第二部「冬桜のうたかた」第2話(完全版)

 黒井咲恵くろいさきえの一番古い記憶は、金色の椅子。

 背もたれ、肘掛け、座面のフカフカのクッションまでが金色。

 小学校に入る前の幼い咲恵さきえにとっては、大きなその椅子に登るのでさえ一苦労。でもそれほど問題を感じたことはない。様々な信者たちが目の前にやってきてから、その話が終わるまで椅子を降りる必要はないからだ。

 咲恵さきえには多くの相談が寄せられた。幼い咲恵さきえには意味の分からないことも多い。その度に椅子の左右にいる両親が助けてくれた。

 頭に浮かんだことを応えればいい。

 何も難しいことはなかった。それでも多くの信者たちが涙を浮かべて深々と頭を下げた。

 それが咲恵さきえの日常だった。

 両親が代表を務める新興宗教団体。

 咲恵さきえはその中心として────〝神〟としてまつり上げられていた。咲恵さきえ自身には記憶が無いが、まだ言葉を話せない歳の頃から見えない誰かと遊んでいたということだった。

 それだけでなく、両親を驚かせたのは咲恵さきえの〝見える力〟だった。最初はほんの小さなことからだったが、やがて言葉を話すようになると親族の病気や死を言い当てた。直接自分たちに関係の無い事件等も言い当てる。

 その噂が近所で有名になってくると、近付いてきたのは地元でも有名な資産家だった。どんなことで財を築いた人なのかはもちろん咲恵さきえには分からなかったが、結果的にその資産家が咲恵さきえの両親をき付ける。金銭的なバックアップもすると言われた。

 咲恵さきえの両親は以前は共に公務員だった。村役場での仕事しか知らない。

 世間を知らなかった。

 新興宗教を立ち上げること自体は法律で認められたものだ。何もやましいものはない。しかしその実情がどういうものだったのか、後に咲恵さきえは知ることになる。

 咲恵さきえの能力の噂を聞きつけ、人々が次から次へと押し寄せてきた。遠くから足を運ぶ者も多かったという。

 咲恵さきえはその人がどんな人なのかを言い当て、過去を見、見えたイメージを話すだけ。

 もちろん当初からよく思わない人々もいたことだろう。オカルトブームに乗った怪しげな団体と思う人たちは少なからずいたはずだ。

 小学校に通い始めると、学校の誰もが咲恵さきえのことを知っていた。

 田舎の中規模の村に出来た宗教団体の娘。

 知らぬ者はいない。

 そして、壮絶なイジメが始まる。

 毎日、気持ち悪いと言われ続けた。

 普通に会話の出来る相手はいない。

 友達など出来るわけがない。

 そして学校での孤立が強まると、益々咲恵さきえは教団の中に逃げ込んだ。そして三年生の途中から不登校となる。別にそれでも構わなかった。むしろそのほうがいい。教団の中ではイジメられることはない。むしろ誰もが咲恵さきえに頭を下げる。咲恵さきえへの感謝を全身で表した。

 中学校に入学し、どこか咲恵さきえは環境の変化を期待していた。しかし何も変わらなかった。複数の小学校がまとまっただけで、スライド式のようなもの。むしろ咲恵さきえへの敵意の対象が増えるだけ。中学校も結局ほとんど通うことのないまま、形だけの卒業。

 しかし両親はその卒業を機に、教団用に大きな土地を購入し、そこに神社のような建物を建て、そこを総本山とした。まるでお城のような生活に咲恵さきえは喜んだ。高校への進学はせずに、教団に囲われた生活が続く。

 ある時、大勢の黒いスーツ姿の大人たちがやってきた。

 何やら両親と玄関先で押し問答をしているが、当時一六才でしかも世間を知らなかった咲恵さきえには理解出来るはずもない。やがてその大人たちが施設に押し入る。家族三人で玄関の隅でうずくまるしかなかった。

 それが税務所の職員だったのだろうと思えるのはまだ先のことだ。

 それから一年近く、元信者に訴えられるなど、咲恵さきえには家族の空気が暗く見えていた。

 咲恵さきえには、その頃からある疑問が沸いていた。


 ──……どうして自分の未来は見えないんだろう…………

 ──……どうして自分に降りかかる未来の姿は分からないんだろう…………

 ──…………本当に私に〝力〟なんてあるの?


 そんな不安が浮かぶ夜、咲恵さきえは必ずのように行く所があった。

 教団の施設内。

 広い敷地のほぼ中心。

 そこに御神木ごしんぼくとされていた木があった。

 元々あった物と聞いていた。

 両親が教団の御神木ごしんぼくとするために、近所のいこいの場となっていた土地をまとめて購入していたという経緯がある。

 それは〝冬桜ふゆざくら〟の木。

 冬、空から降り注ぐ雪の粒のような、白く淡く、小さな花で埋め尽くされる大きな木。

 まさしく冬に咲く桜のようだと、咲恵さきえも初めて見た時は感動した。それ以来、何かある度に咲恵さきえはこの木に会いにきていた。気持ちの中に、子供の頃には無かったモヤモヤとした感情が見え隠れする年頃。

 何か応えてくれるわけではない。

 それでもその〝冬桜ふゆざくら〟は、静かに咲恵さきえの気持ちを受け止めてくれた。

 雪の降り始め。

 まだ冬桜ふゆざくらの花はまばら。

 つぼみですら寒そうに見えた。

 木の周りには背の低い木製の柵。その中に入れるのは咲恵さきえと両親だけとされていた。

 しでの下がったしめ縄を巻かれ、それでもその冬桜ふゆざくらは、それを受け入れるだけ。

「最近ね……子供の頃より…………未来が見えなくなった気がするんだ……」

 呟きながら、咲恵さきえ冬桜ふゆざくらの木に右手で触れる。いつもそうすることで、なぜか受け入れてもらえるような気がしていたからだ。

「気のせいだとは思うんだけどさ…………でもその代わりに、昔のことは前よりはっきりと見えるようになった気がする…………」

 もちろん何も応えてはくれない。

 でも、それで良かった。

 父とも、母とも違う、唯一、心を通わせられる相手。

 そう呼べる存在を、咲恵さきえは他に知らなかった。

 そんな日々が続く。


 咲恵さきえ、一七才。

 冬の夜。

 その日は朝からの大雪だった。

 両親から身の回りの物をまとめるように言われ、真新しいキャリーケースを渡された。

 どこかに引っ越すのだろうかといぶかしみながらも従った。咲恵さきえの私物はそれほど多くなかった。ほとんどが服。その他は小さな小物類と僅かな化粧品だけ。キャリーケースはスカスカだった。

 そして、やがて分かる。

 それは夜逃げの準備。


 ──……どうして? 明日も信者の人たち来るんじゃないの?


 誰か分からない人の運転するワンボックスカーに、両親はキャリーケースの他に数枚の布団を積み込んでいた。

 走り去るワンボックスの窓から、ゆっくりと降り続く雪の向こう、たくさんの花を咲かせる冬桜ふゆざくらの木が見えていた。

 その小さな花びらが、雪のように、ゆっくりと風に舞う。

 雪なのか花びらなのかも分からないほどの美しさに、無意識のまま、咲恵さきえの目から涙がこぼれていた。


 ──…………さよなら…………


 深夜に着いた先は見知らぬ土地。

 少なくとも見える範囲に雪はない。

 古いアパートだった。

 話は通ってあるのだろう。少ない荷物を運び込むと、まだ電気も通っていないその寒い部屋で、家族三人で布団に包まって体を暖めた。

 自然と、涙が出た。

 そしてそれは止まらない。

 それでも、なぜか咲恵さきえは懸命に声を押し殺していた。両親がそれに気付いていたかどうかは、とうとう分からなかった。

 翌朝、朝食用の菓子パンを買って帰ってきた父親に、咲恵さきえは詰め寄った。

 両親が何をして、どうしてこうなったのか知りたかった。そしてこれからどうなるのか。

 両親は土地を購入する以前から、信者から大量のお布施や相談料を取り始めていた。教団立ち上げの頃は微々たる相談料だったらしい。だが、しだいに欲が顔を出す。高額なお布施を出せる信者を抱え込むようになり、しだいに相談料も高騰していった。あの土地を買って建物を建てたことで、付近の住民ともトラブルになっていたらしい。

 元々はあの場所も、あの冬桜ふゆざくらも、地元の人々のいこいの場として長く愛され、それがお金と宗教の力で壊された。

 そして脱税工作。

 咲恵さくえの頭の中に、両親のせいで勝手に御神木ごしんぼくにされてしまった冬桜ふゆざくらの木が浮かんでいた。

 そして、これからのプランもない。

 逃げてきただけ。

 その日の夜、両親が寝静まった頃、咲恵さきえはアパートを抜け出した。

 ここがどこなのかも知らない。

 世の中のことも知らない。

 生き方など考えたこともない。

 持っているのは空白の多いキャリーケース一つだけ。

 そのまま、朝まで歩き続けた。

 常に体を動かしていたせいか、不思議と寒くはない。

 早朝、二四時間営業のファミレスに入る。今まで一人でそんな店に入ったことはなかった。

 それでも空腹には勝てない。両親と来たことがあっても、その多くはやはり見様見真似。

 それでも、やっとご飯を食べた。久しぶりのまともな食事だった。思えば、夜逃げをする少し前から満足な食事を摂った記憶がない。

 咲恵さきえ自身に行く宛てがあるわけでもない。

 何の計画性もなかった。

 食事が終わると、途端に眠気が襲ってきた。

 いつの間にか、そのまま眠っていたらしい。

「あの……お客様……」

 何度目かの店員の声に起こされた。

 壁の時計を見る限り、三〇分も寝ていたわけではないらしい。

「……すいません……」

 それしか返せない。

 お金は両親の財布から盗んできたものがあった。頭を下げて店を出ると、再び行き先も決められないままに歩き始めた。

 おそらくファミレスから通報があったのだろう。しばらく歩いていたところでパトカーが横について声をかけられた。無理もない。咲恵さきえ自身は気が付いていなかったが、汚れたワンピースと靴、ボサボサの頭にキャリーケース。早朝の来店。怪しまれても無理はない。

「身分証明書はありますか?」

 その言葉に、反射的に咲恵さきえは逃げ出していた。

 あるはずがない。

 自分が何者なのかも分からない。

 分かっているのは、自分は悪いことをした宗教団体の娘だということだけ。

 どこをどう逃げたのか、いつしか咲恵さきえは歩道橋の上にいた。下には線路が何本も横たわり、忙しく電車が往来している。

 何も考えてはいなかった。

 むしろ、何も考えられなかった。

 そして、そこから飛び降りることに、なぜか恐怖は感じない。

 何も、怖くはなかった。





「大丈夫かな…………遅刻しちゃったね……」

 やっと辿り着いた〝トレス・ベル〟の本社ビルの前で、立ち止まった萌江もえは小さく呟く。

 その隣の咲恵さきえ眉間みけんしわを寄せたまま返していた。

「みっちゃんめ…………こんなに遠いなら最初に言ってよね。ただでさえ昨日からの雪で今日も大渋滞なんだから」

 しかし入らないわけにはいかない。

 前金はすでに昨夜受け取っている。

 腹をくくった二人は大きすぎるガラスの自動ドアを通り、無駄に広すぎるホールに足を踏み入れた。その床は大理石で埋め尽くされ、一瞬歩くことを躊躇ちゅうちょするほどに透明感まで伴っている。

 二人はホールの端にある受付に、昨日受け取っていた二枚の名刺を出した。

うけたまわっておりました。そちらのソファーでお待ち下さい」

 微かに声が反響するためもあるのか、受付の女性スタッフの声からも品の良さを感じる。

 受付は会社の顔────それを理解出来ている会社だった。

 それでも二人には別世界。未だにこういう雰囲気は慣れない。そして受付けホールのソファーまで妥協しない会社であることが座るだけで分かる。

 再び咲恵さきえが小さく愚痴ぐちをこぼし始めた。

「みっちゃんの持ってくる仕事って大きな会社が多過ぎると思わない? 落ち着かないんだけど…………」

「お陰でこっちは稼げてるけどね。堂々としてりゃいいじゃん」

「まあ……そうだけど…………あんまり萌江もえの真っ赤なコートは記者っぽくないんじゃない?」

咲恵さきえは少し地味だよ。そんなグレーのコートなんか────」

「なんかそれっぽいかな……って思って…………年相応って言葉知ってる?」

 そして、静かなヒールの音と共に、受付の女性からの声がかかる。

「お待たせ致しました。ご案内致します」

 社長室に併設された応接室は最上階の一二階。

 エレベーターの静けさまでが品のあるビル。女性をターゲットとした下着メーカーがここまで急成長出来た理由が垣間見かいまみえた。

 ドアには社長室────とは書かれていない。

 〝 Representative Director's Office 〟。


 ──……長すぎて何の部屋か分からない…………


 そう思った咲恵さきえ他所よそに、そのドアを受付の女性が軽くノックする。

「ご案内致しました」

 それだけ言うと、ドアを大きく開けて頭を下げる。

 そこには想像通りの広い部屋。ゴテゴテとした雰囲気ではない。黒を基調としたシンプルながらもおしゃれな印象だった。

 明るい雪景色の見える大きな窓を背に、大きなデスクの中で立ち上がった女性は〝壮麗そうれい〟という言葉が似合う。高い身長に細くも均整の取れたスタイル。長い黒髪が印象を高めていた。細い目に主張し過ぎない化粧の仕方が、とても五五才とは思えないその内面までをも表現しているかのようだった。

 小振りなメガネを外し、チェーンで繋がったそれを胸の前に下げ、口を開いた。

「お待ちしておりました」

 品のある軽い笑顔を向ける。

 そして小さくあごを上げて遠くを伺うように、二人の背後の受付の女性へ声をかけた。

「今日はもう予定はないので、どなたも通さないようにお願いします。今日はこちらの御二方だけで」

「はい────ランチのほうはいかが致しましょうか?」

「そうね、ケータリングでも頼もうかしら。その時はお願いします」

「かしこまりました」

 二人の背後で扉の閉まる低い音がした。

 女性がデスクの前に回り、数歩だけ前に進んで口を開いた。

「代表取締役の橋田真梨子はしだまりこと申します。本日は急なお話にも関わらずお越し頂きまして…………」

 そして深々と頭を下げた。それこそ九〇度腰を曲げる。

 受付の女性に敬語を使っていたことから横柄おうへいな人柄でないことは想像出来たが、その腰の低さに、正直二人は驚いた。

 思わず咲恵さきえが返す。

「いえいえ……こちらこそ遅くなっちゃって」

「昨日は突然の大雪でした。無理もないことです。むしろ事を急ぐばかりに早急な依頼をしてしまいまして…………満田みつたさんからお二人のお話は伺っておりました」

 真梨子まりこいまだ頭を下げたまま。

「まあ、頭を…………」

 その咲恵さきえの言葉に、やっと頭を上げた真梨子まりこは、ようやく二人をソファーにうながす。

 ソファーに座る直前、真梨子まりこがポケットから名刺を取り出して口を開いた。

「改めまして…………」

 それを、てのひらを見せて止めたのは萌江もえだった。

 そしてソファーに腰を下ろしながら、小さな声で。

「〝訳あり〟でしょ…………そういう仕事の人間に名刺なんか渡しちゃダメ…………私たちの関係は、事が済んだらそれで終わり…………」

 すると、途端に真梨子まりこの目が変わった。何か張り詰めたものが瞬時に崩されたかのように、僅かにおびえたような目。それまでのキャリアウーマンの立ち振る舞いとはまるで別人。

 ソファーに座った真梨子まりこは、急に落ち着きが無くなったように見えた。

「最初に」

 そう言って最初に口を開いたのは萌江もえだった。

 その言葉が続く。

「私たちは下世話げせわな世界の人間です。真梨子まりこさんとは住んでいる世界が違う。そんなに肩を張らなくても大丈夫」

 萌江もえ真梨子まりこに笑顔を向けた。

「はあ…………」

 軽く息を吐きながら真梨子まりこが呟くと、扉にノックの音。

「──お茶をお持ちしました」

 途端に真梨子まりこは立ち上がると、小走りで扉まで。トレーを受け取った。

「もう結構よ…………ありがとうございます」

 そんな真梨子まりこの、少し早口になった声が聞こえた。

「コーヒーでよろしかったかしら…………私がコーヒー派なもので…………」

 ソーサーとカップを二人の前に置きながらの真梨子まりこの声に、咲恵さきえが返していた。

「私たちもコーヒー派ですよ。頂きます」


 ──……苦労した手…………


 そう思った咲恵さきえの頭に、小さくイメージが浮かぶ。まだはっきりとはしない。しかし、間違いなく嫌悪感けんおかんを抱く印象だった。

 目の前の女性が、ではない。

 見えた〝過去〟に対して。

 それに繋げたのは萌江もえ

「息子さんの話でしょ。軽くは聞いたけど……その前に────解決をしたければ真梨子まりこさんのことを知る必要があるみたい…………〝過去〟を見られても…………大丈夫?」

 真梨子まりこは目の前のコーヒーカップに目線を落としたまま。微かに膝の上の指が震えている。


 ──……萌江もえも感じてる…………


 咲恵さきえがそう思うと、真梨子まりこの声がした。

「息子は…………のろわれているのだと思います…………どうしてそう思うのかは…………確かに私の過去に関係があります…………だからこそ、総てを内密に解決したいのです」

 その声に応えるように、再び口を開いたのは萌江もえだった。

「私は99.9%幽霊ものろいも信じてないよ」

 その萌江もえの言葉に、真梨子まりこは驚いたように顔を上げていた。

 萌江もえの言葉が続く。

「だからこそ辿り着ける答えがあるはず…………何でも心霊現象とかのろいとかのせいにするなら、そんなの、何でもストレスで医療の限界を誤魔化ごまかしてる安っぽい医者と同じ」

 瞬時に、真梨子まりこの目が、微かにうるんだ。


 ──……つらかったんだね…………


 咲恵さきえはそう感じた。

 真梨子まりこが息子の圭一けいいちを病院に連れて行っても、いつも、どこに行っても原因不明。ストレスだろうと片付けられた。

 しかし今、真梨子まりこの目の前にいる萌江もえは、0.1%の可能性にかけて模索しようとしている。あきらめようとはしていない。それが真梨子まりこには嬉しかった。

 そして真梨子まりこは語り始めた。

「私が悪いんです…………私の過去が…………あの子を苦しめているんです…………」

「一年以上苦しんでるんでしょ? だったら、急がないとね」

 その柔らかい萌江もえの言葉に、真梨子まりこは力強く応えた。

「…………はい…………私は、本名を…………中岡安江なかおかやすえと申します」





 安江やすえが売られた先は、いわゆる裏の風俗店。

 望んだわけでもなく、逃げ出すことすらも許されないまま、働いてすでに三年ほどが経過していた。

 いつの間にか一八歳になっていたが、環境は何も変わっていない。

 四畳の狭い部屋で三人で雑魚寝をする毎日。衛生という言葉もプライベートという概念も無い。それが当たり前。手元に残る給料は毎日数百円。その日の食べ物だけで消えた。

 その頃、同僚の女性が安江やすえの体調に気が付く。

 安江やすえには明らかに妊娠の兆候が見られた。

 相手は客以外に考えられない。

 男性店長に「お前が悪い」と怒鳴られ、連れて行かれた先は小さな産婦人科だった。

 ただ、怖かった。

 その病院に入った途端に、涙が出てきて止まらない。

 妊娠の意味も分からないままに中絶手術を施され、店長が直接医者に現金を渡すのを見ても何の質問も許されず、次の日からは再び店に出る。

 「妊娠は本人が悪い」と言われ、一ヶ月無給で働かされた。同僚から食事を分けてもらい、何とか食い繋いだ。同じ経験をしていた同僚は他にもいた。

 ある日、同僚の一人がいなくなったと聞かされる。

 男たちが捜索したが、見付からないと騒いでいたらしい。

 同僚が「うらやましい」と呟いた言葉が、安江やすえを刺激した。


 ──……私も……逃げたい…………


 そう思ったが、もちろんお金は無い。

 そんな時、仲良くなった同僚から話を持ちかけられた。

 街に立って、個人で〝客を取って〟金を貯めようとの言うのだ。

「知ってるでしょ、あの通り。あそこに立ってるのはみんなそう。縄張りはあるらしいから、誰かに話聞いてさ…………どっか場所分けてもらって……お金稼ごうよ……一緒に逃げようよ」

 仕事が早く終わった夜、同僚と二人でその通りに向かう。しかし、誰も話を聞いてはくれなかった。仲間意識など存在しない世界。誰もが自分のためだけに一人で生きていた。

 それでも辛うじて通りの隅で客を捕まえる。捕まえた後に向かうのは近くの公園の中の公衆トイレの個室。中には自分のアパートの部屋を使う女性もいたようだが、二人にはもちろんそんな場所はない。

 そして少しずつお金が溜まり始めた。

 もう少し貯めたいと、その夜も二人で街に立つ。

 おそらく付近で〝立っていた〟女性からの情報が流れたのだろう。

 店の男たちに見付かる。

 二人で男たちから逃げた。

 溶けかけた路面の雪が靴底に絡まる。

 絶望感の中で懸命に走った。

 やがて、安江やすえの背後から、捕まった同僚の悲鳴にも似た声が頭に突き刺さった。

「逃げて‼︎」

 駅の改札を走り抜けていた。

 切符などもちろん買っていない。

 駅員の声も無視して、閉まりかけた電車のドアに滑り込んだ。

 男たちがドアを叩く姿が見える中、少しずつ電車が動き始める。

 恐怖が消えない。

 男たちの姿が見えなくなると、急に体が震え始める。

 電車内の長椅子に座る。夜の電車。他に客はいなかった。

 薄いロングコートの下は下着とキャミソールだけ。

 電車内の暖かさが全身に染み渡った。


 ──……どこで降りようかな…………


 あの生活から抜け出せたことに感謝した。

 涙があふれる。

 電車の揺れが、神経を揺さぶった。

 時間的に最終の電車だろう。軽くうたた寝をしながら揺られ続ける内に電車が最終地点に辿り着く。

 もちろんそこがどこなのかも分からない。

 時間は深夜。

 駅員に話して電車代を支払うと、それなりの金額だった。しかし嬉しかった。それだけ遠くまで来れたことになる。

 自分のいた所よりも積もっている雪は深い。どっちに向かうのかも分からないままに電車に飛び乗った。分かっているのは遠くに来れたということだけ。

 駅前とは行っても、小さな建物が並ぶだけ。泊まれる所を探したくても土地勘もない。誰かに聞こうにも、周りには人影すら見当たらない。

 昭和五九年。現在のようにコンビニがあちこちに点在している時代ではない。

 とりあえず歩いた。

 人のいる所に行けば何とかなるだろうと歩き始めたが、しだいに建物が減り、辺りには民家が点在するのみ。

 やがて、道路の脇に大きな鳥居とりいを見つけた。周囲には街灯も無いために何色なのかもよく分からないまま、安江やすえはその鳥居とりいを潜っていた。神社があるなら、そこで眠ろうと考えた。

 周りを木々で囲まれた道を進むと、やがて開けた空間に辿り着いた。

 そしてその中心に、大きな木があった。なぜか冬だというのに、小さな白い花が無数に咲き誇っている。

 僅かな緩い風の流れに小さな花びらが舞い、まるでそこだけ明るくなったかのような幻想的なその光景に、安江やすえは目を奪われていた。


 ──……どうして…………冬なのに…………桜が咲いてるの…………


 いつの間にか、その木に寄り添うようにひざを着く。

 てのひらから、そして寄せた頬から、なぜか温もりを感じた。

 もはや寒さも感じない。

 やがて、付近の住民からの通報があったのだろう。

 深夜に若い女が一人で荷物も持たずに歩いていると言われれば、近くの警察としては一応見回りをするしかない。

 やがて、雪の上にひざをついて大木に寄り添っていた安江やすえが警察に保護された。

 小さな交番だった。

 自分を保護してくれた警察官────武田幸三たけだこうぞうに総てを話した。止めどなく言葉があふれた。何一つ隠すつもりはなかった。

 幸三こうぞうが本署に連絡し、明日連れて行ってくれると言う。取りあえずその夜は交番の奥の部屋で寝かせてもらうことになった。産まれて初めて柔らかい布団に包まれた。

 暖かさを感じた。

 朝、夜勤明けの幸三こうぞうが銭湯に行くと言うので連れて行かれる。おそらく幸三こうぞうの物であろうジャージとタオルを渡され、初めての銭湯に入る。色々な人と入るお風呂も初めての経験。勝手が分からないままに辿々しくも、体が洗われていくことで、少しだけ心まで洗われるような気持ちがした。

 ジャージの上にコートをきて、昨夜の駅前の定食屋で朝食をご馳走になる。何を食べても美味しかった。

 幸三こうぞうから見たらあわれで仕方がなかったのだろう。ボロボロに痩せ細り、頬もこけ、助けてやりたいと思うのも当然の身なり。

 本署に連れて行かれ、話を聞いてくれたのは女性警官だった。柔らかいその警官の口調に、安江やすえはまたも涙を流して話し続けた。

 身元の調査が始まる。安江やすえについて分かるのは、産まれ育った街と名前だけ。

 そしてこの時初めて、自分が死んだことになっていたことを知る。

 両親の顔が頭に浮かんだ。しかし、別れの時の顔しか思い出せない。

 戸籍上一度は死んだことにされていた安江やすえは、これからのためと促され、戸籍再生法の利用を勧められ、決断する。そしてそれに伴って、裁判所で改名も受理された。

 生きる希望を見出せない人生だったのに、なぜか生きることを望んでここまできた。


 ──……まだ…………生きてていいの…………?


 新しい名前は〝真梨子まりこ〟。

 自分に逃げ道を教えてくれた、あの同僚の本名だった。あれ以来、彼女がどうなったのかはもちろん分からないまま。それでも忘れたくない存在。忘れないため。

 しばらく小さなホテル住まいを余儀なくされた。女性警官から分けてもらった僅かな化粧品とスーツに感謝しながら、警察署や裁判所を行き来する。

 やがて、幸三こうぞうが身元引受人となることが決まり、最終的に真梨子まりこ幸三こうぞうの養子となる。

 武田幸三たけだこうぞうは五六才。五才年下だった妻の洋子ようこを病気で一〇年前に亡くしたばかり。子供はいなかった。

 精神面での萎縮いしゅくはまだあったが、幸三こうぞうは父親として真梨子まりこを迎え入れてくれた。

 新しい人生を手に入れた。

 これから人生をやり直せる。

 そう思っていた。

 幸三こうぞうのアパートで一緒に暮らし始めて一ヶ月。

 やはり、幸三こうぞうは〝男〟だった。

 まだ若い真梨子まりこに抵抗するすべはない。新しい人生のために、幸三こうぞうを受け入れるしかなかった。

 あの店にいた頃の生活に比べたら、ずっといい。

 生きていける。

 真梨子まりこはそう思い続けた。

 耐えることには慣れていた。

 そして耐え続けて数年。

 昭和六二年。真梨子まりこは二二才になっていた。

 過去の妊娠の経験から、自分が妊娠していることに気付く。

 間違いなく幸三こうぞうの子。

 何も知らない幸三こうぞう真梨子まりこの体を求め続けたが、お腹の子供のことを思うといつまでもそういうわけにはいかない。

 真梨子まりこ幸三こうぞうに打ち明ける。幸三こうぞうは中絶を望んだ。養子との間に子供を作ったとあれば、周りからどんな目で見られるか分からない。

 しかし真梨子まりこは中絶をこばんだ。例え父親が誰でも、今度こそは産んであげたかった。

 そして、病院に行くことも許されないまま、幸三こうぞうの暴力が始まる。

 「外に男を作ったからだ」と言いがかりをつけられ、真梨子まりこは毎日の暴力に耐え続けた。

 幸三こうぞうは流産させるために執拗にお腹を狙うが、真梨子まりこは子供を守り続ける。どんなに顔がれあがっても、子供のために自分の顔を差し出していた。

 しかし、子宮からの出血は真梨子まりこの恐怖を押し上げた。畳に広がる赤黒い血液の中に、小さな塊を見付けた時、すでに真梨子まりこの精神状態はまともではなかったのかもしれない。

 それは僅かに、人の形をしていたように、少なくともその時の真梨子まりこには思えた。





「もちろん人の形などしているわけはありませんが…………そう見えたような気がして……その後のことはあまり記憶がございません……」

 真梨子まりこは淡々と話し続ける。

「……死のうと思いました……」

 その言葉に、咲恵さきえの気持ちがうずいた。

 どこかがうずいた。

 決して平坦とは思えない真梨子まりこの人生に〝影の世界〟を見ていた。

 それは、簡単に言葉を返せるような、その程度の生き様ではない。

 どうするべきかの判断も出来ないまま、時間の流れに苦しめられてきた真梨子まりこが繋げる。

「それなのに、どうしてでしょうね…………二人も命を流しておきながら…………なぜか私は死ぬことが出来ませんでした。情けない話です…………結局は怖いのです…………怖くて死ねないのです…………二人も子供を殺しておきながら…………私は…………自分が死ぬのは怖い…………」

 その震える声に、なぜか萌江もえは何も言葉を挟まなかった。

 その時の萌江もえは、真梨子まりこと同時に咲恵さきえを見ていた。

 そして、絞り出された咲恵さきえの声は、微かに震える。

「まだ…………生きようとする意思があったんですね」

 少し間を空け、その咲恵さきえが繋げた。

「…………本当に死ねる人というのは、その時には怖くなくなるものです…………私は…………一度経験があるので…………」

 咲恵さきえは、真梨子まりこに小さく笑顔を向けた。

 何かを察したのか、真梨子まりこは視線を再び落として話を繋げる。

「どうなんでしょうね…………それでその後、幸三こうぞうの家を飛び出したんですが、あの仕事しかしたことがございません…………食べていくためにまた同じような店で働いたのですが…………そこはいいお店でした。何も抑圧なんかされていませんでした。もちろんひどい客はおりましたが、それはどこでも同じこと…………何より、お店が女の子を守ってくれていました。お給料もしっかりと頂けました。そして、そういう店のほうが多いことを知りました。私のいた所がおかしかった…………」

 萌江もえはそれを聞きながら、首に下げた水晶が熱くなっていることに気が付いていた。

 真梨子まりこの言葉が続く。

「そこで客として来た現在の夫と知り合いました。そんな店で知り合ったなんてもちろん世間には言えませんが…………優しい人でした。離婚をしたばかりで寂しかったのでしょう。そういうお店は初めてだったようで、緊張しているのが初々しくも感じましたが、それからはいつも私を指名してくれて…………初めて私は〝恋〟をしました…………今でも優しい夫です。この会社もバックアップしてくれて、私を助けてくれています。夫も圭一けいいちのことを毎日気にかけてくれています。あちこちの有名な医者に掛け合ってくれたのも夫でした…………でも、夫に私の総てを話すことは出来ません。夫のためにも…………やっと産まれてきてくれた圭一けいいちを助けてあげたいのです」

「そのやまいの理由が心霊的なものだとする根拠は…………?」

 その萌江もえの質問に、真梨子まりこは即答した。

「〝…………あの時……あの駅に降りなければ…………冬桜ふゆざくらを見なければ…………〟」

冬桜ふゆざくら?」

 反射的に咲恵さきえが返した言葉に、真梨子まりこは続ける。

「はい、私が逃げた先にあった大きな木です。桜のような小さな花で、その時は知りませんでしたが後から調べまして……それを圭一けいいちがうわごとで言うのです。もちろん圭一けいいちが知っているはずもありません…………そして、幼い女の子の夢を見ると申しておりました。しかも、起きている時でも見るそうです…………」

「…………冬桜ふゆざくらって…………」

 咲恵さきえの鼓動がいつの間にか早くなっていた。


 ──…………まさか……………………


「その時の冬桜ふゆざくらの話は夫にも圭一けいいちにも話したことはありません…………私が流した子供ののろいに違いありません……」

「そっか」

 そう言った萌江もえが突然立ち上がる。

 そして続けた。

「案内して。圭一けいいちさんの所」





「こんないいマンションに息子さんは一人暮らし?」

 エレベーターの中で萌江もえがそう言うと、真梨子まりこは軽く息を吐いてから応えた。

「元々は圭一けいいちの結婚後の新居用でした…………病気が治る気配がないまま、今年の夏で婚約は破棄されまして…………」

「婚約者…………ああ…………そういうことか……」


 ──…………婚約者……?


 萌江もえの含みのある言葉もあってか、咲恵さきえにもその言葉と存在はやはり気になる。

 構わず真梨子まりこが続けた。

「あいにくこのマンションは防音のしっかりとした所です。圭一けいいちはその…………大声を上げることもありますので…………」

 最上階でエレベーターのドアが開いた。一応廊下はあるが、そこはワンフロア。

 真梨子まりこはインターホンのスイッチを押した。

「常に家政婦を雇っております。私も……週に一度ほどで……滅多には来ませんので…………」

 すぐにスピーカーから女性の声がした。

『お疲れ様です奥様』

 真梨子まりこは二人に振り返って付け加えた。

「我が社で数人雇っております。二四時間見守る必要がありますし……守秘義務は課しておりますので…………」

 玄関が開いた。

 若い女性だった。萌江もえ咲恵さきえを見て少し驚いた顔をするが、すぐに真梨子まりこがそれに返した。

「今日はお客様がいるの」

「しかし奥様────」

「大丈夫…………この人たちは信用していいわ」

 最初に通されたのは広いリビング。さすがに掃除は行き届いていた。と同時に、あまりに生活感がない。あまりに綺麗きれいに整理され過ぎたまま。人が生活した痕跡こんせきが無かった。

 家政婦の声がする。

「ただいまお飲み物を用意致しますので────」

「ごめん」

 そう言った萌江もえが続ける。

「あまり長居する時間はないと思うから…………ごめんね」

 そして真梨子まりこに顔を戻すと繋げた。

「早速だけど会わせてもらえる?」

「そうですか…………」

 そして、なぜか真梨子まりこの返答は遅い。

「分かりました…………こちらです」

 リビングから長い廊下に入り、突き当たりの一番奥の扉のノブに真梨子まりこが手をかける。

 大きく息を吐いた。

 そして声を上げる。

圭一けいいち、お母さんよ…………開けるわよ。いい?」

 真梨子まりこはゆっくりとノブを下げ、扉を開いた。

 それほど大きな部屋ではなかった。

 大きな二つの窓には分厚いカーテン。天井近くにはエアコンが見える他は、部屋の中央に柵付きのベッドが置かれているだけ。それ以外に家具と呼べるものは何もなかった。

 そしてベッドの上にはタオルケットを掛けただけの若者が横たわっている。

 頬と首筋、タオルケットから出た腕に、その若者が痩せ細っているのは誰が見ても明らかだろう。

 今は眠っているようだった。

 真梨子まりこはその圭一けいいちの姿に胸を撫で下ろしたように息を吐くと、小さく声を吐き出した。

「暴れる時もたまにありますので、家具は置いておりません。目眩めまいで歩くことが不自由ですので、身の回りの世話は総て家政婦に任せてあります。落ち着いている時は静かなのですが…………その、なんと言いますか…………今ではまるで廃人のようで…………」

 そう言って真梨子まりこは声を震わせた。

「今は会話もダメ?」

 萌江もえが質問する。

「おそらく、難しいかと…………穏やかに会話が出来ているように見えても、会話が成立しません…………」

「今でも夢で見るのかな…………その女の子」

「見ているようです。朝は毎日、叫び声で起きるそうですので…………」

「夢以外でも、今でも見るの?」

「家政婦の話では…………週に一回は見ているそうです。部屋の隅に見えるというだけの時があるかと思えば、急におびえて〝出ていけ〟と叫んだり────」

「────そうじゃなくてさっ‼︎」

 突然、萌江もえが叫んでいた。

 冷静なままの咲恵さきえ他所よそに、真梨子まりこは突然のことに驚いた表情を崩せない。

 萌江もえが続けた。

「家政婦家政婦って、なんで母親のあんたはここにいないのよ‼︎ 何で週に一回しかこないのよ‼︎ 隣にいれるなら、いてあげなさいよ‼︎」

 真梨子まりこが何かを言いかけているのが咲恵さきえにも分かった。


 ──……萌江もえ…………見えてないの…………?


「見えるんです! 私にも!」

 その声と共に、真梨子まりこは目に涙を浮かべていた。

「…………女の子が二人…………私の子が…………」

 その直後、突然その雰囲気に似つかわしくない声が辺りに響く。

「母さん……今日はお客様?」

 ベッドの上で上半身を起こした圭一けいいちの声だった。

 その顔は穏やか。

 萌江もえが首の後ろに両手を回し、ネックレスを外した。

 そして真梨子まりこの声。

「あ…………ごめんなさい圭一けいいち…………そうなの────」

 真梨子まりこが目を拭いながらベッドに近付いた直後、真梨子まりこ驚愕きょうがくの表情でその場に腰を落としていた。

 ベッド脇を指差し、声を震わせる。

「……ほら…………そこに……………………私の子が…………」

 萌江もえがネックレスのチェーンを左手の中指に巻きつける。

 そこに、噛み合わない圭一けいいちの声。

「母さん…………早く〝冬桜ふゆざくら〟を見に行こうよ…………もう咲いてるよ…………」

 そして、その圭一けいいちの額に、ベッド脇に近付いた萌江もえが左手を当てた。

 水晶の熱を感じたまま萌江もえが叫ぶ。

咲恵さきえ! カーテン開けて!」

 咲恵さきえは何も応えずに素早く動く。

 薄暗かった部屋に陽の光が大きく差し込んだ。

 萌江もえ圭一けいいちの体を後ろに倒した。手を離すと、圭一けいいちは再び目を閉じている。

「分かった。見えたよ…………真梨子まりこさん、二人とも消えたでしょ」

 萌江もえのその声に、呆然ぼうぜんとした顔の真梨子まりこが顔を向ける。

 大きく目が見開かれていた。

 萌江もえが続ける。

「どうやら、真梨子まりこさんが見てる幽霊は〝いん〟と〝よう〟なら〝いん〟みたいだね。どうして陽の光を当てたくらいで消えるの? 常にカーテン閉め切ってジメジメした環境なんか作ってるからその雰囲気に飲まれるの。半分は真梨子まりこさん自身が作り出してるってことを覚えておいて」

 咲恵さきえ真梨子まりこの肩に手をかけ、優しく支えるように真梨子まりこを立たせた。

 そして萌江もえが続ける。

「カーテンは朝には必ず開けること。いい? それと、冬桜ふゆざくらと、幸三こうぞうって人と暮らしてたアパートの場所を教えて」

「…………分かりました…………」

 真梨子まりこは視線を落としたまま、小さく応える。

 さらに萌江もえが続けた。

「明後日────金曜日の午後三時。ここで解決してあげるから真梨子まりこさんも来て。それと…………今日は予定無いんでしょ。このまま息子さんの側にいてあげて。話なんか噛み合わなくたっていい…………一緒にご飯食べてあげて。しばらく息子さんは落ち着いたままだから」

 そして、萌江もえのその声に、真梨子まりこは泣き崩れた。





 咲恵さきえは歩道橋の柵に両手をかけ、片足を浮かせていた。

 なぜだろうか。

 微塵みじんも恐怖というものを感じない。


 ──……もう…………疲れた…………

 ──…………私……………………死ねる…………


 その時、後ろから誰かが服を引っ張る。


 ────だれ⁉︎


 振り返るが、そこには誰もいない。

 気のせいだと思って顔を戻すが、再び服を引っ張られる。

 振り返ると、やはり誰もいない。

 その時、咲恵さきえの中に、途端に恐怖が押し寄せた。

 さっきまでは、飛び降りることに恐怖など感じなかった。

 しかし、今は、その高さにすら足がすくむ。


 ──……どうして…………


 咲恵さきえはそこに座り込んで、泣き叫んでいた。

 やっと、大声で泣けた。


 ──……私なんか生きてても仕方ないのに……どうして……死ぬのが怖い…………


 いつの間にか夜になっていた。

 歩き続けて、いつの間にか辺りは繁華街。

 街で見知らぬ男に声をかけられるままについていく。もちろんそれが風俗店のスカウトだったことなど、世間知らずの咲恵さきえには知るよしもない。

 店内で説明を聞いてやっと理解した。

 しかしよく分からないまま、年齢を偽って首を縦に振った。

 時として、人生の選択は残酷でもある。

 行ける所は無い。

 頼れる人はいない。

 それでも咲恵さきえは、どんな形でも〝生きる〟ことを選んでいた。

 従業員の女性たちはみんな優しかった。行く所がない身だということは聞かなくても分かってくれたのか、先輩自ら講習をして仕事を教えてくれた。二人一部屋だったが寮もある。女性たちの訴えで、その夜は仕事をすることはなかった。その代わりに、咲恵さきえの体を綺麗にしてくれ、服と食事を与えてくれた。咲恵さきえは涙が出て仕方がなかった。

 翌日から仕事だったが、咲恵さきえには男性経験がない。暗い店内でソファーに座り、客の隣で何をするのかは教わった。しかしそれは嫌悪けんおするものでしかない。仕事そのものは決して楽しめなかった。女性たちが懸命にサポートをしてくれたが、客からのクレームは多い。何度も店長に怒られるが、咲恵さきえには別の選択肢はない。一人の客に二〇分。ただ懸命に耐えた。客と客の合間に、何度も吐きながらその日一日のお金のために耐え続けた。


 ──……死ぬのが怖い人間は…………生きるしかないんだ…………


 それでも一年ほどでだいぶお金を貯めることも出来た。元々お金の使い方も知らない人生だった。アパートを借りたことを機に、先輩だった女性が転職した先の別の店に移る。

 そこでもすることは同じ。

 そのまま一年ほどが過ぎた。

 中には優しい客もいた。

 その客に誘われるままにプライベートで会うようになり、やがて体を求められる。経験のないままに風俗の世界で働いていたが、もちろんそんなことは客に分かるはずもない。

 しかしダメだった。

 自分の中に相手が入ろうとしただけで、咲恵さきえの体が拒絶した。途端に急激な吐き気に襲われ、その男性とはそれきり。

 ほどなくして店も辞めた。

 男性が怖かった。

 咲恵さきえにとって、男はおぞましいものでしかなかった。

 しばらく求人誌を見て過ごした。社会を知らない。風俗での仕事の経験しかない。

 どうすればいいか分からなかった。

 やがて、インターネットで風俗の求人を見ていた時、レズビアン専門の風俗店を見付ける。


 ──……女性同士なら……怖くないのかな…………


 その見立ては間違っていなかった。

 嫌悪けんおなどない。

 怖さなどなかった。

 そして、自分がレズビアンであることを自覚する。やっと続けられる仕事を見付けた。客は当然レズビアンの女性のみ。男性相手の風俗の時ほど忙しくは感じなかったが、それでも多くの客がいることに咲恵さきえは驚いた。

 そして自分を指名してくれる常連客もついた。

 しかし、いつの頃からだろう。女性と体を重ねる度に、見たことのないイメージが頭に浮かぶようになっていた。幼い時の〝あの頃〟の感覚に近かった。やがてそれが、相手の過去や感情であることに気が付く。

 男性相手の時もそうだったのだろうか。しかし嫌悪感のほうが先に立った。

 無視をすればいい。しかし、誰にも見られたくない過去はあるものだ。

 プライベートで付き合った相手の過去も見える。相手が〝知られたくない〟と思うと同じように、咲恵さきえが〝見たくない〟過去もある。

 自分の能力を恨んだ。

 見える力などいらなかった。

 相手の過去も未来も、知りたくなんかなかった。

 しかし、他に仕事を知らない。

 いつの間にか咲恵さきえも二八才。そんな行き詰まっていた頃、一人で飲み歩く楽しさで何かを誤魔化ごまかしていた頃、飲み過ぎて歩道の花壇の縁に腰掛けていた咲恵さきえに声をかけてきたのは年上の女性だった。男性に声をかけられてもいつも軽くあしらっていたが、その女性の目の優しさに、つい咲恵さきえ見惚みとれていた。

「……綺麗きれいな目ね…………」

 女性のそんな声に、咲恵さきえはなぜか気持ちの中の何かをつつかれた。

 それが何かは、それはその後も分からないまま。

 吸い込まれるような優しい目。

 そんな女性に初めての言葉を投げられ、咲恵さきえの気持ちはすでに掴まれていたのかもしれない。

 恋愛感情とも違う。

 しかし、何かの大事なタイミングであることを本能で感じていたのだろう。

 時として、人生の選択は残酷でもある。

 それでも咲恵は、どんな形でも〝今〟から抜け出すことを選んでいた。

 その女性は、決して咲恵さきえの力に気が付いていたわけではない。咲恵さきえも話さなかった。誰も信じられるわけがないし、知ったところで、子供の頃の学校のように拒絶されるだけ。

 咲恵さきえはその女性に誘われるままに、一週間後、その女性が経営するスナックで働き始めた。

 なぜ声をかけてくれたのか、それは分からないまま、給料は風俗店より低かったが、何より安心して働くことが出来た。

 思い返してみても、やはりそのママはいい人だった。男勝りのはっきりしたかっこよさと、女性らしい柔らかさがあった。咲恵さきえが初めて着いて行こうと思えた人だった。

 働き始めて四年。咲恵さきえが三二才になった頃には、いつの間にかママの片腕として店を支えるまでになっていた。

 ママとはよく仕事帰りに飲み歩いていたが、そんな時に連れて行かれるのは、ママが客と同伴の時に見付けた店。

 その夜、やはり仕事帰りの深夜過ぎに行ったのは、恵元萌江えもともえが働いていた店だった。





            「かなざくらの古屋敷」

      〜 第二部「冬桜ふゆざくらのうたかた」第3話(完全版)

                     (第二部最終話)へつづく 〜

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