壱 烏眼(うがん) その二
その場に立ち竦んで声を失った私をよそに、カラスの眼をした息子は、あちこちを珍しそうに見まわしていました。
きっとカラスが、息子の眼を借りて、室内の様子を探っているのだと思いました。
我に返った私は、とにかくカラスを追い払おうと、キッチンから包丁を持ち出し、ベランダの窓を開けました。
そして半狂乱になって包丁を振り回し、ベランダのカラスに切りつけたのです。
しかしカラスは、私の攻撃などものともせず、悠々とベランダから飛び去って行きました。
とにかく追い払うことが出来たと、ホッとした私は、室内の息子に目を遣りました。
すると息子はきょとんとした表情で、私を見上げています。
その眼は、元に戻っていました。
その夜帰宅した夫に、息子の眼が、カラスの眼に変わっていたことを説明しましたが、やはり信じてはくれませんでした。
それでも駆除業者に相談することには、賛成してくれました。
それ以外にも私たちは、ネットで調べた可能な限りの方法を採ることにしました。
防鳥ネットや、超音波の発信機も購入し、ベランダに設置しました。
しかし駆除業者に相談した結果は、あまり芳しいものではありませんでした。
特定の個体を狙って駆除することは、かなり難しいと言われてしまったのです。
無理にお願いして、ハイキングの時に見かけた巣の場所まで同行してもらいましたが、既に巣はなくなっていました。
そしてその頃から、私たちの周辺が騒然としてきたのです。
うちの近所に、毎朝、数十羽のカラスが飛んできて、大声で鳴き始めたのです。
カラスの声は、一羽でも相当な大きさなのに、それが群れで鳴き始めると、とんでもない音量になります。
それが毎朝続くのですから、町内は大騒ぎになりました。
町内会の代表の方が、市役所に相談してくれたそうなのですが、なかなか対応してくれません。
皆が、本当に困り果ててしまいました。
そんな中で私は、カラスの群れの中に、あいつを見つけました。
群を抜いて大きな体をしたあいつが、王の様に、群れを率いていたのです。
そして騒ぎは、息子の通う幼稚園にも広がりました。
まず幼稚園周辺を、昼間でもカラスが飛び交うようになったのです。
それだけでも不穏だったのですが、そのうちカラスたちが園庭に降りてきて、園児たちを威嚇し始めたのです。
何度追い払っても、すぐに戻ってきて、威嚇を繰り返すので、先生たちも困り果ててしまいました。
何時まで経っても騒ぎが収まらないので、やがて周囲の冷たい眼が、私たちの家族に向けられるようになりました。
そもそも近所では、うちだけが過剰なカラス対策をしていたので、以前から変に思われていたようです。
それが徐々に変な噂に変わっていって、うちのせいでカラスが集まって来ているという風に話が広がって行きました。
うちがカラスを怒らせるようなことをしたため、カラスが攻撃してくるのだと。
それだけではなく、幼稚園からも変な噂が流れてきました。
園児たちが、息子を怖がっているというのです。
親しいママ友に理由を聞いて見ると、息子の眼が、時々真っ黒になっているのだそうです。
それを聞いて私は慄然としました。
あの時以来、家の中で息子の眼が、カラスに変わることがなかったので、すっかり安心していたのです。
それがまさか、幼稚園でそんなことになっているなんて。
私はあまりの事態に、ノイローゼになり掛かっていました。
そして遂に、決定的な事件が起きたのです。
その夜私は、不安でなかなか寝付かれず、明け方になって漸くウトウトし始めたのです。
ただ、かなり神経過敏にいたので、ちょっとした物音にも敏感になっていました。
目を覚ました私は、隣に寝ていた息子がいないのに気づき、ベッドから跳ね起きました。
そして音のするキッチンの方に、急いでいってみたのです。
そこには息子が立っていました。
息子はいつの間に覚えたのか、ガスコンロのコックを捻って、火を点けていました。
そしてあろうことか、手に持った新聞を、コンロの火で燃やそうとしていたのです。
慌てた私は、息子の体を引き寄せました。
私が見た息子の眼は――漆黒に変わっていました。
そしてその奥に、はっきりとした憎悪の色が見えたのです。
言葉を失った私に向かって、息子は大きく口を開け、
「クァー」
と、一声鳴きました。
その
騒ぎを聞きつけて、キッチン駆け付けた夫を押しのけ、私はベランダに向かいました。
向かいの家の屋根には、やはりあいつがいて、こちらを見ていました。
その眼が、遠目にも息子のものに変わっているのが、はっきりと分かりました。
「息子を返して!私たち、ここから出て行くから!お願いだから、息子を返して!」
私は、カラスに向かって思い切り叫んだのです。
カラスは少しの間、じっと私を見ていましたが、やがて空に向かって、「クァー」と一声鳴くと、飛び去って行きました。
その姿を見送って私が振り向くと、背後に夫と息子が立っていました。
そして息子の眼は、元の人間の眼に戻っていたのです。
私は夫と話し合い、その日のうちに息子を連れて、実家に行きました。
両親が驚いていましたが、適当に理由をつけて誤魔化しました。
事実を告げても、とても信じてもらえないと思ったからです。
その後主人は、かなり離れた場所に、引っ越し先を見つけてくれました。
引っ越し先では、今のところカラスに煩わされることがないので、少しホッとしています。
あのカラスが、何故私たちを襲ったのか、今でも理由は分かりません。
私たちを追い出すことで気が済んだのか、ママ友情報では、あれ以来、元居た町で、騒動は起きていないようです。
今住んでいる町でも、日常的にカラスを見かけますが、私は決して、眼を合わせないよう気をつけています。
私の話はこれで終わりですが、皆さんも、くれぐれもカラスとは目を合わせないようにして下さいね。
了
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