第二部「冬桜のうたかた」第2話(完全版)
背もたれ、肘掛け、座面のフカフカのクッションまでが金色。
小学校に入る前の幼い
頭に浮かんだことを応えればいい。
何も難しいことはなかった。それでも多くの信者たちが涙を浮かべて深々と頭を下げた。
それが
両親が代表を務める新興宗教団体。
それだけでなく、両親を驚かせたのは
その噂が近所で有名になってくると、近付いてきたのは地元でも有名な資産家だった。どんなことで財を築いた人なのかはもちろん
世間を知らなかった。
新興宗教を立ち上げること自体は法律で認められたものだ。何もやましいものはない。しかしその実情がどういうものだったのか、後に
もちろん当初からよく思わない人々もいたことだろう。オカルトブームに乗った怪しげな団体と思う人たちは少なからずいたはずだ。
小学校に通い始めると、学校の誰もが
田舎の中規模の村に出来た宗教団体の娘。
知らぬ者はいない。
そして、壮絶なイジメが始まる。
毎日、気持ち悪いと言われ続けた。
普通に会話の出来る相手はいない。
友達など出来るわけがない。
そして学校での孤立が強まると、益々
中学校に入学し、どこか
しかし両親はその卒業を機に、教団用に大きな土地を購入し、そこに神社のような建物を建て、そこを総本山とした。まるでお城のような生活に
ある時、大勢の黒いスーツ姿の大人たちがやってきた。
何やら両親と玄関先で押し問答をしているが、当時一六才でしかも世間を知らなかった
それが税務所の職員だったのだろうと思えるのはまだ先のことだ。
それから一年近く、元信者に訴えられるなど、
──……どうして自分の未来は見えないんだろう…………
──……どうして自分に降りかかる未来の姿は分からないんだろう…………
──…………本当に私に〝力〟なんてあるの?
そんな不安が浮かぶ夜、
教団の施設内。
広い敷地のほぼ中心。
そこに
元々あった物と聞いていた。
両親が教団の
それは〝
冬、空から降り注ぐ雪の粒のような、白く淡く、小さな花で埋め尽くされる大きな木。
まさしく冬に咲く桜のようだと、
何か応えてくれるわけではない。
それでもその〝
雪の降り始め。
まだ
木の周りには背の低い木製の柵。その中に入れるのは
「最近ね……子供の頃より…………未来が見えなくなった気がするんだ……」
呟きながら、
「気のせいだとは思うんだけどさ…………でもその代わりに、昔のことは前よりはっきりと見えるようになった気がする…………」
もちろん何も応えてはくれない。
でも、それで良かった。
父とも、母とも違う、唯一、心を通わせられる相手。
そう呼べる存在を、
そんな日々が続く。
冬の夜。
その日は朝からの大雪だった。
両親から身の回りの物をまとめるように言われ、真新しいキャリーケースを渡された。
どこかに引っ越すのだろうかと
そして、やがて分かる。
それは夜逃げの準備。
──……どうして? 明日も信者の人たち来るんじゃないの?
誰か分からない人の運転するワンボックスカーに、両親はキャリーケースの他に数枚の布団を積み込んでいた。
走り去るワンボックスの窓から、ゆっくりと降り続く雪の向こう、たくさんの花を咲かせる
その小さな花びらが、雪のように、ゆっくりと風に舞う。
雪なのか花びらなのかも分からないほどの美しさに、無意識のまま、
──…………さよなら…………
深夜に着いた先は見知らぬ土地。
少なくとも見える範囲に雪はない。
古いアパートだった。
話は通ってあるのだろう。少ない荷物を運び込むと、まだ電気も通っていないその寒い部屋で、家族三人で布団に包まって体を暖めた。
自然と、涙が出た。
そしてそれは止まらない。
それでも、なぜか
翌朝、朝食用の菓子パンを買って帰ってきた父親に、
両親が何をして、どうしてこうなったのか知りたかった。そしてこれからどうなるのか。
両親は土地を購入する以前から、信者から大量のお布施や相談料を取り始めていた。教団立ち上げの頃は微々たる相談料だったらしい。だが、しだいに欲が顔を出す。高額なお布施を出せる信者を抱え込むようになり、しだいに相談料も高騰していった。あの土地を買って建物を建てたことで、付近の住民ともトラブルになっていたらしい。
元々はあの場所も、あの
そして脱税工作。
そして、これからのプランもない。
逃げてきただけ。
その日の夜、両親が寝静まった頃、
ここがどこなのかも知らない。
世の中のことも知らない。
生き方など考えたこともない。
持っているのは空白の多いキャリーケース一つだけ。
そのまま、朝まで歩き続けた。
常に体を動かしていたせいか、不思議と寒くはない。
早朝、二四時間営業のファミレスに入る。今まで一人でそんな店に入ったことはなかった。
それでも空腹には勝てない。両親と来たことがあっても、その多くはやはり見様見真似。
それでも、やっとご飯を食べた。久しぶりのまともな食事だった。思えば、夜逃げをする少し前から満足な食事を摂った記憶がない。
何の計画性もなかった。
食事が終わると、途端に眠気が襲ってきた。
いつの間にか、そのまま眠っていたらしい。
「あの……お客様……」
何度目かの店員の声に起こされた。
壁の時計を見る限り、三〇分も寝ていたわけではないらしい。
「……すいません……」
それしか返せない。
お金は両親の財布から盗んできたものがあった。頭を下げて店を出ると、再び行き先も決められないままに歩き始めた。
おそらくファミレスから通報があったのだろう。しばらく歩いていたところでパトカーが横について声をかけられた。無理もない。
「身分証明書はありますか?」
その言葉に、反射的に
あるはずがない。
自分が何者なのかも分からない。
分かっているのは、自分は悪いことをした宗教団体の娘だということだけ。
どこをどう逃げたのか、いつしか
何も考えてはいなかった。
むしろ、何も考えられなかった。
そして、そこから飛び降りることに、なぜか恐怖は感じない。
何も、怖くはなかった。
☆
「大丈夫かな…………遅刻しちゃったね……」
やっと辿り着いた〝トレス・ベル〟の本社ビルの前で、立ち止まった
その隣の
「みっちゃんめ…………こんなに遠いなら最初に言ってよね。ただでさえ昨日からの雪で今日も大渋滞なんだから」
しかし入らないわけにはいかない。
前金はすでに昨夜受け取っている。
腹を
二人はホールの端にある受付に、昨日受け取っていた二枚の名刺を出した。
「
微かに声が反響するためもあるのか、受付の女性スタッフの声からも品の良さを感じる。
受付は会社の顔────それを理解出来ている会社だった。
それでも二人には別世界。未だにこういう雰囲気は慣れない。そして受付けホールのソファーまで妥協しない会社であることが座るだけで分かる。
再び
「みっちゃんの持ってくる仕事って大きな会社が多過ぎると思わない? 落ち着かないんだけど…………」
「お陰でこっちは稼げてるけどね。堂々としてりゃいいじゃん」
「まあ……そうだけど…………あんまり
「
「なんかそれっぽいかな……って思って…………年相応って言葉知ってる?」
そして、静かなヒールの音と共に、受付の女性からの声がかかる。
「お待たせ致しました。ご案内致します」
社長室に併設された応接室は最上階の一二階。
エレベーターの静けさまでが品のあるビル。女性をターゲットとした下着メーカーがここまで急成長出来た理由が
ドアには社長室────とは書かれていない。
〝 Representative Director's Office 〟。
──……長すぎて何の部屋か分からない…………
そう思った
「ご案内致しました」
それだけ言うと、ドアを大きく開けて頭を下げる。
そこには想像通りの広い部屋。ゴテゴテとした雰囲気ではない。黒を基調としたシンプルながらもおしゃれな印象だった。
明るい雪景色の見える大きな窓を背に、大きなデスクの中で立ち上がった女性は〝
小振りなメガネを外し、チェーンで繋がったそれを胸の前に下げ、口を開いた。
「お待ちしておりました」
品のある軽い笑顔を向ける。
そして小さく
「今日はもう予定はないので、どなたも通さないようにお願いします。今日はこちらの御二方だけで」
「はい────ランチのほうはいかが致しましょうか?」
「そうね、ケータリングでも頼もうかしら。その時はお願いします」
「かしこまりました」
二人の背後で扉の閉まる低い音がした。
女性がデスクの前に回り、数歩だけ前に進んで口を開いた。
「代表取締役の
そして深々と頭を下げた。それこそ九〇度腰を曲げる。
受付の女性に敬語を使っていたことから
思わず
「いえいえ……こちらこそ遅くなっちゃって」
「昨日は突然の大雪でした。無理もないことです。むしろ事を急ぐばかりに早急な依頼をしてしまいまして…………
「まあ、頭を…………」
その
ソファーに座る直前、
「改めまして…………」
それを、
そしてソファーに腰を下ろしながら、小さな声で。
「〝訳あり〟でしょ…………そういう仕事の人間に名刺なんか渡しちゃダメ…………私たちの関係は、事が済んだらそれで終わり…………」
すると、途端に
ソファーに座った
「最初に」
そう言って最初に口を開いたのは
その言葉が続く。
「私たちは
「はあ…………」
軽く息を吐きながら
「──お茶をお持ちしました」
途端に
「もう結構よ…………ありがとうございます」
そんな
「コーヒーでよろしかったかしら…………私がコーヒー派なもので…………」
ソーサーとカップを二人の前に置きながらの
「私たちもコーヒー派ですよ。頂きます」
──……苦労した手…………
そう思った
目の前の女性が、ではない。
見えた〝過去〟に対して。
それに繋げたのは
「息子さんの話でしょ。軽くは聞いたけど……その前に────解決をしたければ
──……
「息子は…………
その声に応えるように、再び口を開いたのは
「私は99.9%幽霊も
その
「だからこそ辿り着ける答えがあるはず…………何でも心霊現象とか
瞬時に、
──……
しかし今、
そして
「私が悪いんです…………私の過去が…………あの子を苦しめているんです…………」
「一年以上苦しんでるんでしょ? だったら、急がないとね」
その柔らかい
「…………はい…………私は、本名を…………
☆
望んだわけでもなく、逃げ出すことすらも許されないまま、働いてすでに三年ほどが経過していた。
いつの間にか一八歳になっていたが、環境は何も変わっていない。
四畳の狭い部屋で三人で雑魚寝をする毎日。衛生という言葉もプライベートという概念も無い。それが当たり前。手元に残る給料は毎日数百円。その日の食べ物だけで消えた。
その頃、同僚の女性が
相手は客以外に考えられない。
男性店長に「お前が悪い」と怒鳴られ、連れて行かれた先は小さな産婦人科だった。
ただ、怖かった。
その病院に入った途端に、涙が出てきて止まらない。
妊娠の意味も分からないままに中絶手術を施され、店長が直接医者に現金を渡すのを見ても何の質問も許されず、次の日からは再び店に出る。
「妊娠は本人が悪い」と言われ、一ヶ月無給で働かされた。同僚から食事を分けてもらい、何とか食い繋いだ。同じ経験をしていた同僚は他にもいた。
ある日、同僚の一人がいなくなったと聞かされる。
男たちが捜索したが、見付からないと騒いでいたらしい。
同僚が「
──……私も……逃げたい…………
そう思ったが、もちろんお金は無い。
そんな時、仲良くなった同僚から話を持ちかけられた。
街に立って、個人で〝客を取って〟金を貯めようとの言うのだ。
「知ってるでしょ、あの通り。あそこに立ってるのはみんなそう。縄張りはあるらしいから、誰かに話聞いてさ…………どっか場所分けてもらって……お金稼ごうよ……一緒に逃げようよ」
仕事が早く終わった夜、同僚と二人でその通りに向かう。しかし、誰も話を聞いてはくれなかった。仲間意識など存在しない世界。誰もが自分のためだけに一人で生きていた。
それでも辛うじて通りの隅で客を捕まえる。捕まえた後に向かうのは近くの公園の中の公衆トイレの個室。中には自分のアパートの部屋を使う女性もいたようだが、二人にはもちろんそんな場所はない。
そして少しずつお金が溜まり始めた。
もう少し貯めたいと、その夜も二人で街に立つ。
おそらく付近で〝立っていた〟女性からの情報が流れたのだろう。
店の男たちに見付かる。
二人で男たちから逃げた。
溶けかけた路面の雪が靴底に絡まる。
絶望感の中で懸命に走った。
やがて、
「逃げて‼︎」
駅の改札を走り抜けていた。
切符などもちろん買っていない。
駅員の声も無視して、閉まりかけた電車のドアに滑り込んだ。
男たちがドアを叩く姿が見える中、少しずつ電車が動き始める。
恐怖が消えない。
男たちの姿が見えなくなると、急に体が震え始める。
電車内の長椅子に座る。夜の電車。他に客はいなかった。
薄いロングコートの下は下着とキャミソールだけ。
電車内の暖かさが全身に染み渡った。
──……どこで降りようかな…………
あの生活から抜け出せたことに感謝した。
涙が
電車の揺れが、神経を揺さぶった。
時間的に最終の電車だろう。軽くうたた寝をしながら揺られ続ける内に電車が最終地点に辿り着く。
もちろんそこがどこなのかも分からない。
時間は深夜。
駅員に話して電車代を支払うと、それなりの金額だった。しかし嬉しかった。それだけ遠くまで来れたことになる。
自分のいた所よりも積もっている雪は深い。どっちに向かうのかも分からないままに電車に飛び乗った。分かっているのは遠くに来れたということだけ。
駅前とは行っても、小さな建物が並ぶだけ。泊まれる所を探したくても土地勘もない。誰かに聞こうにも、周りには人影すら見当たらない。
昭和五九年。現在のようにコンビニがあちこちに点在している時代ではない。
とりあえず歩いた。
人のいる所に行けば何とかなるだろうと歩き始めたが、しだいに建物が減り、辺りには民家が点在するのみ。
やがて、道路の脇に大きな
周りを木々で囲まれた道を進むと、やがて開けた空間に辿り着いた。
そしてその中心に、大きな木があった。なぜか冬だというのに、小さな白い花が無数に咲き誇っている。
僅かな緩い風の流れに小さな花びらが舞い、まるでそこだけ明るくなったかのような幻想的なその光景に、
──……どうして…………冬なのに…………桜が咲いてるの…………
いつの間にか、その木に寄り添うように
もはや寒さも感じない。
やがて、付近の住民からの通報があったのだろう。
深夜に若い女が一人で荷物も持たずに歩いていると言われれば、近くの警察としては一応見回りをするしかない。
やがて、雪の上に
小さな交番だった。
自分を保護してくれた警察官────
暖かさを感じた。
朝、夜勤明けの
ジャージの上にコートをきて、昨夜の駅前の定食屋で朝食をご馳走になる。何を食べても美味しかった。
本署に連れて行かれ、話を聞いてくれたのは女性警官だった。柔らかいその警官の口調に、
身元の調査が始まる。
そしてこの時初めて、自分が死んだことになっていたことを知る。
両親の顔が頭に浮かんだ。しかし、別れの時の顔しか思い出せない。
戸籍上一度は死んだことにされていた
生きる希望を見出せない人生だったのに、なぜか生きることを望んでここまできた。
──……まだ…………生きてていいの…………?
新しい名前は〝
自分に逃げ道を教えてくれた、あの同僚の本名だった。あれ以来、彼女がどうなったのかはもちろん分からないまま。それでも忘れたくない存在。忘れないため。
しばらく小さなホテル住まいを余儀なくされた。女性警官から分けてもらった僅かな化粧品とスーツに感謝しながら、警察署や裁判所を行き来する。
やがて、
精神面での
新しい人生を手に入れた。
これから人生をやり直せる。
そう思っていた。
やはり、
まだ若い
あの店にいた頃の生活に比べたら、ずっといい。
生きていける。
耐えることには慣れていた。
そして耐え続けて数年。
昭和六二年。
過去の妊娠の経験から、自分が妊娠していることに気付く。
間違いなく
何も知らない
しかし
そして、病院に行くことも許されないまま、
「外に男を作ったからだ」と言いがかりをつけられ、
しかし、子宮からの出血は
それは僅かに、人の形をしていたように、少なくともその時の
☆
「もちろん人の形などしているわけはありませんが…………そう見えたような気がして……その後のことはあまり記憶がございません……」
「……死のうと思いました……」
その言葉に、
どこかが
決して平坦とは思えない
それは、簡単に言葉を返せるような、その程度の生き様ではない。
どうするべきかの判断も出来ないまま、時間の流れに苦しめられてきた
「それなのに、どうしてでしょうね…………二人も命を流しておきながら…………なぜか私は死ぬことが出来ませんでした。情けない話です…………結局は怖いのです…………怖くて死ねないのです…………二人も子供を殺しておきながら…………私は…………自分が死ぬのは怖い…………」
その震える声に、なぜか
その時の
そして、絞り出された
「まだ…………生きようとする意思があったんですね」
少し間を空け、その
「…………本当に死ねる人というのは、その時には怖くなくなるものです…………私は…………一度経験があるので…………」
何かを察したのか、
「どうなんでしょうね…………それでその後、
「そこで客として来た現在の夫と知り合いました。そんな店で知り合ったなんてもちろん世間には言えませんが…………優しい人でした。離婚をしたばかりで寂しかったのでしょう。そういうお店は初めてだったようで、緊張しているのが初々しくも感じましたが、それからはいつも私を指名してくれて…………初めて私は〝恋〟をしました…………今でも優しい夫です。この会社もバックアップしてくれて、私を助けてくれています。夫も
「その
その
「〝…………あの時……あの駅に降りなければ…………
「
反射的に
「はい、私が逃げた先にあった大きな木です。桜のような小さな花で、その時は知りませんでしたが後から調べまして……それを
「…………
──…………まさか……………………
「その時の
「そっか」
そう言った
そして続けた。
「案内して。
☆
「こんないいマンションに息子さんは一人暮らし?」
エレベーターの中で
「元々は
「婚約者…………ああ…………そういうことか……」
──…………婚約者……?
構わず
「あいにくこのマンションは防音のしっかりとした所です。
最上階でエレベーターのドアが開いた。一応廊下はあるが、そこはワンフロア。
「常に家政婦を雇っております。私も……週に一度ほどで……滅多には来ませんので…………」
すぐにスピーカーから女性の声がした。
『お疲れ様です奥様』
「我が社で数人雇っております。二四時間見守る必要がありますし……守秘義務は課しておりますので…………」
玄関が開いた。
若い女性だった。
「今日はお客様がいるの」
「しかし奥様────」
「大丈夫…………この人たちは信用していいわ」
最初に通されたのは広いリビング。さすがに掃除は行き届いていた。と同時に、あまりに生活感がない。あまりに
家政婦の声がする。
「ただいまお飲み物を用意致しますので────」
「ごめん」
そう言った
「あまり長居する時間はないと思うから…………ごめんね」
そして
「早速だけど会わせてもらえる?」
「そうですか…………」
そして、なぜか
「分かりました…………こちらです」
リビングから長い廊下に入り、突き当たりの一番奥の扉のノブに
大きく息を吐いた。
そして声を上げる。
「
それほど大きな部屋ではなかった。
大きな二つの窓には分厚いカーテン。天井近くにはエアコンが見える他は、部屋の中央に柵付きのベッドが置かれているだけ。それ以外に家具と呼べるものは何もなかった。
そしてベッドの上にはタオルケットを掛けただけの若者が横たわっている。
頬と首筋、タオルケットから出た腕に、その若者が痩せ細っているのは誰が見ても明らかだろう。
今は眠っているようだった。
「暴れる時もたまにありますので、家具は置いておりません。
そう言って
「今は会話もダメ?」
「おそらく、難しいかと…………穏やかに会話が出来ているように見えても、会話が成立しません…………」
「今でも夢で見るのかな…………その女の子」
「見ているようです。朝は毎日、叫び声で起きるそうですので…………」
「夢以外でも、今でも見るの?」
「家政婦の話では…………週に一回は見ているそうです。部屋の隅に見えるというだけの時があるかと思えば、急に
「────そうじゃなくてさっ‼︎」
突然、
冷静なままの
「家政婦家政婦って、なんで母親のあんたはここにいないのよ‼︎ 何で週に一回しかこないのよ‼︎ 隣にいれるなら、いてあげなさいよ‼︎」
──……
「見えるんです! 私にも!」
その声と共に、
「…………女の子が二人…………私の子が…………」
その直後、突然その雰囲気に似つかわしくない声が辺りに響く。
「母さん……今日はお客様?」
ベッドの上で上半身を起こした
その顔は穏やか。
そして
「あ…………ごめんなさい
ベッド脇を指差し、声を震わせる。
「……ほら…………そこに……………………私の子が…………」
そこに、噛み合わない
「母さん…………早く〝
そして、その
水晶の熱を感じたまま
「
薄暗かった部屋に陽の光が大きく差し込んだ。
「分かった。見えたよ…………
大きく目が見開かれていた。
「どうやら、
そして
「カーテンは朝には必ず開けること。いい? それと、
「…………分かりました…………」
さらに
「明後日────金曜日の午後三時。ここで解決してあげるから
そして、
☆
なぜだろうか。
──……もう…………疲れた…………
──…………私……………………死ねる…………
その時、後ろから誰かが服を引っ張る。
────だれ⁉︎
振り返るが、そこには誰もいない。
気のせいだと思って顔を戻すが、再び服を引っ張られる。
振り返ると、やはり誰もいない。
その時、
さっきまでは、飛び降りることに恐怖など感じなかった。
しかし、今は、その高さにすら足がすくむ。
──……どうして…………
やっと、大声で泣けた。
──……私なんか生きてても仕方ないのに……どうして……死ぬのが怖い…………
いつの間にか夜になっていた。
歩き続けて、いつの間にか辺りは繁華街。
街で見知らぬ男に声をかけられるままについていく。もちろんそれが風俗店のスカウトだったことなど、世間知らずの
店内で説明を聞いてやっと理解した。
しかしよく分からないまま、年齢を偽って首を縦に振った。
時として、人生の選択は残酷でもある。
行ける所は無い。
頼れる人はいない。
それでも
従業員の女性たちはみんな優しかった。行く所がない身だということは聞かなくても分かってくれたのか、先輩自ら講習をして仕事を教えてくれた。二人一部屋だったが寮もある。女性たちの訴えで、その夜は仕事をすることはなかった。その代わりに、
翌日から仕事だったが、
──……死ぬのが怖い人間は…………生きるしかないんだ…………
それでも一年ほどでだいぶお金を貯めることも出来た。元々お金の使い方も知らない人生だった。アパートを借りたことを機に、先輩だった女性が転職した先の別の店に移る。
そこでもすることは同じ。
そのまま一年ほどが過ぎた。
中には優しい客もいた。
その客に誘われるままにプライベートで会うようになり、やがて体を求められる。経験のないままに風俗の世界で働いていたが、もちろんそんなことは客に分かるはずもない。
しかしダメだった。
自分の中に相手が入ろうとしただけで、
ほどなくして店も辞めた。
男性が怖かった。
しばらく求人誌を見て過ごした。社会を知らない。風俗での仕事の経験しかない。
どうすればいいか分からなかった。
やがて、インターネットで風俗の求人を見ていた時、レズビアン専門の風俗店を見付ける。
──……女性同士なら……怖くないのかな…………
その見立ては間違っていなかった。
怖さなどなかった。
そして、自分がレズビアンであることを自覚する。やっと続けられる仕事を見付けた。客は当然レズビアンの女性のみ。男性相手の風俗の時ほど忙しくは感じなかったが、それでも多くの客がいることに
そして自分を指名してくれる常連客もついた。
しかし、いつの頃からだろう。女性と体を重ねる度に、見たことのないイメージが頭に浮かぶようになっていた。幼い時の〝あの頃〟の感覚に近かった。やがてそれが、相手の過去や感情であることに気が付く。
男性相手の時もそうだったのだろうか。しかし嫌悪感のほうが先に立った。
無視をすればいい。しかし、誰にも見られたくない過去はあるものだ。
プライベートで付き合った相手の過去も見える。相手が〝知られたくない〟と思うと同じように、
自分の能力を恨んだ。
見える力などいらなかった。
相手の過去も未来も、知りたくなんかなかった。
しかし、他に仕事を知らない。
いつの間にか
「……
女性のそんな声に、
それが何かは、それはその後も分からないまま。
吸い込まれるような優しい目。
そんな女性に初めての言葉を投げられ、
恋愛感情とも違う。
しかし、何かの大事なタイミングであることを本能で感じていたのだろう。
時として、人生の選択は残酷でもある。
それでも咲恵は、どんな形でも〝今〟から抜け出すことを選んでいた。
その女性は、決して
なぜ声をかけてくれたのか、それは分からないまま、給料は風俗店より低かったが、何より安心して働くことが出来た。
思い返してみても、やはりそのママはいい人だった。男勝りのはっきりしたかっこよさと、女性らしい柔らかさがあった。
働き始めて四年。
ママとはよく仕事帰りに飲み歩いていたが、そんな時に連れて行かれるのは、ママが客と同伴の時に見付けた店。
その夜、やはり仕事帰りの深夜過ぎに行ったのは、
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二部「
(第二部最終話)へつづく 〜
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