第4話:再びの『施設』と発見
灰色の街並みが沈黙している深夜。空調の微かな音だけが耳に届く。タナベ重工のオフィスで端末に向かっているのはミカだけであった。
薄暗いデスクランプの光が書類に映り込み、彼女の指がキーボードをリズミカルに叩く音が響く。そのリズムが彼女の集中力をさらに高めるようだった。
端末の画面に現れるコードの流れは無機質で冷たく、まるで感情のない生き物。彼女の視線は、無数の文字列に固定されていた。
「一体、この膨大なコードの背後にはどれだけの人々の時間と労力が隠されているのかしら」
ミカは独り言のように呟いた瞬間、彼女の目に飛び込んできたファイル名を前に、キーボードを叩く手が止まる。
「ヒューマンリプロダクションプロジェクト」
その名は、現代社会の基盤を構築した国家プロジェクトとして、国民の誰もが知っている。しかし、同プロジェクトにタナベ重工の先端技術が多用されている事実を知るものは少ない。ミカは一瞬だけ躊躇したが、好奇心に駆られてファイルにアクセスを試みた。
「まさか、これが本当に…」
ファイルの中身は彼女が予想していた以上に衝撃的なものであった。そこには半世紀前に立案されたクローンの育成計画の原案と、「施設」に供給されるクローン教育プログラムの基幹プロトコルが詳細に書かれていた。
高度に組織化された教育プログラム、クローンたちの育成環境、彼らの社会的役割まで、膨大なシミュレーションと多変量解析の結果が詳細に記されている。
ミカは、学生の頃に手にしたディリダの歴史的な考察、「声と現象」を思い出した。クローンという存在が、人間のアイデンティティと自己認識を揺るがす根源的な「異他性」を孕んでいる、そう直感したのだ。
その夜、彼女はハルキに連絡を取り、ファイルの存在を伝えた。
「端末にファイルを送信したわ」
「これは、僕らの認識の起源なのかもしれない」
ハルキは、まるで何かに抑圧されたような低い声で答えた。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。いずれにせよ、『施設』に行ってみることは必要かもしれないわ」
翌週、仕事を早めに切り上げたハルキとミカは、東京郊外にあるタナベ重工の管理施設に向かっていた。ファイル名からIPアドレスを調べることは、エンジニアのハルキにとって容易なことだった。
車の窓から見える景色は、一面の灰色に染まり、無数の建物が無機質なパターンを描いていた。ミカは、車窓を眺めながら、この無機質な景色の中に、社会の監視と規律を感じていた。まるで、フーコーの「異常者の監獄」が現実のものとなったかのような景色であった。
「ここが…『施設』?」
ハルキは車を停め、施設の入口を見つめた。薄暗い施設内は、長年にわたって放置されており、半ば廃墟と化していた。
タナベ重工の社員であるハルキもミカも、この場所を知らなかった。薄暗い建物の内部に入ると、自動的にLEDランプが点灯した。
ハルキとミカは驚きの表情で顔を見合わせたが、どこまでも続く灰色の廊下に人の気配は存在しない。どこかで雨漏りのような、水が滴る音が聞こえる。廊下に響く足音と重なって不協和音を奏でた。
「この施設に見覚えがある…」
ハルキの声に、ミカはゆっくりうなずくと、廊下の奥へ歩みを進めた。
廊下の奥にはらせん状に積み上げられた特徴的な天井の大きな部屋があった。規則正しく並んでいる書棚から、この部屋が図書室のようなものであることは分かった。ハルキは薄暗い部屋を見回しながら、その光景がどこか懐かしいように感じていた。
「ハルキ、これが君の記憶の一部かもしれない」
ミカはそういうと、書棚に並ぶ本の背表紙を撫でた。古い書物は埃にまみれ、時間の流れを物語っていた。
「オリジナル…」
「ハルキ?」
「オリジナルと呼ばれていた、それは…」
ハルキがこめかみを抑えながらしゃがみ込む。ミカは、タブレット端末を鞄から取り出すと、自身のIDを使って、タナベ重工のデータベースへアクセスした。
「オリジナル…クローン技術の開発初期に行われた実験? クローンたちのオリジナルである人間の記憶と人格…ドクター・ミヤモト」
データベースから得られる情報は断片的であり、テキストを修復するためのアプリケーションは手元の端末にはインストールされていなかった。
「ミヤモト博士……。そう、ミヤモト先生は僕の子どもの頃……」
ハルキはゆっくりと立ちあがる
「ハルキは、ドクター・ミヤモトを知っているの?オリジナルって何?」
「分からない。オフィスに行けばファイルを修復できるかもしれない」
管理施設の外に出ると、いつの間にか夜空に星が瞬き、遠くの街の灯りが彼らの影を長く伸ばしていた。車のエンジン音が静かな夜に響く中、助手席にすわるミカはハルキに問いかけた。
「どうして、こんなことを隠しているのかしら…」
「さあ、隠しているという認識が本社にあるかどうか。クローンが社会に与える影響について、僕らは何も知らない、そのことだけが今のところの真実ってわけさ」
ハルキの言葉は、車内のエンジン音に溶け込むように消えた。システム開発のオフィスに戻ると、二人は再び端末に向かい、ファイルの復元作業を始めた。
「これで…よし」
ミカはファイルの復元作業を終えると、スクリーンに現れたテキスト情報を見つめた。そこには、クローン技術の詳細なプロトコルと、ミヤモト博士の学術論文の全文が記録されていた。
「ミカ、これを見てくれ」
ハルキが指差したのは、クローンの成長過程を示す図表だった。
ミカは図表に目を凝らし、情報工学的な視点からその内容を解読しようと試みた。そこにはクローンの成長をモデリングしたアルゴリズム、ニューラルネットワークによる教育プログラムの最適化、さらにディープラーニングを用いた人格形成のプロセスが詳細に記されていた。
「クローンたちの教育プログラムは、自己組織化マップを基盤にしているわ。個々のクローンが持つ微細な違いを捉え、それに応じた最適な教育を提供するシステム……これがクローン育成基盤の本質」
ミカはそう言ってため息をついた。
「クローンたちは独自のパターン認識によって学び、適応していく。まあ、それはそうかもしれない」
「大事なことは、クローンの記憶や経験はクラウドに保存され、ネットワークを通じて共有される。つまり、彼らは集合知を持つ存在。ただし、第5世代は違う」
「第5世代。確かに僕には集合知の知覚や認識はない。クローンによる人権運動がなぜ、これほどまでエスカレートしているのか、今は何となくわかる。彼らは互いに経験を共有しているんだ……」
クローンたちの存在は単なる生物学的な複製を超え、既に情報工学的な生命体となっている。
「この技術の発展は、倫理的にも多くの問題を提起したはず。人とは何か、自己とは何か、その問いに答えるためには、私たちはもっと深く考えなければならない。ドクター・ミヤモトと直接に話がしたいわ」
ミカは静かにそう呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます