第一部「妖艶の宴」第3話(完全版)(第一部最終話)

 萌江もえは養護施設で育った。

 物心がついた頃には、すでに両親はいない。

 しかも、誰もそのことを説明しようとはしないし、そもそも萌江もえ自身が覚えているはずもない。そこで生活することが当たり前。

 施設しか知らない。

 まだ幼い萌江もえにとっては、その養護施設だけが世界の総て。

 そしてそんな五才の萌江もえを養子としたのは、恵元誠一えもとせいいち美幸みゆきの夫婦だった。二人は子宝に恵まれないまま三年間不妊治療を続けたが、経済的に厳しくなったことで諦めていた。これまで使った金額だけでも決して安くはない。これからのことを考えての決断だった。そして養子を求めて調べ、やがて萌江もえのいる養護施設に辿り着いた。

 二人はいくつかの施設を渡り歩くように巡っていたが、萌江もえは初めて会った時から気に入った子の一人だった。

 当然施設側としても萌江もえの過去を説明することも一つの義務であり、どんな過去を持っているのか、それは夫婦としてもある程度の覚悟はしていた。しかし萌江もえに関しては予想の範囲を超える。それでも、それゆえに感情移入したのも事実。同時に性格形成に難がある可能性も施設側からは提示された。

 やはり多くの夫婦と同じく、そこに不安はある。

 しかし、萌江もえの表情は夫婦の気持ちを溶かしていった。

 例え記憶が無いとはいえ、暗い過去を感じさせない明るさとその笑顔に、いつしか二人には萌江もえしか見えなくなっていた。数回の面接をて正式に手続きを済ませ、萌江もえは正式に恵元えもと家の家族となる。

 二人が真剣に考えた結果だった。

 環境の変化に最初は戸惑いを見せていた萌江もえも、自然と二人を受け入れていった。

 来年には小学校に通う歳。二人ともその準備が楽しくて仕方がない。

 萌江もえのために時間を使った。

 萌江もえのためにお金を使った。

 萌江もえのために働いた。

 萌江もえのために二人は生きていた。

 二人の間で、萌江もえを中心に生活が回っていた。

 小学校に通い始めた萌江もえは、成績も決して悪くはない。

 友達も出来た。

 萌江もえの毎日の笑顔から、イジメとも無縁に見える。

 家の中は常に明るかった。

 明るい未来しか見えない。

 小学校二年の夏。

 夏休みがもうすぐ始まろうかという頃だった。

「ただいまー!」

 いつもの萌江もえの元気な声に、もちろん美幸みゆきは台所で自然と笑顔になる。

 今日も無事に帰ってきてくれた安堵感あんどかんで玄関に出てみると、すぐにランドセルを背負ったままの萌江もえが飛びついてきた。残念ながら靴を揃えることはいまだ覚えられていない。

「友達連れてきたよ、お母さん」

 そう言いながら美幸みゆきを見上げる萌江もえは満面の笑み。

「友達?」

「うん。ゆずちゃん」

「ゆずちゃん?」


 ──……どこ?


「ドールハウス見せる約束したんだ。いい?」

「ん……うん。いいよ…………でも……」

「入っていいって、ゆずちゃん」

 萌江もえが振り返った先で、玄関の扉がゆっくりと、静かに閉じた。


 ──…………え?


「じゃ、部屋に行くね」

 萌江もえは階段を登りかけて続ける。

「お母さん、わたしオレンジジュース! ゆずちゃんは?」

 背後に語りかけている。

「ゆずちゃんもオレンジジュースでいいって! いこ!」

 萌江もえは階段を駆け上がる。

 美幸みゆき呆然ぼうぜんとその姿を追っていた。

 二階からドアを開ける音。続く萌江もえの声。

「どうぞ」


 ──…………なに……?


「イマジナリーフレンドってやつじゃないのかな?」

 萌江もえが眠りについてから、夜とは言ってもまだ一〇時くらいだろうか。

 リビングのソファーで食後のウィスキーの水割りをいつも通りに飲んでいる誠一せいいちが、美幸みゆきからの話を聞いてそれに応えていた。

「最近聞くようになった言葉だから俺もそんなに詳しくないけど、子供は空想上の友達を作るらしいんだ」

「でも…………」

 隣で湯気の上がる紅茶のマグカップを口に運びながら、そう言った美幸みゆきが続けた。

萌江もえは友達だってたくさんいるし……何もそんなもの必要ないでしょ」

「どういう理由で友達を想像するのか……そこまでは分からないからなあ」

「なんだか……幽霊でも見てるんじゃないかと思って…………」

「まさか」

 そう言って誠一せいいちは軽く笑った。

「ホントだってば……結構怖かったんだよ。子供の頃って見やすいって言うし……一応オレンジジュースは二つ持ってったけど…………」

「二つとも飲んでた?」

「うん…………だから益々怖くて」

萌江もえがどっちも飲んだだけだよ。帰りはどうだった?」

「帰り?」

「うん。まさか幽霊が律儀にドア開けて帰ったとも思えないし」

「お見送りまではしなかったけど、萌江もえが〝またね〟って言って…………ドアの音がした…………」

「まさか」

「聞いた。私、聞いてる……」

萌江もえが開けたんじゃないのか?」

「ああ……そっか」

「考えすぎちゃダメだよ。あんまり頻繁にその〝ゆずちゃん〟が来るなら、萌江もえにどこの子なのか聞いてみたらいいよ」

「うん…………そうだね…………」

 翌日、萌江もえは再び〝ゆずちゃん〟を連れてきた。

 その翌日も。

 そして美幸みゆき萌江もえに質問する。

萌江もえちゃん、ゆずちゃんって……おうちどこなのかな……お母さんもご挨拶に行きたいから…………」

 すると萌江もえはすぐに応えた。

「あ、そうだよね。ごめんなさい。聞いてみるね」

 萌江もえはいつものように背後に振り返る。

「ゆずちゃんのおうちってどこなの? …………そうなんだ…………そっか…………」

 そして萌江もえ美幸みゆきに顔を戻して続ける。

「ゆずちゃんってね、おうちに帰れなくなっちゃったんだって。今はちがうおうちみたい」

「そ……そう…………あ、ごめんね……上がってもらって」


 ──……どういうこと?


 次の日曜日、三人は駅のホームにいた。

 夏休みに入り、ゆずちゃんもしばらく来ていない。

 今日はお盆休み三日目。誠一せいいちの実家に向かう新幹線に乗るため、まずはローカル線で大きな駅に向かう。ローカル線の駅のホームと言っても季節柄もあってか利用客は多い。

 誠一せいいち美幸みゆきも他の帰省客の例に漏れず、滅多に使うことのないボストンバッグを持ち、萌江もえは体のサイズに不釣り合いな大き目のリュックを背負っていた。

 夏の暑さに立っているだけで疲労の溢れる湿度が辺りの空気を埋め尽くしていた。

 毎年の事と諦める誠一せいいちの前で、萌江もえだけは元気なまま。小さな手で大きなペットボトルを持ち、汗を首筋に滲ませながらジュースを飲む姿も、そんなことですら、やはり二人には微笑ましい。

 その度に二人は、萌江もえのいる幸せを感じていた。

 やがてホームにアナウンスが流れ、美幸みゆきひざを曲げて萌江もえに顔を向けた。

「もうすぐ電車来るから前に出ちゃだめよ。危ないからね」

「うん!」

 そう応えた萌江もえは、突然、ホームの端に顔を向ける。

 そして口を開いた。

「だめだよ。前にでたらあぶないよ…………──だめ‼︎」


 ──…………え?


 美幸みゆきがそう思って目を向けるが、誰も線をはみ出している人影は見えない。しかも帰省客でごった返すホーム。そもそも遠くなど見えるはずがない。

 誠一せいいちも、何気に首を伸ばして視線を配っていた。

 数十秒後、三人の目の前に電車がやってくる寸前。

 人影が線路の上で浮かんでいた。

 反射的に美幸みゆき萌江もえの体を包む。その二人の体を誠一せいいちが包む。

 甲高い衝突音と共に複数の悲鳴。

 パニックが起きた。


 ──……大丈夫…………萌江もえには見えてない…………


 震えながらそう思った美幸みゆきの体を包む誠一せいいちも、同じことを思っていた。

 しかし、萌江もえには見えていた。

 誰よりも早く。

 人影が浮くより早く。


 ──…………まさか…………見えてたの…………?


 美幸みゆきのその考えが頭から離れないまま、帰省は急遽キャンセルされた。

 体を震わせながら落ち着かない萌江もえを落ち着かせるために、二人は同じ布団で萌江もえの体をさすり続け、美幸みゆきは恐怖で込み上げてくるものを懸命に抑えていた。

 それから数時間、二人にはかなり長く感じたが、疲れ果てたのか萌江もえはやっと眠りにつく。

 リビングの時計を見ると夜の九時を回っていた。誠一せいいちは改めて実家に電話をして事情を説明する。

 それから急にやってきた疲れに、誠一せいいちはソファーに深く体を沈めていた。

 そこに、やはり疲れた表情の美幸みゆきがやってきて口を開く。

「もう大丈夫だと思う…………寝息が聞こえたから…………」

「ごめん……疲れたよね。実家からも萌江もえのことを心配されたよ…………何か飲む?」

 誠一せいいちは立ち上がると冷蔵庫に向かう。

 そこに美幸みゆきの声。

「神社でいいのかな…………」

「え?」

 冷蔵庫の取っ手に指をかけたまま、誠一せいいち美幸みゆきに顔を向ける。

 その美幸みゆきが続けた。

「お寺? 分かんないよ…………どこに連れて行けばいいの⁉︎」

「落ち着こう美幸みゆき

 誠一せいいち美幸みゆきに歩み寄り、肩に手を回し、その体を抱き寄せる。その腕の中で美幸みゆきの震える声が続いた。

「あの子…………おかしいよ…………普通じゃないよ……私たちより早くあの子は見てた…………」

「そんなことないよ……萌江もえは────」

「最近変なこと言い出すの…………遠くを見るような目で…………大丈夫だよ…………もうすぐ出れるから…………もうすぐだよ…………って…………怖いよ…………」

 翌日から、二人は神社やお寺でおはらいをしてくれる所を調べ始めた。幸いにもお盆休みはまだある。

 萌江もえもまるで何事もなかったかのように元気になってはいたが、駅の一件以来、なぜか深夜の夢遊病のような徘徊はいかいが続いた。もちろん家の施錠せじょうはしていたが、二人の睡眠時間は日に日に擦り減っていった。

 やっと見付けた神社で説明をし、おはらいをお願いした。

 それでも何も変わらない。

 見えない友達と会話をし、不思議な言動を繰り返し、深夜に家中を徘徊はいかいする。玄関や窓の鍵を開けて外に出ようとし始めたため、二人は交代で見張るしかなかった。

 休日の度に神社やお寺を回る。

 遠くても足を運んだ。

 へびいていると言われた。

 餓鬼がきいていると言われた。

 落武者おちむしゃいていると言われた。

 おはらいと交通費と宿泊代。

 生活は困窮こんきゅうし始めた。

 平日の日中は家には美幸みゆきだけ。

 おかしな言動で学校で騒ぎになったこともあった。汚い言葉でクラスメートをののしり始めたという。しかも一度ではない。その度に美幸みゆきが学校に呼び出される。

 とても萌江もえの声には聞こえなかったと学校の先生から聞かされ、いつの間にか美幸みゆき萌江もえに恐怖に近いものを感じ始めた。

 そして美幸みゆきが気が付いた時には、いつの頃からか、萌江もえから笑顔が消えていた。

 気が付くと、目付きまでも鋭く見えた。

 学校でも孤立し、やがて激しいイジメが始まる。

 それでも小学校を卒業したが、中学校に通うようになっても状況は変わらない。相変わらずの神社通い。

 そのまま三年。イジメが続く。

 高校は少し離れた所を選んだ。

 少しは落ち着いたかに見えた。

 萌江もえも新しいクラスメートの中でイジメから解放され、少しずつ笑顔も戻る。

 そんな頃、買い物から帰った美幸みゆきの目に飛び込んできたのは、学校の制服のまま、トイレの扉の前で立ち尽くす萌江もえの姿だった。

「どうしたの? 萌江もえちゃ────」

 美幸みゆきは言葉を飲み込んでいた。

 萌江もえはトイレの扉に向かってブツブツと何かをしゃべっている。

 震える足のまま近付いた美幸みゆきの耳に、しだいにその声が届いてきた。

「うん…………そう…………そうだよ…………ああ、そうなんだ…………大変だよね…………私が何かしてあげられたらいいんだけど…………ごめんね…………ゆずちゃん」

 美幸みゆきは叫んでいた。

 萌江もえの体を抱きしめる。いつの間にか声を上げて泣き叫んでいた。

 その時、萌江もえの体は、なぜか冷たかった。

 それでも、なんとか無事に高校には通い続けていた。恐怖に震えることは何度かあったが、その頻度は確実に減っていく。

 決して多くはなかったが、萌江もえにも友達はいた。少しずつ日常と呼べる日が増えていく。

 それでも神社通いは定期的に行われた。

 しかしその度に家計は擦り減っていく。

 三年生の夏、二人は萌江もえに大学を勧めた。学費は大変だったが、萌江もえに真っ当な学生生活を送って欲しかった。その時間を楽しんで欲しかった。

 唯一合格できたのは他県の大学。家から離れて一人暮らし。二人にも不安はあったが、環境の変化も必要かもしれないと判断する。

 もしかしたら、二人も、少し解放されたかったのかもしれない。

 そして大学二年。

 無事に成人式を終え、萌江もえも二〇才になっていた。

 そんなある日、誠一せいいちの実家から萌江もえの携帯電話に連絡が入る。

 それは、誠一せいいち美幸みゆきの自殺を知らせる電話だった。





 開店前。

 すでに店の壁の一面を覆う大きなガラスから入ってくるのは街の灯りだけ。今夜は月明かりも薄い。

「それで、萌江もえさんを置いて帰ってきたんですか?」

 カウンターに座り、マグカップのコーヒーを見降ろす咲恵さきえに、由紀ゆきはそう言って食いついていた。

 いつもの咲恵さきえの席。

 その隣はいつもの萌江もえの席。

 視線の端にその存在を感じながら、辿々しく咲恵さきえが返した。

「う、うん…………まあ」

 そのオドオドとした自分の態度に、自らの判断が間違っていた事実が少しずつ湧き上がる。

 そんな咲恵さきえの感情を感じ取ったのか、由紀ゆきはカウンターの中から見降ろすようにしながら声を張り上げていた。

「店は私以外にもいます。今すぐ萌江もえさんの所に戻ってください。水曜日です。それほど忙しくはなりません」

「いや…………でも由紀ゆきちゃん」

咲恵さきえさんが行かないなら私が行きます。住所を教えてください」

 そう言っててのひらを差し出す由紀ゆきを前に、立ち上がった咲恵さきえが応える。

「分かった。ごめん。行ってくる」


 ──…………また、私は逃げたんだ…………

 ──……ごめん、萌江もえ…………もう逃げないって決めたのに…………





「お願いです…………その人形に触ることは…………固く止められています…………」

 山道を和服のまま走ってきたのか、息を切らせた裕子ゆうこは畳に完全に座り込んでいた。

 その裕子ゆうこに体を向けると、萌江もえはゆっくりと口を開く。

「イトさんの指示?」

「…………はい」

「誰かが着けてきてるのは気付いてた。私の後でこの別邸に入ってきたこともね。使用人にやらせずにわざわざ裕子ゆうこさんが来たってことは、よほどこの人形を見られたくなかったってこと?」

「〝のろわれた人形〟です……使用人も知りません……触ると気が触れて…………やがて死んでしまうと…………」

「笑わせないで。この人形はのろわれてなんかいない。のろわれてるのは…………」

 萌江もえ裕子ゆうこに背中を向けると、仏壇の扉に手をかけ、続ける。

「…………あなたたちだ…………」

 そして続けて小さく呟く。

「ごめんね」

 萌江もえは仏壇の中の人形の顔を確かめるように扉を閉め、その仏壇ごと両手で持ち上げた。

 決して大きな物ではない。小ぶりなサイズだ。それでも重さはそれなりにある。

「結構重いね」

「ま、待って下さい! なんてことを…………」

「この家の人に言われたくないよ…………でも、裕子ゆうこさんの動揺はそれだけじゃなさそうだね…………浩一こういちさんが養子って……あなたもさっき知ったんでしょ? こっそり聞いてたみたいだけど、分かってたよ…………」

 裕子ゆうこは目を伏せる。

 しかしその動揺は隠せていなかった。

「はっきりさせなきゃいけないことが……まだまだあるみたい…………さ、行くよ」

 萌江もえは仏壇を、まるで子供を抱くように両手で抱えた。すると、その裏にあったのか何かが落ちる。

 それは青いゴム手袋。しかも半分以上が裏返しにされたまま。

 それを見た裕子ゆうこが驚いた表情になったのを、萌江もえは見逃さなかった。


 ──……なるほどね…………


 萌江もえ裕子ゆうこを無視し、そのまま部屋から廊下へ。

 後ろをついてくるだけの裕子ゆうこには構わず、萌江もえは仏壇に語りかけていた。

「大丈夫だよ…………もう少しだからね…………もう少しだけ…………」

 やがて、本邸に戻った萌江もえは、仏壇を見て恐れおののく使用人には構わず、昼間にイトから話を聞いていた和室へ。

 数名の使用人が萌江もえの奇行に後ろを追い掛けるしかなかった。

 あちこちがざわつく中、萌江もえが音を立ててふすまを開ける。

 イトはまるで萌江もえが戻ることを察していたかのように、いまだそこに座ったまま。

 あたふたと慌てる背後の使用人を無視し、萌江もえはイトの目の前へ足音を響かせ、その目の前に仏壇を立てて置くと、迷わず口を開いた。

華平太かへいたが買った人形ね。ゴム手袋をしないと触れない人形ってどういうこと?」

 イトはあくまで冷静なまま。

 そして小さく呟く。

「…………おやおや…………これはこれは…………」

 僅かに気持ちの揺らぎはあった。

 それは萌江もえも感じた。

 しかし同時に、どこかあきらめのような印象を感じたのも事実。


 ──…………崩す……繋げてみせる…………


 そう思った萌江もえが叫んでいた。

「────〝ユズ〟はどこ⁉︎ どこなの⁉︎ 教えなさい‼︎」

 その声に、まるで時間が止まったような空気が流れた。

 張り詰める。

 それを崩したのはイト。

「…………その名前…………どちらで…………」

「ここまで知られたくはなかった? 舐めないでよ。私は99.9%幽霊も呪いも信じてはいない────だからこそ辿り着ける真実がある」

 そして、イトはゆっくりと語り出した。

「……この人形を買ったのは……確かに五代目の華平太かへいた…………そして、骨董屋こっとうやにお金を積んでまで売り付けさせたのは…………遊女ゆうじょだったウタの姉…………カヤです」

「……姉…………」

「警察にも裏切られ、妹の恨みを晴らすためにはのろい殺すしかないと思ったのでしょう…………」

「これをのろいの人形にしたのは、あんたたちでしょ…………」

 しだいに小さくなった萌江もえの声に、応えるイトの言葉は、もはや力強い。

「いかにも…………この人形に込められたものはのろいではありません…………アヘンです」

「だからゴム手袋…………」

「あの時代、どんなに法律で禁止されていても、アヘンを手に入れることは難しくはなかったと聞いております…………そういう時代だったのでしょう…………人形の着物に染み込んだアヘンは華平太かへいたの気を狂わせて殺した…………」

「でも……重蔵じゅうぞうは?」

「さて……人形に触れていたのかどうか…………それでも、ウタの亡霊がのろい殺しましたよ」

 イトの口が大きく開く。

 口角が大きく上がっていた。

 き上がる優越感ゆうえつかんか、何かを覚悟したのか、それまで萌江もえに見せたことのないその表情は、萌江もえの中の何かを刺激するには充分だった。

のろい?」

 そう返すと同時に一層目を鋭くした萌江もえが続ける。

「笑わせないでよ。罪悪感で幻を見て気が触れただけって言えばそれまででしょ。それともまさか…………」

 すると、更にイトの口角が上がった。

 もはや笑い声にすら聞こえるその声が、萌江もえの耳に絡みつく。

遊郭ゆうかくでウタをしたっていた使用人が数名…………ここの使用人になって潜り込んでましてな…………総ては復讐のため…………遊郭ゆうかくが、警察では晴らせぬ恨みをのろいとするためにカヤと手を組んだ…………そして刺客しかくを送り込む…………」

「……遊郭ゆうかくまで…………」

「あんな誘拐など、時代がいつであろうと許されるものではありませんでしょう…………庶民には庶民ののろい方がある…………のろいも亡霊も、それを必要とする人間が生み出すものですよ…………」


 ──…………狂ってる…………


 反射的にそう思った萌江もえは、やっと言葉を絞り出した。

「……麻薬の生み出した幻覚だったってこと……? そこまでして…………」

「そこまで? 今とは家族の有り様の違う時代…………大切な……血の繋がった家族を無下むげうばわれた…………家のためにその身を遊郭ゆうかくささげた妹がうばわれた…………カヤはその復讐をしたまで……」

 しだいに低くなったイトの声に、萌江もえも複雑な感情はあった。


 ──…………家族…………


 それでも何かを振り払うかのように素早く返した。

「同情はしない…………あなたがさっき言った通り、のろいは人が作るものだ…………だからこそ……でも、それにはかなりの覚悟がいるはず…………あなたは一体…………何者?」

 イトの顔が上がる。

 老婆とは思えないほどの強い目が、次の言葉を告げる。

「私は……カヤの孫です…………」

「どうして────」

「…………多一郎たいちろうは当主をいだ……まだ終わっていなかった…………だから私が嫁いだのです…………私がのろいを完成させて田上たうえ家の血を終わらせるために…………」

 すごみすら感じさせるイトの声が、少し間を空けて続く。

「……終わった……はずでした…………」

 そう繋げるイトの背後から、大きな泣き声。

 ふすまに寄りかかる裕子ゆうこが泣き崩れていた。

 イトの言葉が続く。

「アヘンと言えども風化いたします…………効力が弱まっていると判断した私は、人形の着物の端を小さく切ってせんじました…………それを事あるごとに滋養じように良いからとお茶に混ぜました。二人の娘をあやめたのも私です。のろいを作り出し、多一郎たいちろうあざむいてやりました」

「……自分の…………娘まで…………そんな覚悟って…………」

 萌江もえは左手の水晶を握りしめていた。水晶は依然熱いまま。火傷やけどでもしそうな温度。

「着物を切る時に、私はあるものを見つけてしまったのですよ…………」

 イトはそう言うと、仏壇の扉を開けた。

 そして、そのまま手を伸ばす。

「お母様!」

 背後からの裕子の声も虚しく、イトは人形を素手で取り出した。

 両腕で抱き締めると、まるで自分の子供をでるかのように髪を撫でる。

 そしてそでの所を小さくまくって見せた。

 そこには手書きの文字。


   『 明治四十四年七月三日 誕 ユズ  カヤ 』


「この人形の着物は…………私の祖母のカヤが、ユズの三才の誕生日に送ろうと思っていた着物…………」

 イトはゆっくりと人形を仏壇に戻していく。

 その光景に、萌江もえが声をらしていた。

「…………ユズって…………」


 ──……まさか…………


遊女ゆうじょ…………ウタの娘…………」

「…………娘…………」

 呟くように言葉を発した萌江もえは、いつの間にかその場に座り込んでいた。

「ウタと共に重蔵じゅうぞうに誘拐されました……父親までは私も聞いておりませんが、定期的な病院への検診に行く時に誘拐されたと思われます……おそらくはすぐに亡くなったのでしょう…………確かではございませんが、その時期は三才の誕生日よりも前…………二才で亡くなったと思われます…………この着物には、カヤだけでなく、ウタとユズのうらみも込められていたのでしょうな」

「…………この家は…………腐ってる…………」

 萌江もえのその声は、僅かに震えていた。


 ──…………ゆず………………


「確かに…………多一郎たいちろうが死んで、田上たうえ家の血筋はえました…………私たちの復讐は終わったのです。それなのに……どういうことか…………養子である浩一さんの娘までも二才でなくなり、浩一さんもあの通り…………この人形も、裕子ゆうこさんに掃除してもらう時以外は封印していたのですけれど…………自分の娘まであやめた罰ですかな…………のろいの代償か…………」

「お母様…………」

 裕子ゆうこの静かな声が続いた。

「……私です…………私が浩一こういちさんと娘に…………着物をせんじて飲ませました…………浩一こういちさんは血が繋がっているとばかり…………」

 イトの妖艶ようえんな目が、ゆっくりと見開かれていく。

 何かを言いかけたのか、その小さな唇が僅かに動いた。

 しかし続くのは裕子ゆうこの声。

「お母様が……ゴム手袋をして着物をせんじているのを見ました……そして決して触ることが許されなかったので……それで怪しく思って調べました…………」

 返すのは、呟くような萌江もえの声。

「…………あなた…………誰なの?」

 その萌江もえの問いに、裕子ゆうこがゆっくりと返していく。

「……重蔵じゅうぞうの妻に殺された…………めかけの孫です……祖母はまだ幼い母を残して強引にめかけにされたと聞いています…………」

 もはや、萌江もえは何も返せなかった。

 それは、分かりやすいほどに複雑に絡み合ううらみの連鎖。

 震えた声の裕子ゆうこが続ける。

「お母様が、のろいだからおはらいがしたいと申された時、私は形だけのおはらいをする人を見つけようと思っていました……まさか…………こうなると分かっていたら…………」

 背後からの裕子ゆうこの言葉に、イトの神経は分かりやすいほどに凍りついていた。同時に、全身を冷や汗が包み込む。

 これまでの多くの事が頭を巡った。

 総てはのろいを成就させるため。

 田上たうえ家を苦しめるためではない。終わらせるために生きてきた。

 そして、萌江もえがゆっくりと立ち上がる。

 口を開いた。

裕子ゆうこさん……使用人を何人か集めて。それとスコップも。この人形を仏壇ごと埋めに行く」

「埋めるって…………どちらに…………」

「別邸────イトさん、ユズはどこに埋まってるの?」

 萌江もえがイトに顔を振ると、イトは動揺を隠せない表情のまま、すでにここに意識は無い。

「……分かりません…………ウタはくらの裏のほこらの隣に…………おそらく、その近くかと…………あそこはこの家の敷地…………誰にも見付かりません…………」

「分かった…………私が探す」

 そして萌江もえは、仏壇を持ち上げた。





 萌江もえは義理の両親の自殺をきっかけにして、大学を中退する。

 義理の両親は、山の中の高い橋から飛び降りていた。

 理由は分からないまま。遺書はなかった。

 実家は義父と義母のそれぞれの実家が協力して売却していた。自殺は家の中ではなかったのでそれなりの金額で売れたようだった。そして養子である萌江もえにもそれは少しだけだが振り分けられた。

 義理とはいえ両親の兄弟の戸籍に入ることも勧められたが、萌江もえは断った。なぜかそれに迷いはなかった。家族というものに対して、萌江もえの中に分かりやすいほどの嫌悪感が生まれていたからだ。家族というくくりの中にいるのが怖かった。

 実の両親はすでにいない。

 義理の両親もいなくなった。


 ──……人との繋がりが怖い…………


 思えば学校ですらも萌江もえにとっては苦痛なものでしかなかった。大学を勧められた時も悩んだほど。決して自分から進んで選んだものではない。集団の中に埋没したいのに出来ない。いわゆる普通の人たちの中に溶け込むことが出来なかった。

 それでも大学を辞めた今、食べていかなくてはならない。

 仕事を見付けるのに時間がかかっていた萌江もえにとって実家の売却金はありがたいものではあったが、やはり気持ちは複雑だった。帰ることの出来る家が無くなったことになる。葬式に帰った時点で、あの街に行くのは最後だろうとも思った。

 そして同時に、もう帰りたくなかった。

 義理の親戚もやがて自分とは距離を置き始めるだろう。葬式の時の態度で、なぜか萌江もえにはそんな未来が見えていた。

 やっと見付けたのは居酒屋での厨房ちゅうぼうの仕事。時給は決して高くなかったが、ホールスタッフよりも働ける時間が長いことを理由に厨房ちゅうぼうを選んだ。元々サバサバとした男勝りな性格だったせいか、職人の世界は馬が合った。

 しかし多くの会社がそうであったように、当時のいわゆる客商売の世界の労働環境は長時間労働が当たり前の世界。一二時間程度働き続けるのは当たり前の毎日。アパートで過ごす時間は多くなかった。

 休日は固定されていなかったが、大体週に二日は取れていた。

 一日中家で過ごす日もあれば、逆に外を歩き回ることもある。

 中途半端に大学生活を終わらせてしまったせいか、友達はいなかった。高校時代の僅かな友達はいつの間にか連絡も取らなくなっていたが、それでもそれほど寂しいと思ったことはない。一人のほうが楽だと思うようになっていた。むしろ、いつの頃からか人と関わることを避けていたようなところがある。

 職場の従業員とも職場だけの付き合い。店の外で会うことはなかった。従業員同士での飲み会なども、いつも適当にはぐらかす。自然と誘われることも少なくなるが、萌江もえにはそのほうが良かった。

 その日も特別目的を決めていたわけではなかったが、街中をブラブラとして時間を潰していた。

 やがて、最近通うようになった小さなアクセサリーショップが目に入った。

 それほど萌江もえはアクセサリーを身につけるほうではない。身に付けるとしてもシンプルなネックレスくらい。ピアスの穴を開けようとした頃に居酒屋のアルバイトが見付かったので、結局開けていない。厨房ちゅうぼうで禁止されている指輪も元々興味はなかった。

 そういう萌江もえからしても、シンプルなデザインのアクセサリーを置いているそのショップは珍しくお気に入りだった。


 ──寄ってこうかな…………


 そんなことを思っていた時だった。

 ショップのガラスの向こう────店内に幼い女の子の姿。

 しかも見覚えがある、ような気がしてならない。


 ──……どこかで会った…………?


 しかもその女の子は、萌江もえを見つめていた。


 ──……ゆず…………ちゃん…………?


 いつの間にか、萌江もえはショップの扉を開いていた。

 そのまま店内に視線を配る。

 しかし誰もいない。六畳ほどの小さな店内。全体はすぐに見渡せる。

 やがて、店の女店主が声をかけてきた。

「いらっしゃい…………お久しぶりね。どうしたの? 不思議そうな顔して」

 まだ二〇代とは思われたが、萌江もえよりは年上。そんな店主が一人で回している小さなショップだった。

「今、女の子いなかった?」

「やめてよ事故物件じゃないんだから……しばらく誰も来てないよ。暇だから何か買ってってよ」


 ──……やっぱり…………そっち…………?


「久しぶりに……そうだね…………」

 萌江もえはそう言いながらも、さっき女の子が立っていた窓沿いの場所に目が行ってしまう。

 そして、そこで一つのアクセサリーが目に入った。

 それは小さな水晶。透明ではあるが、僅かに黒い。暗い、という表現のほうが正しい印象だった。

 値札を見ると名前が書かれていた。

「〝火の玉〟?」

「ああ、それ? 珍しい名前でしょ? 純日本産。日本生まれの水晶なんだって」

 すると萌江もえが声を張り上げる。

「五千五百円⁉︎ そんなにするの⁉︎」

「アクセサリーで出回るのは珍しい石なんだよ。しかも天然物でその値段は安いほうだよ。チェーンが千五百円で合わせて七千円でどう? 税込で」

「高い」

「まけないよ。気に入ったんでしょ」

「んー……ちょっとね」

「なんかそういうのってあるよね。真面目な話さあ……呼ばれたのかもよ」

「そんなものかねえ」

 その水晶を購入した翌週、そのショップはなぜか無くなっていた。





 別邸の裏。

 そのくらは、陽が落ち、影に包まれ、にも関わらずその存在を強くしていた。

 目的の場所は、その更に裏。

 そこは人の腰ほどの背の高い雑草に囲まれ、人の手が入っていないのが一目で分かるような荒れ方。

 風にそよいでかすれたような音を立てる草を、萌江もえみずかき分けていく。随行してきた使用人も黙って後に続いた。

 そしてほこらはすぐに見付かった。小さなほこらだった。長い間の雨風あめかぜで、見るからに傷んでいた。板の表面はくすみ、ゆがみ、もはや元の色すらも分からない。今にも崩れそうなくらいだ。

 そして、中には何も入っていなかった。

 途端に萌江もえの左手に電気が走る。


 ──水晶が反応してる…………ここなの…………?


「隣って…………」

 声を漏らし、萌江もえは顔を右に向ける。

 そこには、大き目の石があった。周りの草をき分けると、僅かに土が盛り上がり、その上にいくつかの石。墓石の代わりだったのだろうか、どことなく立てていた石が倒れてしまったようにも見える。そのためか、石にはこけも付着し、年月を感じさせた。

 萌江もえは何も言わなかったが、周りの使用人たちも理解したのだろう。無言で手を合わせ始めていた。

 そして背後からの裕子ゆうこの声。

「……ここが…………」

 萌江もえが静かに、振り返らずに応えていく。

「……うん…………ウタさんはここに眠ってる……総ての始まり…………でも殺された使用人はここじゃない。もっと山の奥……近くには埋めたくなかったのね…………」

 すると裕子ゆうこも手を合わせた。その体が震えているのが萌江もえからも分かった。

 その萌江もえが続けた。

「どうして墓石みたいにして置いたんだろうね…………分からないようにもっと山奥に埋めてもいいのに…………」

 そして、また水晶が反応する。

「そこ…………」

 萌江は無意識のまま、ウタの墓の後ろを指差していた。

 そこには、まるで流木のような曲がりくねった古木が地面に突き立てられていた。

「最初に…………重蔵じゅうぞうがその木の下に…………ユズを埋めた…………」

 そう語る萌江もえの背後から、裕子ゆうこ嗚咽おえつが聞こえてきた。

 そして萌江もえの声が続く。

「ユズを埋めた重蔵じゅうぞうも…………分かるように目印みたいな木を立てて…………その側にウタを埋めた華平太かへいたとヨシも…………墓石を置いて…………それもほこらの隣…………」

 その光景が頭に浮かぶのか、背後の裕子ゆうこの声が、泣き叫ぶような声に変わっていた。

 構わずに続く萌江もえの声。

「例え僅かでも…………仏心ほとけごころはあった…………どんなに許されないような人間でもね…………それだけは覚えておいて…………」

 周りの使用人たちが、なんの指示もないまま、そしてスーツのまま、地面にひざをついて雑草を抜き始めた。そして、一人がスコップを持って萌江もえに声をかける。

「こちらで……よろしいですか?」

 使用人は、古木の隣を指差していた。

 萌江もえはゆっくりとうなずいてから応えた。

「……お願いします……仏壇を…………横にして埋めてあげてください…………」

「かしこまりました」

 すると、今度はくらのほうから別の使用人の声が響く。

「────奥様! 旦那様が…………!」

 使用人が全員振り返る。

 裕子ゆうこは座り込んだまま項垂うなだれ、体は動かない。

 使用人が叫ぶほどのくらの中の変化。

 想像出来ることは多くない。

 救急を呼べば、アヘンがバレるだろう。多一郎たいちろうの死までは家の権力で揉み消していたのかもしれないが、現在の田上たうえ家に、その力はもうはない。

 萌江もえほこらに背を向けて歩き始める。

 座り込んだまま項垂うなだれる裕子ゆうこの前でひざを落とし、口を開きかけた時、先に聞こえたのは裕子ゆうこの震えた声。

「…………ありがとうございました…………大変……お世話になりました…………」


 ──……そう…………そういうことね…………


 裕子ゆうこは決して顔を上げなかった。それがプライド的なものから来るものなのか、もしくは何らかの覚悟のようなものなのか、えて萌江もえは見ようとはしない。

 萌江もえは黙って立ち上がり、少し歩いたところで再び足を止めた。

 そして振り返り、小さく呟く。


「……遅くなっちゃったね…………待たせてごめん…………ゆず…………」


 本邸まで降りる。

 鳥居を潜り、小さな門を開けると見慣れた車が見えた。

 そしてその横には見慣れた咲恵さきえの姿。

 そして声。

萌江もえ!」

 途端に萌江もえは笑顔で返していた。

「どうしたの? お店潰れちゃった?」

「心配して迎えに来たんでしょ⁉︎ どうなったの? さっき聞いたら裏山に行ったって聞いて…………これから追いかけるとこだったんだけど…………」

「うん…………もう解決したよ…………のろいは終わり」

「終わりって…………」

「車で説明するよ。帰ろ」

 すると、二人に一人の使用人が近付く。

 そして、大きなジェラルミンケースを差し出した。

 その使用人からは一言だけ。

「大奥様から……〝お気持ち〟……ということでした…………」


 ──……覚悟と…………代償か…………


 萌江もえは手を伸ばしながらも、なぜかそれに触れるのを少し躊躇ちゅうちょし、やがて黙って受け取ると素早く助手席に乗り込んだ。

 咲恵さきえも何も言わないまま車を走らせる。

 サイドミラーに、深々と頭を下げる使用人の姿が映っていた。



      ☆



 冷たい床だった。

 いつの間にか、履いていたはずの下駄げたも無く、素足でその冷たさを感じていた。

 まだ外は明るい。

 しかし、ここは暗く、空気までも冷たい。

 絶望を感じさせるには、充分だった。

 それでも、どうしても守らなければならない存在がある。

 両腕で強く抱えた、まだ幼い命。

 どうしても、ウタは娘のユズを守りたかった。

 娘のためなら死ねた。

 娘を守るためなら自分が殺されても構わない。

 ユズのためなら、誰かを殺してでも、ここを抜け出したかった。

 背中を押され、床に倒されてもウタはユズを両腕で抱えたまま。

 しかしその腕は、重蔵じゅうぞうに強引に引き剥がされていく。

 床に転がって泣き叫ぶユズを無視し、重蔵じゅうぞうはウタの両腕と両足を縄で繋いでいった。

「やめて! やめて! やめて!」

 涙の他は、何も言葉が出てこない。

 やがて、重蔵じゅうぞうが、床の上で泣き続けるユズの着物を掴み、持ち上げると、ウタの声は絶叫に変わった。

「やめてー‼︎ その子だけはやめて‼︎」

 しかしユズの鳴き声は、重蔵じゅうぞうと共にくらの外へ。

 扉が閉まり、それ以来、ユズの声を聞くことはなかった。


 そして、そのくらの中では、昼夜を問わず、ウタの声が聞こえ続けた。


「…………呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる………………」


 何十年経っても、聞こえ続けていた。



      ☆



 曲がりくねった道を少しずつ下る。

 街中まではもう少し。しかしまだ外には転々とした灯りしか見えていなかった。古くからの田舎の集落を抜けてはいない。

 瞬く間に空は青くなり、やがて黒く変化していくのだろう。

 その狭間はざまにいた。

 長い物語を淡々と語り続ける萌江もえの言葉を、咲恵さきえは運転しながら無言で聴き続ける。そんな時間が続く内に、しだいに周囲の街灯が増えてきた。

 話の終わりに萌江もえいた溜息ためいきに応えるかのように、咲恵さきえは言葉を返した。

「その物語は……私も見えてなかったよ…………」

 複雑でありながら、同時にシンプルな構成は、やはり咲恵さきえを驚かせる。

 助手席でひざの上にジェラルミンケースを乗せたままの萌江もえがゆっくりと応えていた。

「うん。のろいっていうか…………言うならば、うらみの連鎖かな…………」

 萌江もえはそう応えながら、窓の外に目をやる。

 いつの間にか外の灯りが増えていることに、なぜかやっと気持ちが落ち着いてきた自分を感じていた。まるで不思議な世界から現実世界に戻ってきたかのような感覚もある。


 ──……歴史は終わらない……続いていくだけ…………ここにはまだ残ってる…………


 そんなことを思った萌江もえに、咲恵さきえが言葉を向ける。

「どうなるんだろうね…………あの家…………」

 萌江もえは小さく息を吐き、何かを噛み締めるようにゆっくりと、選びながら言葉を返した。

「……私たちの仕事はここまでだよ…………あの人たちの人生は、後はあの人たちが決めるだけ…………」

「…………うん…………そうだね」

 不思議と、寂しさがつのった。

 自分たちが立ち入ることの出来る限界を感じる。

 しかし、田上たうえ家が萌江もえ咲恵さきえを守ったのも事実。これ以上関わることは身の危険に繋がると判断されたのだろう。

「一つだけ解決しなかったのは…………」

 そう言った萌江もえが繋げる。

「……事の発端になった重蔵じゅうぞうの最初の娘も二才で死んでること…………華平太かへいたが人形を買う前…………そこだけ分からなかったのが、ちょっとね」

「ただの偶然かもしれないけど…………萌江もえがいつも言ってるじゃない。不思議なことって────」

「────あるんだよ…………」

 はっきりと応えた萌江もえが、声のトーンを落として続ける。

「…………やっぱりのろいなのかもね……ある意味でさ」

「……不思議な経験だったね」

「…………うん…………そうだね」

 それ以上に返す言葉は見付からない。萌江もえも本心でそう感じていた。なぜ、ユズが子供の頃の萌江もえに会いに来たのか。しかも萌江もえですらそうとしか思えない経験だった。もちろんユズの幽霊が、とは何かが違う感じがする。未来の自分が見せていたのかもしれないと萌江もえは考えていた。

 リアルに考えたら、そのほうがしっくりとくる。

 それなのに、なぜか、ユズに導かれたような気がしてならない。

 確かに会っていた。

 子供の頃。

 間違いなくその子は目の前にいたのに、しかし、なぜか顔は思い出せない。

 答えは出ないだろうとも萌江もえは感じていた。もうあの屋敷に行くことは出来ないだろうと思えたからだ。

 これからのあの家自体がどうなるのか、家族がどうなるのか、少なくとも二人には分からない。

 同時に、それで良かった。

 後は、あの家族の物語。

 そして萌江もえが言葉を繋いだ。

「ところで、今夜はどこに帰るの?」

「そんな物持って私の部屋はやだよ。山の家に帰るからね」

「そうだね。これってどうやって開け────あ、開いた」

 そしてすぐに萌江もえは目を丸くしてケースを閉じた。

 横からすぐに咲恵さきえの声がはじける。

「マジで?」

まきストーブって幾らするかな?」

「あなたの好きなネット通販で見たらいいでしょ。って言うより家でしょ家。もう少し綺麗な家にしたらいいじゃない。街中にさ」

「家もネットで買えるの?」

「だからネットで調べなさいよ」

「一緒に選んでよ」

「お店があるし」

「今日はもう間に合わないから泊まりね」

「へいへい」


 ──……萌江もえを見失わずに済んで、良かった…………


 咲恵さきえはそう思いながらスピードを落とす。

 それでも咲恵さきえは、右のウインカーを点けながら、そこはかとない不安が押し寄せてくるのを感じていた。





             「かなざくらの古屋敷」

           〜 第一部「妖艶ようえんうたげ」(完全版)終 〜

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