第二部「冬桜のうたかた」第3話(完全版)(第二部最終話)
「さすがに寒いね」
翌日、昼過ぎ。
曇り空。
駅前の
そんな中で出た
「電車の中が暖かかったからね。電車内の温度調整も難しいんだよ。だいぶ長時間だったし」
「思ったより遠かったしね」
「そうだね。割り切って店を女の子達に任せてきて正解だったかも」
「無理しなくても、よかったんだよ…………」
「そんなわけにいかないこと…………分かってるでしょ……」
「まあ…………そうだね…………」
もちろん、
話に聞いていた部分も少しはあるが、そのほとんどはお互いに流れ込んできた感情や記憶で理解していた。決してそれについて、ことさら何かを突き詰めようと思ったことはない。
「歩いて二〇分くらいかな」
スマートフォンを眺めながら
「雪道だからもう少しかかりそうだけど、行きますか」
そして二人が歩き始める。
それは今向かっているアパートも同じだった。ネットのマップを見る限りでは、おそらく更地になっているように見える。少なくとも当時の建物は残っていないようだ。別の建物が建っていないことを祈りながら二人は歩き続けた。
寒いとは言ってもプラスの気温。歩道に僅かに積もった雪が溶けかけて歩きにくい。救いはそれほど人が歩いていないことだろうか。駅も周辺の道路も
道路沿いのお店はだいぶ様変わりしているようだが、
「やっぱりだったね」
やはりそこは更地だった。
かなり広い。アパートの建物一棟だけではなく、周辺の建物も取り壊されているような広さだ。十字路の角という話だったので大体の位置は特定出来た。
何回にも分けて深く積もった雪から、僅かに雑草が顔を出す。周囲に看板のような物もないので、今すぐ何かが建設予定ということでもないようだ。
「……こうして……変わっていくんだね……」
「部屋の位置までは…………難しいかな…………」
「たぶん分かる……大丈夫……」
水晶が熱い。
やがて、
「…………ここ………………ああ…………そうきたか…………旦那さんに知られたくない過去って……そういうことか…………」
その
その
「……やられたね…………あの人は私たちにも隠してた…………」
「うん…………それに……………………あの人の知らないこともね…………」
すると、
「……なんてこと…………みんな……知られたくない過去とか…………見たくなかったものとか…………色々あるんだよね…………」
「やっぱり、みっちゃんの見立ては正しいね。私たちじゃなきゃ…………こんなの解決出来ないよ…………」
その割り切ったような
「…………雪が積もったくらいじゃ、隠せないね…………」
「いこ」
「ここはもう嫌だ」
「そうだね………………じゃあ…………次に行く?」
「……大丈夫?」
振り返ってそう言う
それでも、
「自分で決めてここに来たからね…………このままじゃ帰れない…………」
☆
そこまではかなりの距離があった。
駅からそこまで
その時も雪は溶けかけていたのだろうか。溶け続ける歩道の雪も歩きにくさを手助けしたことだろう。
二人は近くまでタクシーを使った。
時間はもう一五時を過ぎている。すでに陽が傾いているのが空の色からも分かった。曇り空とはいえ、その明るさの変化は早い。
郊外。道路は片側一車線のまっすぐな道。
周囲にはかろうじて民家が点在する程度になってきた。
そんな頃、タクシーのガラス越しに見えてきたのは大きな
その
「ここですよね」
運転手が僅かに不思議そうな声を出すと、応えたのは
「…………はい、ここで大丈夫です」
「お釣りは結構ですので」
「あ……すいません。ありがとうございます」
そう応えた運転手の笑顔を
きっと、元々はもっと鮮やかな〝
「所詮は人間の作った物」
──……この背中が頼もしいんだよね…………
「
──……私は、あなたの…………そういうところが好きなんだ…………
左右を埋め尽くしていた木々が終わる。
開けた空間に大きな建物。
見た目は大きな神社。
そこは、紛れもなく、かつて
落ちた屋根の瓦。割れたガラス。取り外されたように穴の開いた壁。
かつての
雑草がはみ出している雪原に立ち尽くし、
そこに、
「大丈夫だよね」
その声で、不思議と
そして、やっと声を出せた。
「うん。私には
そう言った
二人で足を進める。
冬には似つかわしくないような、爽やかな風が吹いた。
微かに傾き、雲の隙間から顔を出した陽の光。それを浴びた花びらは、まるで光の粒のように辺りを埋め尽くしていく。
その光景の中、
かつてと何も変わらない。
ずっと、長い間、この場所を見続けてきた。
何かを拒絶するでも抵抗するでもなく、ただ総てを受け入れ続けてきた。
それは、人とは違う〝生き
それでも、あの頃と様々なものが交差する。
柵はすでにあちこちが崩れたまま、そこから
冷たいはず。
暖かかった。
「……人間の
同時に、その
「…………あなたにとっては小さなこと……それでも覚えていてくれたのね…………彼女のこと…………ありがと……」
途端に、懐かしい感情が
思い出したくない過去の連鎖が、
「……ごめん…………ごめんね…………」
意味のないことと思いながらも、
「…………私は…………私は…………」
その声は震えながら、弱々しい。
しかしその直後、
しかし
そして、暖かかった。
その
二人の周囲には白い花びらが舞い続けた。
そして、
「いいんだよ…………〝
どこでどうしているのかも知らない。
探したこともなかった。
知ることすらも怖かった。
そして、
それで良かった。
その
総てを知った上で、
お互いに、他の人間では埋められない部分がある。
その微妙な距離感が二人を繋いでいた。
陽が強く傾く。
この季節の夕暮れは短い。
☆
朝から、再びの雪。
一度溶けかけ、総てが消える前にまた積み重なっていく。
凍結するほどの冷え込みでないことは救いではあったが、道路の歩きにくさはこの季節ならでは。
金曜日。
降り続き、辺りを真っ白に染めた大粒の雪は、昼過ぎ、その姿を消す。
まだ、どこの雪の上の足跡も真新しい。
そんな跡を残しながら、マンションのロビー前。
そこにいたのは、あの時の若い家政婦。
「あ、この間の……」
少し驚いたようなその表情に、柔らかく返したのは
「今日はもう上がりですか?
「あ、はい……あれから時間を見ては来て頂いてて、夜もこちらでお泊まりに────」
「そっか……ありがとう」
それが分かれば充分、とばかりに、
一階で聞くインターフォン越しの
『お待ちしておりました。入り口の鍵は開いておりますので、どうぞ』
特別明るくも暗くもなかったが、耳に届くものは言葉だけではない。
エレベーターを降り、数十歩、
しかし
やがて鍵周りの金属音と共にドアが開くと、そこから廊下に流れ出る空気も一昨日と違う。あの時に感じた重さは感じられない。
決して
聞いていたわけではなかったが、二人に迷いはなかった。
歩きながら、
「気付かれてる気、する?」
その言葉をまるで予測していたかのように
「うん。
廊下の一番奥。
「どうぞ」
ドアの向こうから
部屋は明るかった。
まるで空気そのものが
中心のベッドの上、
カーテンは指示通りに開け放たれ、この時期とは思えない強い日差しが入り込んでいた。
どれだけ長くそうしていたのか、ベッド脇の小さな椅子に座り込む
「お待ちしておりました」
声は柔らかい。
しかし、どこかまだ硬い。
最初に言葉を返したのは
「家政婦さん……指示通りに帰らせてくれたんだね?」
「…………はい……先ほど…………」
「人払いをする理由…………分かる?」
しかし
すると
「アパートの跡に行ってきました…………やっぱり今はもう更地でした。それでも、
そして
「あなたが〝
少しの
ゆっくりと、静かに
やがて、聞こえた
「…………そんな……」
「〝あなたがお腹の子を殺した。だから私はあなたを許さない〟」
「あなたが
その
「警察も
「気付いてた? 分からなかったよね。古いアパートの換気扇の無いお風呂場。
「────娘⁉︎ 娘なんて────」
反射的にそう声を上げて腰を浮かしかけた
そして小さく
「
「────そんな…………そんなこと…………」
体を震わせる
「
「────やめてっ‼︎」
「あなたの言葉で……多くのことを理解したはず…………」
その
「出所したての人間の証言なんて警察は信じないだろうと思ったみたい。まあ、理由はどうあれ、義理の母親を殺してるしね。自分が疑われかねない…………だから…………
「………………やめて…………」
「
少しの間を空けて、更に
「だからさ、だから
それを
「母親の信じられないような過去に…………
すると、
「…………あの子たちを…………産んであげられなかった…………絶対に私を
「あなたが両親を
叫んでいたのは
「あなたに何が分かるの⁉︎」
そんな
「分かるんだってば‼︎ 私も親に捨てられたし子供を産んであげられなかった! 自分の息子を大事にしなさいよ! 産んであげられなかった子供の分まで大事にしてあげたらいいじゃない! せっかく親になったんでしょ! 親になりたくても、なれなかった人間だっているのよ‼︎」
何も応えられないまま、
しかし、そこにかける
「あなたがこれからどうするか…………
「ま、私たちがいうのも変な話だけど…………」
そう言った
「普通の人間じゃないしね。見たくないものも見えるしさ…………でも、それで助かる人がいるなら…………そこに生きる意味を見出したっていいじゃん」
「だからさ…………終わった過去なんかどうでもいいとは言わないけど…………
そして
その背中に
「お金を…………」
「最初に充分もらったよ」
その
「お金は
そして二人はマンションを後にした。
オレンジ色に変わっている空をフロントガラス越しに眺めながら、運転席の
「
「うん……なんかさ…………許されていい罪なんか無いのかもしれないけど…………許されてもいい過去ならあるんじゃないかなって…………」
「
口をつぐんだ
「何よ」
「別に」
「好きなら好きって言いなさいよ」
「今夜ボトル入れてくれるならね」
「一〇本入れてよママ」
「毎度」
やっと、二人の顔に笑みが浮かんでいた。
☆
時間はまだ午前中。
アパートの住人は誰もいないはず。
例え誰かに水の音を聞かれたとしても、自分は寝ていて気が付かなかったことにすれば事故で済む。
しかも休日となると朝から酒を飲むのは周囲でも知られていたこと。
平成元年。
すでに定年退職後の
裸で浴槽のお湯の中で暴れる
今までの自分の過去をぶつけるかのように、どこからそんな力が出ているのか不思議なくらいだった。もはや
呼吸を出来ずに苦しむということはこういうことかと、
やがて、少しずつ、その
「あなたがお腹の子を殺した。だから私はあなたを許さない」
いつの間にか言葉が
そして、
それでもしばらくの間、
人を殺すのは大変なこと。
──……それなのに…………私は子供を二人も殺した…………
警察の実況見分は
無事に葬儀も終わり、
すぐにお金に困ることはなかったが、少しずつ減っていく通帳の数字に気持ちが
平成二年。
結局、
しかし、そこは別世界のようだった。
女性は昔
何の
もちろん複雑な過去を持って働いている女性も多かった。それでもボロ切れのように働かされているわけではない。一人の人間として生きていた。
その店で働き続け、
店は狭いながらも個室がいくつも並ぶ地下の店。最低時間は四〇分から。スタンダードな料金設定のためか、初めての客も多い。
その客も初めての客だった。というよりも、そういう店自体が初めての客。
三三才。五年前に離婚経験があり、小さいながらも会社を経営していた。
優しい男性だった。
他にも優しい客はいる。しかしその客は、
毎回指名をするだけでなく、二度目にきた時から短くても二時間。ただ
やがて、いつの間にか、少しずつ
結婚を機に風俗業から足を洗ったが、そんな
中絶と流産を経験し、一度も出産を経験したことがない。無事に産める自信もない。産んであげられなかった二人の子供への負い目もある。
もちろん
男性が怖いと思っていた。
それは風俗業に復業しても変わらなかった。
そんな
翌年、無事に
しばらくは
年号が令和に変わり、
☆
その日は朝から大雪だった。
やがて足を止めると、後ろを振り返って口を開く。
「
「大丈夫だよ母さん。こんな雪の中でもしっかり歩けるくらいにね」
あれからほんの数日で、
二人で多くのことを話した。
二人でこれからのことを決断した。
そして、二人で不思議な経験を共有し、そのケジメとしてここにやってきた。
今年も多くの花を咲かせた〝
季節に似合わない爽やかな風が、その花を散らす。
二人の頭上の陽の光が、花びらを輝かせる。
その大きな木が枯れるのは、まだ先のことに違いない。
☆
「電車動かないみたいだよ〜」
まだ開店前。カウンターの上ですでにだいぶアルコールに呑まれた
「朝から大雪なんだから仕方ないでしょ。それよりどうしてあなたは開店前からそんなに酔っぱらってるのよ」
グラスを拭きながら応える
「だってボトル一〇本も入れちゃったんだもん」
「大雪で山道が通行止めになる前にバスで来れてようございました」
そして、店のドアの鈴が鳴る。
「あら、みっちゃん」
「だからその呼び方は────」
「こんな大雪なのに今日は開店前から賑やかねえ」
「まあいい…………今日はこれを持ってきた」
「前回の仕事の所…………息子さんは嘘みたいに回復したそうだよ。もう仕事にも復帰したそうだ。これはそのお礼とのことで預かってきた」
その
「…………そっか」
「いつもながら面白い話だったよ。さすがだ」
しかし
「これは俺の独り言なんだが…………あの会社、海外に支社を作るそうだ。息子に任せるらしい。まさか海外まで恐喝しに行く奴もいないだろうし、充分なくらいな金額は搾り取ってたようだしな」
「情報をリークしたところで自分の恐喝もバレるか…………」
呟くような
「まさか、みっちゃんがコンサルタントしたの? 会計士の仕事じゃないでしょ?」
「会計士って言っても、いろんな奴がいるのさ…………」
そう言うと
「今夜は娘の家に呼ばれてるからもう行くよ。久しぶりに孫にも会いたいしな。早目のクリスマスだ」
歩き始めた
「そいつは俺の取り分は無しだ。謝礼だからな。全部もらってくれ」
そして店を出る。
「預かっとくよ。酔っ払いには任せられないから」
それを横目で見ながら、
「……どうして…………息子さんは〝
「…………そうだね…………」
小さく応えた
「記憶を引き継いだとか…………」
「〝誰か〟が繋いだか…………」
「…………
「流れた子供二人だって、あの人は女の子って断定してた」
「…………男性に対していい印象を持ってなかったから、娘だと思いたかったとか」
「……それだったら…………あそこまで息子に愛情は注げないよ」
そう言いながら、
そして呟いた。
「もしかしたら…………もっと前から、会えていたのかもね…………」
ロックグラスの中の氷が、小さな音を立てて砕けた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二部「
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