第二部「冬桜のうたかた」第1話(完全版)

    あなたたちは誰?

    どうして、

    いつも、

    そこにいるの?





 昭和四〇年。

 戦争の終わりから二〇年。

 歴史的に見れば、戦後の復興が終わり、高度経済成長が始まる時代。

 しかし、歴史というものは教科書のように単純ではなかった。

 敗戦と共に、日本は多くのものを失い、捨てた。戦争に負ける現実に総ての国民が翻弄ほんろうされた時代。誰もが綺麗事きれいごとだけでは生きていけない。その日を生きることだけで命があることに感謝する。同時に、明日の補償のない世界から誰もが抜け出せずにいた。

 それでもやっと国という形がまとまりつつある頃。戦争という過去と、戦後という時代の狭間。そして同時に、それはどうしても通らなければならない歴史。

 当然のように、いつも歴史には表と裏がある。

 そしてまだ、裏の強い時代。

 法の整備など形だけの世界。

 そんな世界から、少しずつ何かが変わり始めた時代でもある。

 しかし、それまで経由してきた歴史は簡単なものではない。

 裏の世界と一般の人々との壁はまだまだ薄い。

 中岡安江なかおかやすえは戦後のそんな時代に産まれ、生きていた。

 多くの人々と同じように貧しい家だった。田舎の小さな街。田舎気質が残る閉鎖的な地域。

 それでも小学校を経て無事に中学校を卒業することが出来た。

 卒業式の翌日。

 朝。

 玄関を激しく叩く音。

 すぐに安江やすえの鼓動が激しくなる。理由は分からない。理由は分からないが、不安に包まれた。

 スーツ姿の大人の男たちが数名。

 玄関先で両親が紙を見せられている。

「話はしてあるのか?」

 知らない男の声。

 何かがおかしいことだけが、なぜか分かった。

 感じた。

 そして、母の、何かあきらめにも聞こえる声がする。

安江やすえ、おいで」


 ──……いやだ…………


 母に腕を掴まれた。

 その痛さが、全身の恐怖を刺激する。

「いや!」

 もう片方の腕を男に掴まれた直後、自然と涙があふれた。

「いや! お母さん!」

 母が手を離す。

 父は目を逸らした。

 そして、それが両親との別れ。

 両親の借金のカタ。その時の安江やすえに意味を理解することは難しい。最後の両親の顔を、安江やすえはその先も忘れることが出来なかった。

 無意識なのか意識的なのか、気が付いた時には、安江やすえは泣き叫んでいた。

 泣き止んだのは、見知らぬ車の後部座席でほほを叩かれた時。

 怖かった。

 この時点で安江やすえは死んだことにされて戸籍からも抹消されていたことを、後で知ることになる。

 大人に連れて行かれた所は街の繁華街の裏路地。

 お腹が空いていた。

 そう言えば、朝ご飯をまだ食べていなかった。


 ──……両親は…………どんな顔で朝ご飯を食べたのだろう…………


 髪を掴まれ、引きずられるように連れて行かれた。

 髪の毛が痛い。

 そこは、看板も無い、小さな店。

 世の中の現実は、まだ暗かった。





 一二月も半ば。

 火曜日の夜。

 その夜は、夕方からの突然の大雪だった。

 二時間ほどで、街は一面の雪景色。

 交通機関は軒並み混乱し、そのことでニュースは埋め尽くされていた。

 毎冬、雪の降り始めの頃は飲食店にとっては打撃が大きい。ある程度雪に慣れてしまえば人も再び動き始めるのだが、それまでは客商売も我慢の期間。まして夜の店の影響は顕著けんちょだった。

 当然のように、マンションを出る時の咲恵さきえも今夜の閑散かんさん具合は覚悟していた。


 ──……ま、平日で良かったかな…………


 そんなことを考えながら、真新しく積もったばかりの新雪を踏みしめた。ショートブーツの厚目の靴底から伝わる鈍い雪の感触が、改めて冬の訪れを感じさせる。それでもあいにくなことに、冬の到来を実感しても胸をときめかせる歳でもないと改めて感じていた。


 ──……萌江もえの家も雪に埋まってそうだなあ…………


 マンションから店までは歩いて五分程度。

 雪のせいか、それほど昨日までと気温は変わらないにも関わらず、やはり寒く感じる。

 店を始めて一年くらいになるが、思えば開店したのは去年の冬前。客が入り始めた頃にはすでに雪が積もり始めていた。


 ──……どうして…………私はいつも冬なのかな…………


 店の鍵を開けて入り口を開けると、途端に咲恵さきえの中に懐かしさが込み上げた。

 小さな店とは言ってもテナントフロアの角。大きなガラスが二面の壁をL字に覆い、夜の街灯りが望めた。いつもの間接照明のスイッチを入れても、今夜は外の雪のほうが明るく感じる。

 雪はさっきから降り続き、その雪景色を見ながら歩いてきたというのに、この店の入り口から見えるガラス越しの雪景色はなぜか郷愁きょうしゅうを感じさせた。


 ──……まだ二度目の冬なのにね…………


 店内のエアコンのスイッチを入れると、三〇分もすると暖かくなる。狭い店内の強みだろう。

 大まかな清掃は何か理由がない限りは閉店後に済ませるのがいつもの流れだった。店に来てからは細かい部分の清掃と在庫、スケジュール、シフトのチェック。必要であれば業者に連絡。


 ──……今日はこの雪だしねえ…………


 あとは開店の一九時までカウンターの中でコーヒーを飲みながら他の従業員が来るのを待つだけ。

 の、はずだった。

「来たぜ!」

 その声と共に入り口を開けたのは萌江もえ。というよりも、そんなことをするのは萌江もえくらいだとも言える。最近買ったばかりの真っ赤なロングコートに使い古したダークブラウンのサッチェルバッグを背負った萌江もえがそこに立っていた。

「あら、こんな雪なのにどうやって────」

 咲恵さきえのその声の最中、ハイカットブーツの重い音を響かせ、萌江もえは珍しくカウンターの中に入り込む。そして咲恵さきえの体を壁に押し付けると、その唇をいきなり塞いだ。


 ──……やばい…………


 そう思った咲恵さきえは、口の中に萌江もえの舌が入り込んできたところで、やっと萌江もえの体を少しだけ押し返していた。


 ──……店で舌はヤバいでしょ…………


 そして萌江もえが口を開く。

「どうして日曜日来てくれなかったの⁉︎」

「で……電話で理由は話したでしょ」

「怪しい」

由紀ゆきちゃんが風邪で────」

「彼女と暮らしてるって言ってたじゃん」

「彼女が出張だって聞いたから…………」

「せっかくリビングと寝室をフローリングにしてまきストーブまで設置して待ってたのに…………年明けには壁と水回りもリフォームする予定なのに…………どうして毎日通ってくれないの⁉︎」

「それは無理でしょ。コントのためにわざわざこんな大雪の日に…………」

「だって一週間以上も会えないと寂しいじゃん」


 ──……ま、可愛いから許すけど…………


「バスの暖房が効き過ぎでさあ」

 萌江もえはそう続けながらカウンターのいつもの定位置に回って続けた。

「山奥のバスなんて遅れてくるのが当たり前だけど、さすがに今日はだいぶ遅れたねえ…………しかもこっちに来たら渋滞だし」

「無理もないよ。ついに積もったって感じだからね」

 応えながら咲恵さきえ萌江もえの前にコーヒーの入ったマグカップを置く。いつの頃からか萌江もえの専用マグカップが当たり前に常備されていた。

 それは、訳あって一度姿を消していたマグカップ。

 よほど外が寒かったのか、コーヒーを口に運んで大きく息を吐いた萌江もえが返した。

「温度や湿度が快適なバスって無理なのかなあ」

「私の軽自動車とは違って広いし、しかも前後のドアが長時間開いたり…………かなり難しいと思うよ。調整したってすぐに温度が変わるわけじゃないだろうし、温度控えめにすれば今度は寒いってクレームくるだろうし…………萌江もえも車買ったらいいのに。好きでしょ?」

「やだ。咲恵さきえが来てくれなくなるじゃん」

 その萌江もえの言葉は嘘ではない。

 しかもそれを知っている咲恵さきえがわざとからかうのがいつもの流れ。

「今度高級車のパンフレット持ってってあげる」

「いらない」

 その萌江もえの言葉も嘘ではない。

 そんなやりとりの直後、微かに足元に入り込む冷たい空気。

 そして入口ドアの鈴が鳴った。

 そこには、二人にとって懐かしい顔があった。

 思わず咲恵さきえが声を上げる。

「みっちゃん!」

「その呼び方はやめてくれと言っただろ」

 そう即答して苦笑いを浮かべる男。

 満田達夫みつたたつお。年齢不明────おそらく六〇才前後。職業は会計士をしていた。そして自らの会計事務所の経営者でもある。

 咲恵さきえ萌江もえも、実のところこの男のことはそのくらいしか知らない。元々は咲恵さきえがスナックで働いていた頃のその店の常連だった。

 そして、初めて咲恵さきえ萌江もえに〝裏の仕事〟を持ち込んだ人物でもある。

 二人に興味を抱き、二人を信頼して仕事を斡旋あっせんしてきた。

 しかし会計士という表の顔を持ちながら〝裏の仕事〟を世話する謎の人物であることは未だに変わらない。それでも会計士という仕事だからこその横の繋がりというものもあるのだろう。二人がこなした大口の客のほとんどが満田みつたの紹介だった。二人が満田みつたの恩恵に授っていたのは事実でもある。

 咲恵さきえ個人としても今の店の行政手続きの時にはだいぶ助けてもらっていた。

 その満田みつた咲恵さきえが笑顔で返していく。

「一年以上……じゃない? この店のオープン当初以来だよ。元気?」

「まあね…………もう少し早い時間のほうが私の場合は迷惑にならないだろうと思ったんだが…………道路が混んでいてね。まだ二人だけで良かったよ」

 満田みつたはそう応え、萌江もえの顔を見ながら続ける。

「…………恵元えもとさんも元気そうだ……」

「その呼び方嫌い。萌江もえにして」

 萌江もえはそう応えると視線を外し、窓の外に降り続く雪へと顔を振った。

黒井くろいさんが嫉妬しっとするから遠慮しておくよ」

 満田みつたはそう返すと、カウンターの椅子に腰を降ろした。わざと萌江もえとの間に一つだけ椅子を開ける。他の客が来た場合に誤魔化ごまかしやすい。

 そして言葉を続けた。

「久しぶりに〝仕事〟を持ってきたんだが、まだ廃業してないだろうね」

「出来るものなら廃業もやぶさかでない…………」

 萌江もえはガラス越しの雪景色を見ながら呟いていた。

 満田みつたの言葉が続く。

「〝表〟のほうで付き合いのある人でね…………人気の下着メーカーの社長からだ。いつも通り〝訳あり〟。だからここに来た。話を聞いた上で受けるなら…………前金で一〇〇…………私がすでに受け取ってる。解決したなら残りは言い値で構わないそうだ。二人が断るとは思っていないがね」

 満田みつたは着たままのコートの内ポケットから分厚い封筒を取り出すと、萌江もえとの間のカウンターに置いた。

「私の取り分の一〇はすでに抜いた。話を聞くなら明日の一〇時にその会社の本社ビルにこの名刺を持って、来て欲しいと」

 満田みつたがカウンターに置いた二枚の名刺を手に取った萌江もえは、それを眺めながら返す。

随分ずいぶん根回ねまわしね…………こんな手の込んだことをしてまで?」

 名刺には聞いたことのある雑誌社の名前。誰かの物だとは思われるが、つまりはその人物のフリをして来てほしいとのこと。名前は二枚とも女性の名前。

 満田みつたがゆっくりと返した。

「依頼主の名前は橋田真梨子はしだまりこ────五五才。令和元年だから……二年くらい前に会社を設立してから急成長した下着メーカー〝トレス・ベル〟の社長だ。去年には自社ビルまで建てた。最大の功労者は夫の隆三りゅうぞう────六一才。広告代理店業界の中堅企業を経営してる。そして一人息子の圭一けいいち────二五才。去年の春に大学を卒業してから母親の立ち上げた会社で専務をやってる」

 それに返したのは萌江もえ

順風満帆じゅんぷうまんぱんだね…………そんな素敵な家庭の奥さんが言い値で心霊相談? 咲恵さきえ────今夜はブランデー」

 萌江もえは空のマグカップを差し出す。

 それを受け取りながら咲恵さきえが小さく返した。

「はーい」

 満田みつたの言葉が続く。

「問題はその息子だ。母親が言うには…………〝のろわれている〟と言うことらしい。高熱や目眩めまいで体調不良を起こしたのが一年以上前。病院に行っても原因は不明。お決まりの精神論だったそうだよ。で、現在は寝たきり状態。詳しくは教えてくれなかったが、母親が言うには〝おかしなこと〟を口走ることも多いと…………それを心霊現象と結び付けてるってことは、何か理由があるってことだ。そして、旦那にはくれぐれも秘密にしたいと…………」

 萌江もえの口元に軽く笑みが浮かんだ時、その目の前にブランデーのロックグラスが置かれた。振動で大きな氷が軽い音を響かせる。コーヒーの香りと入れ替わる、まるで空気よりも重そうなほどの濃厚なブランデーの香り。萌江もえはそんな香りが鼻の奥をくすぐる感覚が好きだった。

「明日の一〇時?」

 萌江もえは柔らかいブランデーの香りをのどに押し込んで続けた。

「私たちにはちょっと早いけど…………たまたま今夜はここに来たし…………」

 そして、咲恵さきえがそれに続ける。

「どうせ今夜は静かだよ。最後の掃除もすぐに終わるだろうし…………」

 すると、萌江もえはカウンターに置かれたままになっていた封筒を取り、自分の革製のサッチェルバッグにしまった。

 詳しい話を聞く前の時点で、話を受ける結論を見出せる。それは先を見ることの出来る萌江もえならでは。萌江もえがお金を受け取った時点で、それは〝依頼を受ける〟ということ。依頼を受ける未来が見えているということ。もちろん咲恵さきえもそれを理解していた。

 そして満田みつたが立ち上がる。

「本社ビルの場所は調べればすぐに分かるよ。それじゃ…………何かあったらいつもの番号に…………」

 それだけ言うと、満田みつたはカウンターの中の咲恵さきえに軽い笑顔を向け、店を出ていく。

 ドアが閉まる瞬間の鈴の音が、乾いた店内の空気を鎮めた。

 それから最初に口を開いたのは咲恵さきえだった。

「今夜、ホテルとかとってないんでしょ?」

 視線を外したままそう言う咲恵さきえに、ニヤニヤとしながら萌江もえが返していく。

「どうしよっかなあ」

「…………泊まってきなさいよ」

「珍しいねえ、咲恵さきえちゃん」

萌江もえが……舌なんか入れるから…………」

 そう応えながら、咲恵さきえの顔が少し紅潮しているのが、薄暗い店内でも分かった。





 大学を中退し、アルバイトで生計を立てながら、萌江もえは二二才になっていた。

 そんな生活の間に一人の男性と付き合ったが、三ヶ月も経たずに男の目的は萌江もえの体だけだったことが分かった。一度の浮気であっさりと萌江もえは見限っていた。


 ──…………やっぱり…………一人の方が楽でいい…………


 それほど失恋がキツいとは感じない。

 もっと落ち込むものと想像していたのに、この不思議な感覚はなんだろう。その男には悪いが、一度も体を重ねることで満足したことはなかった。なぜか一人でもしたいとは思わない。自分には性欲というものがないのかもしれないと思ったこともあったが、それで困ることもない。むしろ楽だった。

 他人と関わることは相変わらず得意ではない。

 いつも仕事から帰ると、一人でまだ慣れないお酒を飲んで寝るだけ。

 それでも、少しは何かを変えたい気持ちがあったのだろうか、仕事帰りにショットバーに通うようになる。様々な店に行って、自分に合う店を見つけようと思った。

 萌江もえにとってはちょっとした冒険心もあったのだろう。どうせ趣味と呼べるものもない。そんな人生でも、何か刺激を求めていたのだろう。

 いくつもの店で、何人もの男が声をかけてきた。

 いつも素っ気なくかわした。

 バーのカウンターで一人で呑んでる若い女に声をかける男は体だけが目当て。それは萌江もえの中で変わることはなかった。

 〝面白くもないこと〟に時間を割く気にはなれない。

 その夜も、萌江もえは行ったことのない店を探していた。その頃手に入れたばかりのスマートフォンの便利さを実感しながらお店探しをすることが最近の楽しみになっていた。

 やがて、レズビアンバーに辿り着く。


 ──……ここなら…………男が声をかけてくることはない…………


 その店は、レズビアンでなくても女性なら入ることが出来た。

 萌江もえは迷わずその店のドアを開けた。

 従業員も客も、どこを見ても女性ばかり。


 ──……みんな…………あれなのかな…………


「初めてですか?」

 カウンターに座って最初に声をかけてきたのは若いバーテンダーだった。

「え? あ……はい」

「大丈夫ですよ。別に怖いお店じゃないですから」

 そして急に顔を近付けてきたかと思うと、小声で続けた。

「ノーマルの女性もよく来ますから…………お客様は?」


 ──……いい匂い…………


 冷静を保たせながら、萌江もえが返す。

「私は…………そっちはまだ…………」


 ──そっちってなんだ?


 するとバーテンダーは体を起こして続ける。

「普通のバーだと思ってゆっくりしてってください。素敵なお客様は大歓迎ですから」

 そのバーテンダーの名前を聞いたのは、萌江もえがその店に通うようになって五回目。

 夏芽なつめ萌江もえより三つ年上の二五才。

 綺麗きれいなストレートの明るい髪。少し赤みがかった髪質が、夏芽なつめのキレのある涼しげな目によく似合っていた。

 仕事柄、萌江もえが店の扉を開けるのはいつも深夜の二時を回っていた。萌江もえのような夜型の人間には朝まで営業しているようなお店はありがたい。閉店時間は四時。

「お客さん、みんな帰っちゃいましたね」

 夏芽なつめはカウンターの中でグラスを拭きながらそんなことを呟いた。

 店内は静か。

 萌江もえもそれには気が付いていた。

 続く夏芽なつめの声が、なぜかその夜は萌江もえの気持ちに絡みつく。

「バイトもみんな帰っちゃった…………二人きりですね」

 なぜか、萌江もえの鼓動が早くなる。


 ──……私…………ドキドキしてる…………なんで?


「今日は早目に閉めちゃおっかなあ…………」

「じゃ…………私も…………」

 萌江もえが椅子から腰を浮かしかけ、ショートブーツが床を踏みしめた直後、その動きを夏芽なつめの声が止める。

「…………だめ」


 ──え?


 夏芽なつめはカウンターの中から出ると、萌江もえの横に立ち、萌江もえの手に自分の手を重ね、その耳元でささやいた。

「…………なんでそんなこと言うの……?」

 夏芽なつめの手が離れた。

 夏芽なつめは店のドアまで歩くと、二つある鍵を二箇所とも回す。そのドアはちょうど萌江もえの席の真後ろ。

 その背後からの音が、萌江もえの中の何かを刺激した。少しずつ近付いてくる夏芽なつめのローファーの足音が、まるで耳元でなっているような錯覚を覚える。

 やがて背後からのうような夏芽なつめの指が、首筋から萌江もえの気持ちに溶け込んだ。

 そしてなぜか、萌江もえに抵抗する感情はない。

 夏芽なつめ萌江もえの手に指を絡めると、萌江もえは自分が抵抗する力を失っていることに気付いた。


 ──……気持ちいい…………


 他人と唇を重ねることが、こんなに幸せを感じられることだと、その時初めて萌江もえは知った。

 全身がうずいた。

 どうなってもいいと思えた。

 総てを預けたいとさえ思えた。

 気付いた時には、萌江もえ夏芽なつめの部屋のベッドの上。

 体と意識の総てで、夏芽なつめを受け入れていた。


 ──……やっと…………分かった…………


 自然と、全身の感情が涙になってこぼれ落ちていく。





「初めてだった?」

 隣の夏芽なつめの声は優しい。

「……うん…………女性と、は…………?」

 少し気持ちが落ち着いたことで急に恥ずかしさが蘇ったのか、萌江もえはシーツからはみ出している夏芽なつめの首筋を見ただけで目を逸らしていた。


 ──……女同士で……あんなこと…………


 そんな萌江もえの気持ちに気が付いたのか、夏芽なつめ萌江もえの首筋に両腕を絡め、萌江もえの耳に舌を絡めた。

 そしてささやく。

「…………可愛かったよ…………」

 萌江もえの力が抜けていく。それでも懸命に夏芽なつめの体を抱き寄せ、唇を重ねる。

 嬉しかった。


 ──……このまま……ずっとこうしていたい…………


 それからも店には定期的に通ったが、プライベートで会うことのほうが増えていた。出来るだけ休みも合わせた。いつの間にか萌江もえ夏芽なつめの部屋にいる時間のほうが増えていた。

「前から聞こうと思ってたんだけど…………いい?」

 いつものベッドの上で、夏芽なつめ萌江もえの首筋に舌をわせながら、そんなことを聞いてきた。

 全身がしびれたまま、萌江もえが声を漏らす。

「……ん…………うん…………なに?」

「いつも首にぶら下げてるのって何?」

 そう言った夏芽なつめの舌が萌江もえの耳をなぞった。

 懸命に声を我慢する萌江もえは何も応えられないまま。

 そして夏芽なつめささやきが全身に溶ける。

「……我慢しないで…………声出してよ…………」

 それから数分後、やっと萌江もえは質問に応えた。

 完全に力が抜けたようになっているのに、なぜかまだ夏芽なつめを求めていた。


 ──……夏芽なつめおぼれちゃうな…………


「……水晶だよ…………」

 その萌江もえの声に、寄り添いながら優しく萌江もえの髪を触る夏芽なつめが返した。

「……そうなんだ。萌江もえってあんまりアクセサリー身に付けないから…………珍しいよね。大切な物なの?」

「大切?」

「だって、いつも首に下げてるから…………ベッドの上では外してくれるから助かるけど…………」

「うん…………首…………舐められるの好きだから…………」

 そう応えて、萌江もえは顔を隠すように横に向けた。その頬に夏芽なつめが自分の頬を寄せる。


 ──……どうして……私はいつもあの水晶を持ち歩いてるんだろう…………


 自分でも分からなかった。

 それでも、そうしなければいけないような、そんな気がいつもしていた。

 そこに、夏芽なつめの声が聞こえた。

萌江もえって、もしかして、霊感とかある人?」

「え? まさか……ないよそんなの」

「霊感ある人って、よく水晶持ってたりするみたいだから…………お店のお客さんでもいるし」

「そうなんだ…………」

 あまり考えたことはなかった。

 両親からも聞いたことはない。


 ──…………あれ?


 なぜか両親のことを思い出し、同時に昔の微かな記憶。

 萌江もえの中に、イメージが湧き出した。


 ──……よく、神社に連れて行かれた…………

 ──……どうして…………?


 全身に鳥肌が立つ。


 ──……忘れてた…………


 無意識に上半身を起こしていた。

「どうしたの?」

 夏芽なつめ萌江もえの腕に触れる。

 電気が走ったように、萌江もえ夏芽なつめの手を振り解いていた。

 驚きながら、夏芽なつめ萌江もえの背中を見つめる。

 振り返った萌江もえの目は、いつもの目ではなかった。

 夏芽なつめ驚愕きょうがくの表情に、萌江もえ咄嗟とっさにベッドを降りると、ベッド脇の水晶を掴む。


 ──……熱い…………これは…………なに?


「ごめん……今日は…………帰るね」

 慌てて服を着る萌江もえ夏芽なつめに背中を向けたまま。

 頭に浮かぶ夏芽なつめの目が怖かった。

 せっかく合わせた休日。いつもなら一緒に朝を迎えるはずなのに、萌江もえは慌てたように夏芽なつめの部屋を飛び出す。

 想像通りの、夏芽なつめの自分を恐れたような目が怖かった。


 ──……私は…………普通じゃない…………

 ──……だから…………みんな死んだんだ…………


 見たことのない両親。


 ──……どうして?

 ──……どうして私の首を絞めてるの?

 ──…………どうして…………駅のホームで…………


 うだるような、熱い夏の夜だった。





 翌日、夏芽なつめのいるバーに立ち寄ると、夏芽なつめはいつもと変わらずに迎え入れてくれた。

 それにホッとしながらも、萌江もえはどこかそれが悲しかった。

 やがて閉店時間が近付き、店内は二人だけ。

 いつものことなのに、萌江もえの気持ちは落ち着かない。

 最初に静寂を破ったのは夏芽なつめだった。

「昨日はどうしちゃったの? ごめん……何か気にさわったなら────」

「違うの。ごめん。私が悪いの…………ねえ夏芽なつめ、ちょっとてのひら出してもらえる?」

 その萌江もえの言葉に、不思議そうに夏芽なつめは右手を差し出す。

 萌江もえの好きだった夏芽なつめの手。

 やわらかく、しなやかな夏芽なつめの指。

 夏芽なつめの指に自分の指を絡めただけで、総てを任せようとさえ思えた。

 萌江もえは首の後ろに両手を回し、ネックレスを外すと、そのままぶら下げた水晶を夏芽なつめてのひらに近付ける。

「────痛っ!」

 夏芽なつめが慌てて手を引く。

「何よ⁉︎ 電気⁉︎」

 その夏芽なつめの目は、昨夜と同じ目。


 ──……やっぱり…………


 萌江もえの目から、いつの間にか涙が流れていた。

 それに驚く夏芽なつめに、萌江もえは語り始めた。

「ごめん…………私は普通の人間じゃなかった…………忘れてたの…………思い出さなきゃよかった…………」

「普通じゃないって……何言ってるのよ⁉︎」

「……いつか…………必ずあなたを傷付ける…………」

「だから何を────」

「産みの親も……育ての親も…………もう五人死んでる…………みんな……自殺…………」

「……そんな…………」

「ごめんね…………もう来れない…………」

 萌江もえは立ち上がると、夏芽なつめに背を向けた。ショートブーツの足音が、なぜか甲高い。

 左手に握った水晶が熱かった。

 そして、背中に夏芽なつめの声が突き刺さる。

「やめてよ……なに言ってるの…………やだよ…………やだよ! 萌江もえ!」

「…………お願い…………いい人見つけてね…………」

 震える声で、そう言うのが精一杯だった。


 ──思い出さなければよかった…………

 ──……でも……知ったから…………夏芽なつめの命は守られた…………


 そして、萌江もえは水晶を封印した。





 それからはアルバイトを点々とする日々。

 二四才の時、同じ飲食店で働いていた男性と結婚する。

 夫の実家との付き合いも、人付き合いの苦手な萌江もえにしては上手くこなしていた。

 夏芽なつめとの過去を振り切れないままに、何かを誤魔化ごまかしている自分に嘘をついたまま。

 結婚して二年で家を新築で建てた。街中からは少し郊外。決して広い敷地でもないし、取り立てて大きな家でもない。それでも未来は明るく見えた。

 それでいいと、思い続けた。

 一階は広いリビングに広いキッチン、客間とお風呂場。二階は夫婦の寝室と子供部屋を二つ。お互いに子供が二人欲しいと話していたからだ。

 夫は優しかった。

 家の支払いのために真剣に働いてくれていたのが萌江もえにも分かった。

 夫は調理師。いつかは二人でお店を開きたいと話し合っていた。

 萌江もえも定食屋でパートをしながら、更に二年が過ぎた。

 萌江もえに妊娠の兆候は全く見られない。夫の実家に促されるように夫婦で総合病院の産婦人科へ。検査は決して楽しいものではなかったが、子供のためと思いながら耐えるしかなかった。

 夫と二人分の検査のためか、結果が出るまで数日かかるという。

 病院から自宅までは車で三〇分ほど。

 ちょうど大きな幹線道路に繋がる交差点だった。

 夫の運転する車。萌江もえは助手席。

 片側一車線の道路から幹線道路に右折しようと赤信号で右折用の車線に。

 すると左側には直進車か左折車だけ。

 赤信号。

 横断歩道の手前で車は停まっていた。

 ちょうど萌江もえの助手席から、左側に泊まっている車の後部座席が見えた。

 古いタイプのステーションワゴン。社用車などで使われている型。だいぶ停止線から前に出ていることが萌江もえからでも分かった。

 荷台部分には段ボールが押し込められているのが見えたが、後部座席のシートにはなぜか男の子。何才くらいだろうか。


 ──一〇才くらい?


 萌江もえがそう思いながら何気なく男の子を見ていると、その子も萌江もえに気が付いて窓まで近付いてきた。


 ──……可愛い…………こんな男の子が欲しいなあ…………


 男の子は、萌江もえに手を振る。

 萌江もえは自然と笑顔になり、反射的に手を振り返す。


 ──……表情がない…………


 そう思った直後、信号が青に変わった。

 こっちは右折車線。対向車線の直進車がいるために交差点の中央付近で一時停止。

 左の車は直進だった。

「誰か乗ってたの? 手なんか振って」

 そんな夫の言葉に、冷静を装いながら萌江もえは応えていた。

「…………うん…………ちっちゃい男の子…………」


 ──……あの子…………生きてない…………


 数日後の検査結果は萌江もえの〝排卵はんらん障害〟。

 卵巣らんそう機能が極端に低下したことによる早発卵巣不全そうはつらんそうふぜん

 排卵はいらんがされていなかった。

 先天的な可能性もあるが、長期間の過度なストレスも原因として挙げられた。

 そして、再び萌江もえは過去を思い出す。

 無理をして笑顔を作ろうとしても、やはりそれは簡単なことではなかった。

 治療をすることで改善の可能性はゼロではない。しかしそれには膨大なお金が必要だった。体外受精も含め、様々な説明を受けたが、少なくとも現在の萌江もえに妊娠の可能性はない。

 二階の子供用の部屋を見るたびに、むなしさしか浮かばない。


 ──……そっか……だから…………最後に顔を見せてくれたの…………?


 あの男の子の顔を思い出す。

 込み上げる涙を抑えることが出来なかった。


 ──……どうしたらいいの…………


 やがて、夫の実家の態度が変化してきたことに気が付いた。

 あんなに上手くこなしていたと感じていたのに、今はそう感じられない。自分の思い過ごしだと思いたかったが、夫から離婚を申し出された時点でそれは確定的だった。

 そして、萌江もえは受け入れた。

 解放されたかった。

 家は夫名義だったが、売却するとのこと。

 これから、この家で別の家族が暮らしていく光景が萌江もえには見えていた。子供部屋もあるから家族にはちょうどいいだろう。

 萌江もえは二九才。それまで正社員で働いたことがない。安いアパートを見付けるしかなかった。

 経験を生かして居酒屋のバイトをしながら三〇才。言い寄ってくる男はいたが、もう誰とも付き合う気はなかった。

 一人で生きようと決めた。


 ──……私は自分の遺伝子を残せないまま、一人で死ぬんだ…………


 新しく見付けたのはショットバーでの仕事だった。

 決して堅い店ではないが、若者が騒ぐような店でもない。居酒屋よりも萌江もえにはちょうど良かったのかもしれない。

 営業は朝の五時まで。深夜を過ぎると夜の仕事を終えた女性たちが来店するような店だった。そんな女性たちの人生相談を受けながらの仕事は楽しかった。不思議と客からの受けもいい。サバサバとしたところがいいと言われたが、萌江もえ自身は自覚がなかった。


 ──……他人からは、そう見えるんだ…………


 おかしなものだと思った。

 萌江もえ自身としてはただ割り切っていただけ。一人で生きていくことを覚悟し、しかも守るものは何もない。世界にいるのは自分だけ。好きに生きればいい。正直、他人に興味は無かった。

 戸籍上の親戚はいたが、元々が養子の身。育ての両親がいなくなってからは、親戚の誰とも会っていなばかりか連絡すら取っていない。自分に命を繋いでくれた存在もすでにいなければ、新たに命を繋ぐこともない。

 そんな人生。

 その夜、深夜二時を回った頃に来店したのはスナックのお姉さんらしい感じの二人。大体雰囲気で分かる。若い女の子数人だとキャバクラの可能性も高いが、言葉で説明の出来ない雰囲気のようなものとしか言いようがない。

 一人はだいぶ酔った印象だった。そこそこの年齢に見えるのでたぶん店のママさんだろう。もう一人は困ったようにママさんの愚痴を聞かされている店の女の子、といった感じだろうか。

 女の子と言っても、おそらくは萌江もえと同じくらい。

 背中までの僅かにカールした髪が美しい。


 ──……大人っぽい人だな…………きれいな顔…………


 萌江もえの首に下げた水晶が暖かい。

 熱くはない。

 〝暖かかった〟。

 これが、黒井咲恵くろいさきえとの出会いだった。





          「かなざくらの古屋敷」

      〜 第二部「冬桜ふゆざくらのうたかた」第2話(完全版)へつづく 〜

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