云うことだ。

 おかしくも奇妙な都市伝説。でもそれは僕の興味を惹いた。

 こうして人生に迷っている僕が、どこに行くともしれない電車に乗って帰れるかも分からない旅に出る。

 頭の中で例の歌が響いた。

 きっとこの怪奇は僕を呼んでいるんだ。空っぽの僕を。二度と帰れぬ旅に誘っている。


 だから僕は今ここにいる。

 昼の内に到着し、無人駅の待合室のベンチに座って待った。待合室は古びた木で建てられていて、何かのポスターが貼ってある。小さな切符の自動販売機が置いてあったが錆びていて動くようには見えなかった。

 途中で買って来たサンドイッチを食べ、持って来た文庫本を読んで時間を潰す。夜になると一つだけある電灯がかろうじて点いたのにはほっとした。最低限のメンテはしてあるようだ。

 蚊には悩まされたが、何度か追い払っている内にそれも来なくなった。

 やがて僕の他にも人が集まってきた。ある者は電車で、ある者は車で。

 この噂はずいぶんと広まっているから無理もない。

 一番目につくのは騒がしい大学生らしいグループ。男が三人で女が二人。肝試しのつもりらしくきゃあきゃあと楽しくふざけ合っている。

 髪の長いずうっと俯いている細身の女性。地味な服を着ていて恐らく化粧はしていない。ときどき小さくすすり泣いているのが聞こえて、その嘆きの真剣さが僕の胸を痛ませた。

 スーツを着た疲れたサラリーマン風の男。よれよれの背広が家庭がうまく行っていないことを示している。

 何かを思い詰めた若い女性もいた。

 土方風の男は来るとすぐにベンチに座って持って来た弁当を食べ始めた。この人は一番オカルト話には縁がなさそうなのにと不思議に思った。

 集まってきた人たちはこれで最後かと思った所に、タクシーが一台やってきて、男が一人降りて来た。

 体格の良い、見るからに粗暴そうな男だ。首にかけている金ネックレスで男の職業がだいたい分かる。もちろんヤクザだ。

 男を見て大学生のグループの騒ぐ声が少し小さくなった。

 僕たちはちらりとお互いを見て、それから礼儀正しく無視した。和気あいあいとやるような気分でもないことは明白だった。


 古びた待合室に掛けられた時計が二時を示す。

 どうせ来ないだろうと皆が思っていた幽霊電車がやってきた。



 一切音はしなかった。

 電車の質感はある。駅のホームに滑り込んで来たときには車体が押しのける風まで起きた。だけど車輪がレールに当たる音はしなかった。

 長さは二両ほど。外見は普通に見かける電車のモノだ。だが行先表示には何か読めない文字らしきものが描かれていた。

 誰もがその異様さは感じたようだ。

 はしゃいでいた大学生グループも大人しくなった。自分たちが見ているものがまぎれもなく幽霊電車だと理解したのだ。

 電車のドアが音もなく開く。

 皆恐るおそるという感じで中を覗きこんだ。

 誰もいない。空っぽだ。果たしてその空白を破って中に入っていいものかどうか躊躇う。運転室には誰かいるようだが影になっていてしっかりとは見えない。

 この恐ろしい空間に真っ先に足を踏み入れたのはあの俯いていた女の人だ。

 彼女は躊躇わずに電車の中に入ると手近の座席に座った。

 その間にも、あの子を返して・・と小さな声で延々と呟いている。

 次に金ネックレスの男が肩を怒らせて入る。俺はこんなのちっとも怖くないんだという振りを装っている。

 お互いを指で突き合っていた大学生グループがこれを見て勇気が出たのかドタドタと乗り込む。

 それから僕だ。自分が生きていても死んでいても構わないぐらい空っぽなのだと思い出し、すべてがどうでも良くなって力なく電車に乗り込んだ。

 残りの人たちも迷っていたが最後には何かに押されるかのように乗り込んできた。

 ドアが音もなく閉まると電車が発車した。


 隣に座った女の子がいきなり話しかけて来た。

 きっとひどく不安だったのだろう。車体が風を切る音はする。だけどレールに車輪が当たるガタンゴトンは聞こえてこない。窓の外を夜景が流れていく。真っ暗な中に夜更かししている家の明かりと街灯の光だけが輝線となって後ろへと伸びる。

 光景はごく普通なのにどこか普通じゃない。

 きっと電車の外は生者の世界で、この中はすでに死者の世界なのだろう。

 これでは誰でも不安になる。

「この電車に乗れば未来が分かるって聞いたの」

 訊きもしないのに彼女が話始めた。

「僕が聞いたのはちょっと違う。自分の人生の目的が分かるって聞いた」

 僕はちらりと今は大人しくしている大学生のグループに目を向けた。

「彼らはまた別の噂を聞いたみたいだね。肝試しに来たみたいだ」

「本当に電車が来るとは思っていなかったの。明日の朝にはああやっぱり嘘だったのかって苦笑いをしていると思っていたのに」

「僕もだ。自分が追い込まれておかしくなっていたのは分かる。でもまさか本当に電車が来るとは思っていなかった。いったいこの電車は何だろう。幽霊、それとも幻。僕たちはあの待合室で夢を見ているのか」

 彼女は指を伸ばすと僕の頬を突いた。

「夢だと思う?」

 何だか素敵な感触。僕は思わず微笑んで答えた。

「思わない」

 改めて彼女を見る。髪はショートヘアにしている。社会人二年目ぐらいか。大人しい感じにまとめたGパンとジャケット。活動的な服装だ。帽子で頭を隠したら女性には見えなかったかも知れない。

「あたしね。失恋したの。将来を夢見ていた相手は別の女の人を選んだの。苦しくてね。苦しくてね。苦しくて堪らないから、この電車の噂に賭けたの。相手が戻って来るのかどうか知りたくなったの」

「それならまだマシだ」

 それを聞いて彼女の顔が険しくなった。

「どういうことよ」

「ロキソニン」

「?」

「ロキソニンを飲めばいい。失恋の苦しみは結局のところ脳神経の痛みだ。だから鎮痛剤を飲めば心の苦しみも和らぐ」

「嘘!」

「嘘じゃないさ」

 確かに嘘じゃない。どこかの医学研究の論文に出ていた。

 彼女の顔が歪んだ。

「こんなに心が苦しくて死んでしまいたいと思っているのに、これが単に薬を飲めば治る痛みだなんて信じられない」

 彼女はそっぽを向いた。僕はなにか彼女の大事なものを傷つけてしまったようだ。

 僕は肩を竦めると、話を打ち切って正面を向いた。

 失礼だとは思ったさ。だけど彼女の苦しみは薬を飲めば多少は和らぐけど、僕の胸の空虚さは薬では埋まらない。

 実を言えばちょっとだけ彼女が羨ましかった。彼女にはまだ打つ手が残っているのだから。


 電車は走る。夜の中を静かに。

 風の音だけが響く。あの俯いた痩せた女の人はまだブツブツ言っている。ときどきその手が前に上がり、何かを抱く仕草をする。恐らく彼女が妄想の中で抱いているのは赤ん坊だと思った。手つきだけがすごく優しかったからだ。

 大学生グループは静かだ。自分たちがとんでもないモノに乗り込んでしまったと、今更ながら気づいたようだった。窓の外をスマホで撮影しようとして、どうして映らないんだスマホが壊れたと叫んでいる。

 僕も自分のスマホを出してみた。アンテナ表示は圏外になっている。

 窓の外の夜景はいつもの見慣れた、それでいて何か違うものに変わっていた。どこがどうとは分からないのだが、何か変なものがどこか見えない場所に付け加わっているかのようだ。

「次は・・」

 細い声でアナウンスが流れた。

「・・きさ・・らぎ駅です」

 きさらぎ駅。有名な都市伝説に出て来る謎の駅の名前だ。

 前方を満たす夜の中に駅の灯が見えてくる。電車はそこにとても静かに停車した。

 扉が音もなく開く。冷たい夜気が流れ込んで来た。

「すずき様。あんどう様。なかにし様。きた様。やまだ様。お降りください」

 アナウンスが告げると大学生グループから悲鳴が上がった。

 どうやら読み上げられたのは彼らの名前らしい。

 大学生グループは怯えて固まっている。

 電車がいつまでも動かないのを知って金ネックレスの男が立ちあがった。

「おい、てめえら。呼ばれているだろ。降りろとよ」

 嫌だと呟いて逃げようとした男の首根っこを、金ネックレスは捕まえると開いたままのドアの外へ放り出した。続けて残りの四人も強引に追い出す。

 扉が閉まるとまた電車は動き出した。灯のついた駅の中に五人の人間が茫然とした顔で佇んでいる。

 また車内は静かになった。

 しばらくすると次の駅が近づいて来た。

 あいこ駅と読めた。

 痩せた女の人がそれを見てふらりと立ち上がった。

「愛子。あの子の名前。あたしの番ね」

 扉が開くと躊躇うことなく彼女は降りた。


 次の区間は長かった。

 果たしてこの電車は次の駅に着くのかと思ったときに、ようやく前方に駅の灯が見えた。

 うらみ駅と読めた。浦見か、それとも恨みか。

「俺の番か」

 金ネックレスの男が立ちあがった。自分の中の恐怖を他に見せないように歯を食いしばっている。弱みを他に見せられない世界で生きて来た人の顔だ。

「あばよ。兄ちゃん姉ちゃんたち。縁があったらまた会おう」

 扉を出る前に、懐から刃物を引き出すのがちらりと見えた。

 それ以上何をする間もなく、扉が閉まると電車は発車する。


「次はあたしだと思うの」

 隣の彼女が言った。

「未来を知ってどうするの?」僕は訊ねた

「分からない。悪い未来だったらそのまま帰って来ない。行先がどこだか知らないけど、元いた所よりはマシかも」

 そうだったらいいなと思った。空っぽの僕には彼女を止められるだけの説得力がない。それに、きっとこの電車に乗った者は必ず目的地に行かないといけないのだろうと思った。そのためだけにこの電車はどことも知れない場所からやって来たのだ。

 やがて電車は止まった。

 彼女は緊張の面持ちで駅名を見ていたけど、覚悟した表情で開いた扉から降りて行った。

 その後三駅ほど止まった。サラリーマンが一人。土方のような人が一人。電車の隅に小さくなって座っていたホームレスが一人、それぞれ降りていった。

 とうとう電車の中にいるのは僕だけになってしまった。

 胸がドキドキする。空っぽの胸でも鼓動はするんだなと理解した。

 電車の速度が静かに落ちるとやがて停車した。

 空はそろそろ朝が近づき、淡い青が目に染みるようになっていた。考え事をしていたので、朝焼けは見逃してしまった。

 駅名はおわり駅だった。

 何となく僕に相応しい。

 線路もこの駅で終わりになっていた。車両止めぎりぎりで電車は止まる。

 僕は電車から降りて周囲を見回した。

 緩やかな丘が目の前に広がっている。僕はそれを登った。

 丘は丈の短い草に覆われている。風が周囲の草原の上を渡る。午前の優しい光を穂先に乗せた草の波がまるで波のように風を映して広く走る。

 とてもいい気分だ。

 丘の上には木造の東屋が立っていた。

 青いスレート葺の屋根。白く塗られた四隅の柱。中央に縁台が設えてある。

 そこまで行くと丘の向こうの海が見えた。綺麗な砂浜に打ち付ける白い波が綺麗だ。潮騒が微かに聞こえる。

 思わずその縁台に座ってしまった。わずかに塩の香りを含んだ穏やかな風が吹いて来る。

 日が昇るにつれて海全体が日光を反射して銀色に輝く。どこか遠くで鳥が飛んでいるのが見えた。

 いつまでもここに居たい。こうして何もせず海を眺めていたい。

 そう思った。


 気がつくと日が傾きかけていた。ここで一日が経過したなんて信じられなかった。

 名残は惜しかったが僕は立ち上がった。不思議なことにお腹は全然空いていない。

 丘を降り始めると駅が見えた。電車はまだそこに止まっている。

 周囲に闇の帳が落ち始める。無数の星々が煌めき始める。

 電車の外で僕を出迎えてくれた運転手は制服を着たどこにでもいるような中年のおじさんだった。

「急いでお乗りください。そろそろ出発します」

「どこへですか?」

「決まっているでしょう。元の場所へですよ」

「僕はここに残りたいんですが」

 口にしてから気づいた。それが僕の本心だと。

「振り返ってご覧なさい」

 運転手の言葉に従って僕は素直に後ろを見た。

 そこには星空の光の下でもわかる岩だらけの丘が広がっていた。その上には草木一本も生えてはいない。

「ここはまだ産まれていない場所なんです。未来にそうなるであろう姿をほんのわずかだけ貴方は垣間見たのです」

 運転手は制服の帽子の傾きを直した。

「貴方が価値のあると思われる人生を送ればここは昼間に見た風景になるでしょう。

 貴方が充実した人生を送ればもっと色々な木々が生えるでしょう。

 貴方が愛を得られれば東屋ではなく家族が暮らせる家が建つでしょう。

 すべては貴方次第です」

「でも・・」僕は言い淀んだ「・・この空っぽの僕にいったい何ができると言うんです?」

「それは貴方自身が見つけることです。その心が空っぽならばそれを満たしてくれるものを探すことですね。貴方はまだこの世界の万分の一も見ていない」

「僕にはできないそんなこと」

「できますとも。すでに貴方の心にはこの場所が刻み付けられた。いつか未来のある日にここに戻って来たければ、この場所のことを忘れてはいけません。この場所を探すことを怠ってはいけません」

 運転手は今や先頭車両となった最後尾に向けて歩き始めた。

 運転手は操縦室に入った。電車が先を促すかのように汽笛らしき音を鳴らす。

 僕は電車に乗り込んだ。

 静かな音のしない加速を背中に感じながら、僕は座席の上で目を瞑る。

 確かにあの光景は僕の心の中にあった。柔らかな日差しと一面の草原。爽やかな風。

 僕はもう空っぽではない。

 それがことのほか嬉しかった。


 来た駅を逆に辿りながら電車は進んだ。

 三つの駅の内の一つだけ人が乗り込んで来た。土方風の男だ。奇妙にそわそわして、中に乗っている僕を見て話かけたそうにしていたがやっぱり止めて、隣の車両に移った。残りの駅では電車の扉は開いたが誰も乗りこんでは来なかった。

 降りて行った人たちはどうなったのだろう。僕の場合とは違ってそこに居残ることが許されたのだろうか?

 さらに次の駅ではあの娘が乗って来た。

 顔がほのかに赤い。そして見違えるように元気になっている。

 僕を見つけると駆け寄って来て横に座った。

「あたしね。あたしね。いっぱい見たの。たくさん知ったの」

 目がキラキラしている。

「でもね。でもね。全部忘れるのだって。未来をすべて知るのは悪いことにしかならないって。でもあたしがそれを見たことだけは覚えているって」

「それで満足なの?」

「ううん」彼女は首を横に振った。

「でもそれだけでも大前進。今サイコーの気分」

 彼女はスマホを出した。

「あなたのスマホも出して」

「ええ。どうして?」

「貴男のことも忘れてしまう前に連絡先を知りたいの」

 半ば強制で連絡先を登録されてしまった。

「必ず後でメールしてね」

「でも全部忘れちゃうんだろ。見知らぬ人からメール来たら気持ち悪がられるんじゃないのか」

「大丈夫。これだけは絶対に忘れないから」

 びっくりだ。こんなに積極的な娘だったとは。


 彼女と楽しくお喋りしているとすぐに次の駅に着いた。

 扉が開くと血まみれの男が転がり込んで来た。片目が潰れ、片腕をだらんとさせている。服は真新しい血で濡れている。金ネックレスだけは着けたままなのであのヤクザだと分かった。

 立っていられないらしく入るなり扉の横に座り込んだ。

 こちらをじろりと見る。

「おう。兄ちゃん。何か食えるもの持ってないか。腹が減ってたまらん」

 僕が持ってないと答えると彼女が飴をどこかから取り出した。

「こんなものしかないけど」

 ヤクザはそれをうれしそうに受け取ると包み紙を剥いて口に放り込んだ。

「すまないな」

 口の中の飴の甘味が嬉しいのか、血まみれの顔なのに笑顔が浮かぶ。

「いったい何が起こったのかと訊くだけヤボですね」と僕。

「そうだな。兄ちゃんたちが一生見るべきでも遭うべきでもない光景ってのがこの世にはあるんだ」

 それ以上は彼は何も言わなかった。そして座ったまま眠りに落ちた。いや、昏睡したのだろう。

 きっと彼はその人生で受け取るべきものを受け取ったのか、払うべきものを払ったのだ。


 次の駅はあの痩せた女の人だ。

 彼女は何かを胸に抱いて電車に乗り込んで来た。

 ちらりと見た限りでは赤ちゃん用のおくるみだ。

 だけどその中には何も入っていない。

 彼女の顔には慈母の笑みが浮かんでいた。相変わらず痩せていたがその笑みが全体を柔らかく包んで以前よりもふっくらと感じさせる。

 すぐに産みなおしてあげるからね。おくるみに向けてそう呟くのが聞こえた。


 次は例のきさらぎ駅だ。

 扉が開くと共に大学生グループが飛び込んで来て座席にしがみついた。みな顔が涙と汗でぐしゃぐしゃだ。

「早く。早く。扉を閉めて。奴らが来る!」

 彼らは扉が閉まるまでのわずかな間も怯えた目で入口を見つめていた。

 一人の髪が白くなっていることに僕は気づいた。

 きっと物凄く恐ろしい目に遭ったんだ。

 グループの一人は入口の近くで血まみれで横たわっているヤクザの人を恐ろし気な表情で睨んでいた。まるで横になった人間がふらりと立ち上がるのを恐れるかのように。


 電車がふたたび動き始める。ちらりと窓の外に電車に追いすがろうとする何かの影が見えた。

 それもすぐに過ぎ去り、窓の外はただの夜景だけに戻る。

 そして最後の駅、この旅の出発点である無人駅に着いた。

 扉が開くと転げ落ちるかのように大学生のグループが外へ飛び出て行った。

 それからおくるみを抱いた顔に満面の笑みを浮かべた女の人。相変わらずおくるみの中は空だが、でもそこにはきっとこれから産まれて来るに違いない赤ちゃんがいるのだろう。

 土方のおじさんが出て行くと、僕と彼女の二人だけになった。後は血まみれのヤクザの人。こちらはピクリとも動かない。

 動かしてよいものかどうか。あるいは僕の力で体格の良い大の大人を動かせるものかどうか迷っていると、運転手が運転室から出てやってきた。

「お客様。終点です。この電車はこれより回送となります」

 そう言うとヤクザの人をまるで猫かなにかのように軽々とお姫様だっこした。

 そのまま電車の外に運ぶと無人駅の待合室のベンチにそっと横たえる。

 運転手は制服の帽子を整えると、再び電車の方へと歩き出す。

 そこで僕は思わず訊いてしまった。

「この電車はいったい何なんです。これはいったいどういうことなんです?」

 運転手は足を止めると振り返って答えた。

「数千年ぶりに方針が変わったのです。貴方たちはあまりにも先が見通せず、結果として不幸になってしまいます。だから我々はその人生をほんの少しだけ手助けすることにしたのです」

 そこまで言うと運転手はくるりと回れ右をしてこちらに背中を向ける。

「決して来ない列車に乗ってまだ産まれていない場所に行くのはただ一度切り。あなたは愛を手にいれることができるでしょうか?」

 僕の返事も聞かずに彼は・・いや、それは電車に乗り込むと発車した。

 やはり音も立てずに幽霊電車が闇の中に消えて行く。

 少し躊躇ったけど、スマホを出して救急車を呼ぶ。

 金ネックレスのヤクザさんはそれで何とかなるだろう。彼らが何モノかは知らないけど、死なせるために幽霊電車に乗せたのではないと僕は信じる。

 スマホの液晶画面の表示では出発からわずかに五分しか経っていない。

 僕は彼女の方を向いた。彼女の目は驚いたように僕を見つめている。

「ここでお別れか」呟いてみる。

「あなた、誰? 知り合いだったかしら?」

 彼女は不思議そうに言った。幽霊電車を降りた途端に言われたように記憶が消えたらしい。ちょっとがっかりした僕に向けて彼女は続けた。

「でも覚えていないけど覚えている。きっとそういうことなんだ」

 彼女は僕の手を取った。

「街に戻ればどこかに深夜営業のファミレスぐらいはあるはずよ。それでいい?」

「それでいい」


 こんな素敵な娘を振る男がいるなんて信じられない。

 きっといつか僕がたどり着く夢の丘には綺麗な可愛いコテージが建っていることだろう。家族で過ごせるように。

 そう確信できた。

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