第二部「冬桜のうたかた」第3話(完全版)(第二部最終話)

「さすがに寒いね」

 翌日、昼過ぎ。

 萌江もえ咲恵さきえの二人は、郊外の小さな駅の前にいた。

 曇り空。

 駅前の閑散かんさんとした人通りと薄い陽の光に、確かにこの日の体感温度は低い。

 そんな中で出た萌江もえの愚痴に、隣の咲恵さきえが返した。

「電車の中が暖かかったからね。電車内の温度調整も難しいんだよ。だいぶ長時間だったし」

「思ったより遠かったしね」

「そうだね。割り切って店を女の子達に任せてきて正解だったかも」

「無理しなくても、よかったんだよ…………」

「そんなわけにいかないこと…………分かってるでしょ……」

「まあ…………そうだね…………」

 もちろん、萌江もえ咲恵さきえの過去を知っていた。

 話に聞いていた部分も少しはあるが、そのほとんどはお互いに流れ込んできた感情や記憶で理解していた。決してそれについて、ことさら何かを突き詰めようと思ったことはない。

 真梨子まりこの話を総合すると、真梨子まりこ幸三こうぞうと暮らしていた町は、どうやらかつて咲恵さきえがいた所。もちろん幼い頃ではあったが、咲恵さきえはこの町で暮らしていた。

 真梨子まりこはアパートの住所を正確に覚えてはいなかった。番地などがあやふやだったが、それでも駅からの道なりは聞いていたので、ネットのマップと合わせれば問題はなさそうだった。しかも駅からはそれほど遠くはない。

「歩いて二〇分くらいかな」

 スマートフォンを眺めながら咲恵さきえが呟く。

「雪道だからもう少しかかりそうだけど、行きますか」

 そして二人が歩き始める。

 真梨子まりこが暮らしていた頃とはだいぶ雰囲気も変わっているのだろう。当時は夜になると真っ暗だったと聞いていたが、現在はそんな駅前にもコンビニがある。おしゃれなカフェもあった。当時の面影がどのくらい残っているのか、それを伺い知ることは難しい。

 それは今向かっているアパートも同じだった。ネットのマップを見る限りでは、おそらく更地になっているように見える。少なくとも当時の建物は残っていないようだ。別の建物が建っていないことを祈りながら二人は歩き続けた。

 寒いとは言ってもプラスの気温。歩道に僅かに積もった雪が溶けかけて歩きにくい。救いはそれほど人が歩いていないことだろうか。駅も周辺の道路も綺麗きれいに整備されてはいるが閑散かんさんとした田舎の駅という印象は拭えない。

 道路沿いのお店はだいぶ様変わりしているようだが、真梨子まりことマップを見ながら確認したので間違いはないだろう。マップを見るだけで真梨子まりこの顔色が変わっていたのを思い出す。思い出したくない記憶なのも無理はなかった。

「やっぱりだったね」

 萌江もえが呟く。

 やはりそこは更地だった。

 かなり広い。アパートの建物一棟だけではなく、周辺の建物も取り壊されているような広さだ。十字路の角という話だったので大体の位置は特定出来た。

 何回にも分けて深く積もった雪から、僅かに雑草が顔を出す。周囲に看板のような物もないので、今すぐ何かが建設予定ということでもないようだ。

「……こうして……変わっていくんだね……」

 萌江もえはそう言いながら、広い雪景色に視線を振っていく。

「部屋の位置までは…………難しいかな…………」

 咲恵さきえがそう言いながら萌江もえを見ると、萌江もえはちょうど水晶を左手に巻きつけているところだった。

「たぶん分かる……大丈夫……」

 萌江もえはそう言いながら、道路から敷地へ。目の前の積み重なった雪に足跡をつける。黒いショートブーツが足首まで隠れた。

 水晶が熱い。

 咲恵さきえも後ろに続いた。

 やがて、萌江もえの足が止まる。

「…………ここ………………ああ…………そうきたか…………旦那さんに知られたくない過去って……そういうことか…………」

 その萌江もえの言葉に続くように、咲恵さきえにも当時の光景が流れ込んでいた。

 その咲恵さきえが口を開く。

「……やられたね…………あの人は私たちにも隠してた…………」

「うん…………それに……………………あの人の知らないこともね…………」

 萌江もえはそう言いながら、僅かに体を震わせる。

 壮絶そうぜつな光景が見えていた。

 すると、咲恵さきえ萌江もえの言葉をすくう。

「……なんてこと…………みんな……知られたくない過去とか…………見たくなかったものとか…………色々あるんだよね…………」

「やっぱり、みっちゃんの見立ては正しいね。私たちじゃなきゃ…………こんなの解決出来ないよ…………」

 その割り切ったような萌江もえの声に、咲恵さきえの声が続き、響いた。

「…………雪が積もったくらいじゃ、隠せないね…………」

「いこ」

 萌江もえはそう言って道路に移動しながら続けた。

「ここはもう嫌だ」

「そうだね………………じゃあ…………次に行く?」

「……大丈夫?」

 振り返ってそう言う萌江もえに、咲恵さきえはすぐには返さなかった。

 それでも、咲恵さきえ萌江もえの隣に移動し、水晶を握った萌江もえの左手に触って口を開く。

「自分で決めてここに来たからね…………このままじゃ帰れない…………」





 そこまではかなりの距離があった。

 駅からそこまで真梨子まりこが歩いたという事実を考えると、その時の気持ちはどんなものだったのだろうかと、もちろん二人の頭にもそんなことが過ぎる。

 その時も雪は溶けかけていたのだろうか。溶け続ける歩道の雪も歩きにくさを手助けしたことだろう。

 二人は近くまでタクシーを使った。

 時間はもう一五時を過ぎている。すでに陽が傾いているのが空の色からも分かった。曇り空とはいえ、その明るさの変化は早い。

 郊外。道路は片側一車線のまっすぐな道。

 周囲にはかろうじて民家が点在する程度になってきた。

 そんな頃、タクシーのガラス越しに見えてきたのは大きな鳥居とりい

 その鳥居とりいの前でタクシーが停まる。

「ここですよね」

 運転手が僅かに不思議そうな声を出すと、応えたのは咲恵さきえだった。

「…………はい、ここで大丈夫です」

 咲恵さきえは財布から五千円札を出して続ける。

「お釣りは結構ですので」

「あ……すいません。ありがとうございます」

 そう応えた運転手の笑顔をうしろに、二人は鳥居とりいに視線を送ったままタクシーを降りた。

 きっと、元々はもっと鮮やかな〝朱色しゅいろ〟だったのだろう。しかし人間が管理しないだけでどんな物もせていく。しかもそれは色だけではない。

「所詮は人間の作った物」

 鳥居とりいを見上げる咲恵さきえの隣を、萌江もえはそう言って追い抜いた。鳥居とりいの真ん中を堂々と歩いていく。その後ろを追いかけながら咲恵さきえは思う。


 ──……この背中が頼もしいんだよね…………


 萌江もえが言葉を続けた。

鳥居とりいの真ん中って、神様の通り道って言うんでしょ? ただのマナー規範の教えだったのにね。道の真ん中を歩いてたら他の人に迷惑だからってことでしょ。そういうのが昔の日本人の礼儀正しさを作ったんだよね。そういう部分って、私は好きだよ」


 ──……私は、あなたの…………そういうところが好きなんだ…………


 左右を埋め尽くしていた木々が終わる。

 開けた空間に大きな建物。

 見た目は大きな神社。

 咲恵さきえに、懐かしさだけではない郷愁きょうしゅうが押し寄せる。

 そこは、紛れもなく、かつて咲恵さきえが〝神〟としてまつり上げられた所。

 落ちた屋根の瓦。割れたガラス。取り外されたように穴の開いた壁。

 かつての栄華えいがは、もうここには無い。

 雑草がはみ出している雪原に立ち尽くし、咲恵さきえは体が動かない。

 そこに、萌江もえの声。

「大丈夫だよね」

 その声で、不思議と咲恵さきえの体の中心に何かが走る。

 そして、やっと声を出せた。

「うん。私には萌江もえがいる」

 そう言った咲恵さきえは首を回す。その視線の先には、かつての御神木ごしんぼくである〝冬桜ふゆざくら〟。

 二人で足を進める。

 冬には似つかわしくないような、爽やかな風が吹いた。

 冬桜ふゆざくらの白い花びらが空中に舞う。

 微かに傾き、雲の隙間から顔を出した陽の光。それを浴びた花びらは、まるで光の粒のように辺りを埋め尽くしていく。

 その光景の中、咲恵さきえは、まるで引き寄せられていた。

 かつてと何も変わらない。

 ずっと、長い間、この場所を見続けてきた。

 何かを拒絶するでも抵抗するでもなく、ただ総てを受け入れ続けてきた。

 それは、人とは違う〝生きざま〟。

 それでも、あの頃と様々なものが交差する。

 柵はすでにあちこちが崩れたまま、そこから咲恵さきえはさらに足を進め、やがてその右手が冬桜ふゆざくらに触れた。

 冷たいはず。

 暖かかった。

 ぬくもりを感じた。

「……人間の感傷かんしょうなんて……小さなものね…………」

 てのひらを通して伝わるその〝歴史〟は、とても一人の人間が抱えられるものではない。

 同時に、その冬桜ふゆざくらにとっては、それすらも過ぎていくだけのもの。

「…………あなたにとっては小さなこと……それでも覚えていてくれたのね…………彼女のこと…………ありがと……」

 途端に、懐かしい感情が咲恵さきえに流れ込んだ。

 思い出したくない過去の連鎖が、咲恵さきえの両目からこぼれ落ちていく。

「……ごめん…………ごめんね…………」

 意味のないことと思いながらも、咲恵さきえのその感情は容赦無く掻き回された。

「…………私は…………私は…………」

 その声は震えながら、弱々しい。

 しかしその直後、咲恵さきえは背中にぬくもりを感じた。

 萌江もえの左のてのひら

 咲恵さきえ冬桜ふゆざくらから右手を離した。

 しかし萌江もえは、まだ咲恵さきえの背中から手を離さないまま。

 そして、暖かかった。

 そのてのひらから咲恵さきえの感情が流れ込んでいく。

 二人の周囲には白い花びらが舞い続けた。

 そして、萌江もえ咲恵さきえの体を包む。

「いいんだよ…………〝咲恵さきえ〟に会いにきたんだ…………会えてよかった…………」

 咲恵さきえはあれ以来両親には会っていない。

 どこでどうしているのかも知らない。

 探したこともなかった。

 知ることすらも怖かった。

 そして、咲恵さきえの能力を持ってしても、両親の足取りを追うことは出来ない。自分で見れないようにしているのだろう、と、咲恵さきえ自身は思っている。

 それで良かった。

 萌江もえも決してそこには深く触れようとはしない。

 その萌江もえの気遣いが好きだった。

 総てを知った上で、萌江もえ咲恵さきえの側にいた。

 お互いに、他の人間では埋められない部分がある。

 その微妙な距離感が二人を繋いでいた。

 陽が強く傾く。

 この季節の夕暮れは短い。





 朝から、再びの雪。

 一度溶けかけ、総てが消える前にまた積み重なっていく。

 凍結するほどの冷え込みでないことは救いではあったが、道路の歩きにくさはこの季節ならでは。

 金曜日。

 降り続き、辺りを真っ白に染めた大粒の雪は、昼過ぎ、その姿を消す。

 まだ、どこの雪の上の足跡も真新しい。

 そんな跡を残しながら、マンションのロビー前。

 萌江もえ咲恵さきえの目の前で、自動ドアのガラスが開く。

 そこにいたのは、あの時の若い家政婦。

「あ、この間の……」

 少し驚いたようなその表情に、柔らかく返したのは萌江もえだった。

「今日はもう上がりですか? 真梨子まりこさんは上に?」

「あ、はい……あれから時間を見ては来て頂いてて、夜もこちらでお泊まりに────」

「そっか……ありがとう」

 それが分かれば充分、とばかりに、萌江もえ咲恵さきえは足を進める。

 一階で聞くインターフォン越しの真梨子まりこの声は、一昨日とは明らかに違った。

『お待ちしておりました。入り口の鍵は開いておりますので、どうぞ』

 特別明るくも暗くもなかったが、耳に届くものは言葉だけではない。

 エレベーターを降り、数十歩、萌江もえが玄関のドアノブに手を伸ばした時、それを遮るようにノブに触れたのは咲恵さきえだった。

 しかし咲恵さきえはドアを見つめたまま何も言おうとはしない。萌江もえも聞くことはしなかった。

 やがて鍵周りの金属音と共にドアが開くと、そこから廊下に流れ出る空気も一昨日と違う。あの時に感じた重さは感じられない。

 決して萌江もえ咲恵さきえも何かをしたわけではない。怪しげな呪文や儀式めいたこともしてはいない。そして、そういうものであることを二人はよく理解していた。

 真梨子まりこがいるのは圭一けいいちの寝室。

 聞いていたわけではなかったが、二人に迷いはなかった。

 歩きながら、萌江もえが小さく口を開く。

「気付かれてる気、する?」

 その言葉をまるで予測していたかのように咲恵さきえ

「うん。かんの鋭いところがあると思うよ。自覚がないだけ」

 廊下の一番奥。

 咲恵さきえのノックの音が、やけに響いて聞こえた。

「どうぞ」

 ドアの向こうから真梨子まりこの声。

 部屋は明るかった。

 まるで空気そのものが綺麗きれいにされたかのような、それだけの違いがあった。

 中心のベッドの上、圭一けいいちは小さく寝息を立てている。

 カーテンは指示通りに開け放たれ、この時期とは思えない強い日差しが入り込んでいた。

 どれだけ長くそうしていたのか、ベッド脇の小さな椅子に座り込む真梨子まりこはその寝顔を見つめ続け、やがて顔を上げた。

「お待ちしておりました」

 声は柔らかい。

 しかし、どこかまだ硬い。

 最初に言葉を返したのは萌江もえだった。

「家政婦さん……指示通りに帰らせてくれたんだね?」

「…………はい……先ほど…………」

 真梨子まりこが応えるが、その声に覇気はきは感じられない。

「人払いをする理由…………分かる?」

 しかし真梨子まりこは応えない。

 すると咲恵さきえ萌江もえの言葉に繋げる。

「アパートの跡に行ってきました…………やっぱり今はもう更地でした。それでも、真梨子まりこさんの姿は見えるんです…………あなたがどんなにつらかったか…………そして、あなたが何をしたのか…………」

 そして萌江もえ

「あなたが〝幸三こうぞうを殺した〟────大量にお酒を飲ませて、足元がおぼつかないままにお風呂に入れて、顔を押さえつけて溺死できしに見せかけた」

 少しの

 ゆっくりと、静かに咲恵さきえを進めていた。

 やがて、聞こえた真梨子まりこの声は小さい。

「…………そんな……」

「〝あなたがお腹の子を殺した。だから私はあなたを許さない〟」

 するど萌江もえの声。

 真梨子まりこの見開かれた目が、微かにだけ、萌江もえに向く。

 萌江もえの言葉が続いた。

「あなたが幸三こうぞうの頭を湯船に押し付けながら言った言葉…………覚えてるでしょ。暴れる手足に恐怖を感じながらも、それでもあなたの決心は硬かった」

 真梨子まりこは微動だにしない。

 その真梨子まりこの耳に、萌江もえの言葉が響く。

「警察も溺死できしとして誤魔化ごまかせた。だからあなたはバレると思っていなかったのかもしれない。でも…………あなたのしたことを見ていた人がいたって────」

 真梨子まりこが顔を上げる。見開かれたまぶたが震えていた。

「気付いてた? 分からなかったよね。古いアパートの換気扇の無いお風呂場。格子こうしが付いてるからいつも少しだけ開けてたでしょ? そこから覗いていたのは…………幸三こうぞうの娘…………」

「────娘⁉︎ 娘なんて────」

 反射的にそう声を上げて腰を浮かしかけた真梨子まりこの肩に手をかけたのは、いつの間にか背後に回った咲恵さきえだった。咲恵さきえは優しく真梨子まりこの肩を押し下げる。

 そして小さくささやいた。

幸三こうぞうの秘密…………奥さんを病気で亡くしたんじゃないんです。奥さんは殺されました…………殺したのは一人娘の有里ゆり…………真梨子まりこさんが幸三こうぞうあやめたのは、何の因果いんがか、ちょうど有里ゆりさんの出所の日…………」

「────そんな…………そんなこと…………」

 体を震わせる真梨子まりこの背中に、優しく咲恵さきえは手を添えた。

有里ゆりさんはお母さんから虐待を受けていました。義理の母親だったんです。幸三こうぞうの最初の妻との間の子…………幸三こうぞう有里ゆりさんを必死に守りました。でも守りきれないまま……有里ゆりさんは義理の母親を殺し、すぐに幸三こうぞうの交番に駆け込みました。泣きながらね…………情状酌量の余地もあって、それほど刑期は長くありませんでした。まだ未成年だったことも理由でしょうけど、幸三こうぞうさんも辛かったでしょうね……自分の娘を逮捕したんですもの…………それからは色々と肩身は狭かったみたいです…………やっと有里ゆりさんが出所してきたところで、お風呂場から音がして────」

「────やめてっ‼︎」

「あなたの言葉で……多くのことを理解したはず…………」

 その咲恵さきえの言葉に、今度は萌江もえが言葉を繋げる。

「出所したての人間の証言なんて警察は信じないだろうと思ったみたい。まあ、理由はどうあれ、義理の母親を殺してるしね。自分が疑われかねない…………だから…………有里ゆりは…………真梨子まりこさんへの復讐を心に誓った…………」

「………………やめて…………」

有里ゆり圭一けいいちさんに近付いた。成功者のあなたへの嫉妬もあったんじゃないかな…………同じ犯罪者なのに、真梨子まりこさんは逮捕されていない。婚約者がいる圭一けいいちさんに近付いて若い女と浮気をさせ、既成事実が出来た時点で真梨子まりこさんの過去をバラす…………圭一けいいちさんは恐喝されていたみたいだよ。でも母親のために有里ゆりにお金を払い続けた。婚約者のこともあるし、そんな過去をマスコミにでも流されたら会社は終わる…………あなたの夢を支えたくて大学の政経学部で勉強してきたんだもの…………ちょっとした火遊びがこんなことになるなんてね…………」

 少しの間を空けて、更に萌江もえが続ける。

「だからさ、だから圭一けいいちさんの夢に出てくる女の子は一人なんだよ。有里ゆりから〝お腹の子供〟って聞いてても、あなたの最初の中絶の話は知らない。だから出てくるのは一人だけ。もし本当に幽霊が出てきてるなら、どうして一人だけなの? でもあなたは更にその前の中絶を入れて二人流してる。それを知ってるのはあなただけ。真梨子まりこさんには二人見えるんでしょ? おかしいじゃない。圭一けいいちさんのことで過去を思い出して、あなたが自分で自分にのろいをかけただけ…………それが答えだよ」

 それをすくい上げるのは咲恵さきえ

「母親の信じられないような過去に…………圭一けいいちさんはかなり苦しんだんでしょうね…………会ったことのない〝姉〟の幻を見るくらいに…………そのくらいに母親を信じていたんですよ」

 すると、真梨子まりこが震えながら声を絞り出す。

「…………あの子たちを…………産んであげられなかった…………絶対に私をうらんで────」

「あなたが両親をうらんでるからって、あなたもうらまれてるって考えてるだけでしょ⁉︎」

 叫んでいたのは萌江もえだった。

 真梨子まりこも反射的に叫ぶ。

「あなたに何が分かるの⁉︎」

 そんな真梨子まりこに、萌江もえはなおも食いつく。

「分かるんだってば‼︎ 私も親に捨てられたし子供を産んであげられなかった! 自分の息子を大事にしなさいよ! 産んであげられなかった子供の分まで大事にしてあげたらいいじゃない! せっかく親になったんでしょ! 親になりたくても、なれなかった人間だっているのよ‼︎」

 何も応えられないまま、真梨子まりこ項垂うなだれるように肩を落としたまま。

 しかし、そこにかける咲恵さきえの声は柔らかかった。

「あなたがこれからどうするか…………有里ゆりさんをどうするか…………それは真梨子まりこさんと圭一けいいちさんが決めてください。私たちの仕事はここまでです。これ以上、人生に踏み込むつもりはありません。ただ、今回のことが真梨子まりこさんの後悔こうかいから生まれたものだとするなら…………それはこれからでもつぐなえるはず…………私は、人生ってそういうものなんじゃないかと思ってます」

「ま、私たちがいうのも変な話だけど…………」

 そう言った萌江もえが続けた。

「普通の人間じゃないしね。見たくないものも見えるしさ…………でも、それで助かる人がいるなら…………そこに生きる意味を見出したっていいじゃん」

 真梨子まりこが顔を上げた。れたまぶたが痛々しくも、不思議とその表情は穏やかになっていた。

 萌江もえが繋ぐ。

「だからさ…………終わった過去なんかどうでもいいとは言わないけど…………真梨子まりこさんが家族で幸せになってくれたらいいと思うよ。個人的な感情で他人の人生に介入なんかしたくないけど…………最後に一つだけ言わせて……………………あなたは、もう充分に苦しんだ…………二人の娘は、あなたをうらんでなんかいない。過去の自分を解放してあげて」

 真梨子まりこの目から涙がこぼれる。

 そして萌江もえはドアに向かった。

 その背中に真梨子まりこの声。

「お金を…………」

「最初に充分もらったよ」

 その萌江もえの言葉に、咲恵さきえが繋げる。

「お金は圭一けいいちさんのために使ってあげてください。過去のことも含めて二人でしっかりと話して、それから外の空気に触れたら、すぐに元の圭一けいいちさんに戻りますよ」

 そして二人はマンションを後にした。

 オレンジ色に変わっている空をフロントガラス越しに眺めながら、運転席の咲恵さきえが口を開いた。

萌江もえにしては珍しいね。これからのことにアドバイスするなんて…………」

 萌江もえも外の風景に目を配りながら返していく。

「うん……なんかさ…………許されていい罪なんか無いのかもしれないけど…………許されてもいい過去ならあるんじゃないかなって…………」

萌江もえのそういうところ…………」

 口をつぐんだ咲恵さきえの横顔に視線を振った萌江もえが返す。

「何よ」

「別に」

「好きなら好きって言いなさいよ」

「今夜ボトル入れてくれるならね」

「一〇本入れてよママ」

「毎度」

 やっと、二人の顔に笑みが浮かんでいた。





 時間はまだ午前中。

 アパートの住人は誰もいないはず。

 例え誰かに水の音を聞かれたとしても、自分は寝ていて気が付かなかったことにすれば事故で済む。幸三こうぞうもすでに六一才。酒を飲んだ後の入浴で溺死できししても怪しまれる年齢ではないだろう。

 しかも休日となると朝から酒を飲むのは周囲でも知られていたこと。

 平成元年。

 すでに定年退職後の嘱託ぞくたく職員の幸三こうぞうが死んだところで、職場にもそれほどの影響はないだろうと考えた。

 裸で浴槽のお湯の中で暴れる幸三こうぞうの頭を、真梨子まりこは力の限り押さえ付けていた。

 今までの自分の過去をぶつけるかのように、どこからそんな力が出ているのか不思議なくらいだった。もはや幸三こうぞうによって流産させられた子供の分だけではなかったのだろう。今まで真梨子まりこの中に溜まっていたものが一気に吹き出したような、そんな力が真梨子まりこの中に眠っていた。

 呼吸を出来ずに苦しむということはこういうことかと、痙攣けいれんする幸三こうぞうの手足を視線の隅に置きながら、妙に冷静な自分もいる。

 やがて、少しずつ、その痙攣けいれんが小さくなっていく。


「あなたがお腹の子を殺した。だから私はあなたを許さない」


 いつの間にか言葉があふれていた。

 そして、幸三こうぞうの体の動きが止まる。

 それでもしばらくの間、真梨子まりこ幸三こうぞうの頭から手を離さなかった。

 人を殺すのは大変なこと。


 ──……それなのに…………私は子供を二人も殺した…………


 警察の実況見分は溺死できしという結果に落ち着いた。

 無事に葬儀も終わり、真梨子まりこは新しいアパートを借りた。戸籍上は幸三こうぞうの義理の娘。数年前に振り込まれた幸三こうぞうの退職金が入った銀行の通帳もある。お金はすぐに自分の通帳に移した。

 すぐにお金に困ることはなかったが、少しずつ減っていく通帳の数字に気持ちがざわつく日々。

 平成二年。

 真梨子まりこは二五才になっていたが、過去に働いたことがあるのは風俗業だけ。就職活動も思うようにいかない。年齢に反比例した空白だらけの履歴書の時点で断られることがほとんどだった。

 結局、真梨子まりこは再び風俗店の扉を開けてしまう。

 しかし、そこは別世界のようだった。

 女性は昔真梨子まりこがいた店のような奴隷ではなく、一人の従業員として働いている。しっかりと給料をもらい、何より、店が従業員の女性を守っていた。

 何の抑圧よくあつも感じない。

 もちろん複雑な過去を持って働いている女性も多かった。それでもボロ切れのように働かされているわけではない。一人の人間として生きていた。

 その店で働き続け、真梨子まりこが二七才の時。

 店は狭いながらも個室がいくつも並ぶ地下の店。最低時間は四〇分から。スタンダードな料金設定のためか、初めての客も多い。

 その客も初めての客だった。というよりも、そういう店自体が初めての客。

 三三才。五年前に離婚経験があり、小さいながらも会社を経営していた。

 優しい男性だった。

 他にも優しい客はいる。しかしその客は、真梨子まりこを〝店の女の子〟ではなく〝一人の女性〟として見てくれた。

 毎回指名をするだけでなく、二度目にきた時から短くても二時間。ただ真梨子まりこと会話をして帰っていく時もある。それでも他の客のように宝石やアクセサリーをみついでくるわけでもない。純粋に真梨子まりことの時間を楽しんでいるように見えた。

 やがて、いつの間にか、少しずつ真梨子まりこも自分の過去を語るようになっていた。そして、それを黙って聞き続けてくれた客────橋田隆三はしだりゅうぞうと結婚するのにそれほど時間はかからなかった。

 結婚を機に風俗業から足を洗ったが、そんな真梨子まりこ隆三りゅうぞうは守り続けた。その過去を自分の両親や親戚には隠し続け、自分の経営する会社に招き入れて仕事にも関わらせた。それは真梨子まりこの夢を隆三りゅうぞうが聞いていたからだった。隆三りゅうぞうはそれを何とかして叶え、真梨子まりこが自立出来るようにしてあげるべきだと考えていたからだった。

 真梨子まりこの妊娠が分かったのは平成六年。

 真梨子まりこ二九才。

 隆三りゅうぞうは喜んでくれた。しかし真梨子まりこの気持ちは複雑だった。

 中絶と流産を経験し、一度も出産を経験したことがない。無事に産める自信もない。産んであげられなかった二人の子供への負い目もある。

 もちろん隆三りゅうぞうにも過去の二度のことは話している。その上で二人で何度も話し合い、出産に向けて努力することを決めた。少し過剰なくらいに隆三りゅうぞう真梨子まりこの体調を気にかけてくれる時もあったが、それでも真梨子まりこにはそんなことですら嬉しい。

 男性が怖いと思っていた。

 それは風俗業に復業しても変わらなかった。

 そんな真梨子まりこを変えてくれたのが隆三りゅうぞうだった。

 隆三りゅうぞうのような優しい男性がいる。

 隆三りゅうぞうは自分のことを真剣に考えてくれる。

 翌年、無事に圭一けいいちが産まれた。

 しばらくは真梨子まりこが子育てに専念したが、数年後に落ち着いた頃から、隆三りゅうぞう真梨子まりこに会社の収支を報告し続けた。いつか自立する時のために、真梨子まりこには常に経営にたずさわっていて欲しいと隆三りゅうぞうは考えていた。

 圭一けいいちが大学の政経学部を卒業したのは平成三〇年。

 年号が令和に変わり、真梨子まりこが念願の会社を設立する。そして両親から経営学を学んだ圭一けいいちが専務となり、真梨子まりこを支えた。

 圭一けいいちが体調不良を訴えたのは翌年の秋。

 隆三りゅうぞうのバックアップもあって本社ビルが完成した直後だった。





 その日は朝から大雪だった。

 真梨子まりこは会社の運転手の制止も聞かずに雪の中を歩き続けた。

 やがて足を止めると、後ろを振り返って口を開く。

圭一けいいち、大丈夫?」

「大丈夫だよ母さん。こんな雪の中でもしっかり歩けるくらいにね」

 あれからほんの数日で、圭一けいいちの体調は嘘のように回復した。

 二人で多くのことを話した。

 二人でこれからのことを決断した。

 そして、二人で不思議な経験を共有し、そのケジメとしてここにやってきた。

 今年も多くの花を咲かせた〝冬桜ふゆざくら〟。

 季節に似合わない爽やかな風が、その花を散らす。

 二人の頭上の陽の光が、花びらを輝かせる。

 その大きな木が枯れるのは、まだ先のことに違いない。





「電車動かないみたいだよ〜」

 まだ開店前。カウンターの上ですでにだいぶアルコールに呑まれた萌江もえがくだを巻く。

「朝から大雪なんだから仕方ないでしょ。それよりどうしてあなたは開店前からそんなに酔っぱらってるのよ」

 グラスを拭きながら応える咲恵さきえ眉間みけんには無意識の内にしわがよる。

「だってボトル一〇本も入れちゃったんだもん」

「大雪で山道が通行止めになる前にバスで来れてようございました」

 そして、店のドアの鈴が鳴る。

「あら、みっちゃん」

 咲恵さきえの声に、満田みつたはいつもの反応。

「だからその呼び方は────」

「こんな大雪なのに今日は開店前から賑やかねえ」

「まあいい…………今日はこれを持ってきた」

 満田みつたは相変わらず萌江もえから一つ椅子を空けてカウンターに座ると、分厚い封筒をカウンターに置いて言葉を繋げた。

「前回の仕事の所…………息子さんは嘘みたいに回復したそうだよ。もう仕事にも復帰したそうだ。これはそのお礼とのことで預かってきた」

 その満田みつたの横顔を見ながら、萌江もえが小さく呟く。

「…………そっか」

「いつもながら面白い話だったよ。さすがだ」

 しかし萌江もえは何も返さない。

「これは俺の独り言なんだが…………あの会社、海外に支社を作るそうだ。息子に任せるらしい。まさか海外まで恐喝しに行く奴もいないだろうし、充分なくらいな金額は搾り取ってたようだしな」

「情報をリークしたところで自分の恐喝もバレるか…………」

 呟くような萌江もえの言葉を掻き消すように、続けて咲恵さきえが口を開いた。

「まさか、みっちゃんがコンサルタントしたの? 会計士の仕事じゃないでしょ?」

「会計士って言っても、いろんな奴がいるのさ…………」

 そう言うと満田みつたが立ち上がって続けた。

「今夜は娘の家に呼ばれてるからもう行くよ。久しぶりに孫にも会いたいしな。早目のクリスマスだ」

 歩き始めた満田みつたが振り返る。

「そいつは俺の取り分は無しだ。謝礼だからな。全部もらってくれ」

 そして店を出る。

 咲恵さきえはカウンターの上に手を伸ばすと、封筒を持ち上げて言った。

「預かっとくよ。酔っ払いには任せられないから」

 それを横目で見ながら、萌江もえが呟く。

「……どうして…………息子さんは〝冬桜ふゆざくら〟を知ってたんだろう…………」

「…………そうだね…………」

 小さく応えた咲恵さきえも、気が付いていた。

 有里ゆりから真梨子まりこのことをリークされただけなら、冬桜ふゆざくらは関係ない。しかしその言葉が真梨子まりこの幻影を大きくしたのも事実。

 咲恵さきえが続ける。

「記憶を引き継いだとか…………」

「〝誰か〟が繋いだか…………」

「…………萌江もえらしくもない応えだね」

「流れた子供二人だって、あの人は女の子って断定してた」

「…………男性に対していい印象を持ってなかったから、娘だと思いたかったとか」

「……それだったら…………あそこまで息子に愛情は注げないよ」

 そう言いながら、萌江もえがグラスの中を見つめていた。だいぶ小さくなった氷がクルクルと回り続ける。

 そして呟いた。

「もしかしたら…………もっと前から、会えていたのかもね…………」

 ロックグラスの中の氷が、小さな音を立てて砕けた。





         「かなざくらの古屋敷」

      〜 第二部「冬桜ふゆざくらのうたかた」(完全版)終 〜

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