第18話 岩屋城の戦いで乱世の華は散る

 昔々、筑前国にある岩屋城の城主に高橋紹運なる者がいたそうな。


 1586年、島津は九州制覇をもくろみ、島津忠長・伊集院忠棟を大将とする総勢二万から三万の軍勢が出陣した。


 まず大友側に寝返った筑紫広門を勝尾城で下した島津勢は勢いのまま、筑前で島津家に抗い続けている、岩屋城に向けて進軍したのである。


 「島津勢がもう少しでこの岩屋城にやってくる。宝満城は、筑紫広門の配下の者達もいるので瞬く間に攻略される可能性がある。そのため、なんとしてでもこの岩屋城を死守する。我と共に戦い死んでも構わないと思う者だけここに残ってほしい!!」


 紹運は死を賭して戦うと宣言した。そのためその心意気に惹かれたもの達が大勢おり、七百六十三名が岩屋城に立てこもったそうな。


 だが、岩屋城は防衛に向かないために城を捨てて撤退する旨を伝えるため立花宗茂は岩屋城に訪れたそうな。


 「岩屋城は防衛に向いておりません。城を捨てて撤退し、我が居城に来てください」


 宗茂は必死に紹運を説得しようとした。


 「私は主家を見捨てておめおめと逃げるわけにはいかぬ。それに、秀吉殿が来られるまでなんとしてでもこの地を死守して見せる。それゆえ撤退はせぬ」


 紹運は撤退しないと言って、丁重にもてなし勧告を断ったそうな。


 その後、7月12日、島津軍は岩屋城に到着して降伏勧告を出すが、紹運はこれに応じず、徹底抗戦を行った。


 「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが、私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」


 このように敵味方が見守る中で紹運は降伏をしないと言い切ったそうな。これには、敵味方から拍手喝采が起きたという。


 7月14日、降伏しない紹運たちに対して島津によるさらなる岩屋城攻撃が開始された。


 「皆の者、死兵となりて敵を向かいうたん。共に島津勢と死に物狂いでことに当たるぞ!!」


 「「おお――――――――!!」」


 紹運たちはものすごい士気をあげながら、島津勢に迎え撃った。


 島津軍は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗していた。


 これは、島津軍の大半が他国衆であり戦意に欠けていたことと、紹運の采配によるところが大きかった。


 「皆の者、敵の勢力を大勢打ち取れているぞ。このままの勢いで島津勢を迎撃するぞ―――!!」


 「「おお―――!! このまま島津勢を討ち取っていくぞ―――!!」」


 紹運と配下の者達は、士気をあげ、大きな歓声をあげたという。


 城攻めで苦戦する島津方は紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えたが紹運はこれにも応じなかったそうな。



 こうして、紹運たちは徹底抗戦をその後も行い、籠城戦が始まって半月が経過した。


 27日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛けた。多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠るところだけになったという。


 「皆の者どうやら、我らは追い詰められてしまったようだ‥‥‥我ら全員討ち死にになるだろう‥‥‥されど、我らは島津勢相手に半月耐えた。これにより、私の息子である宗茂は秀吉様が来るまできっと耐えきれることであろう‥‥‥!! それ故皆の者よくぞここまで私と共に戦ってくれた礼を言う」


 紹運は厳しい顔をしながら、共に戦ってくれたもの達に向けて頭を下げたという。


 「紹運様。頭をあげてください。私たちは紹運様と共に島津勢相手に活躍をあげることができて武門の誉れと思うております。こちらこそ今までありがとうございました」


 配下一同はこのように紹運に言ったという。言われた紹運は感謝の気持ちでいっぱいになったそうな。


 すると、そこに島津の者が来て、「もはやこれまでぞ。観念せい」と言ってきて攻撃してきたので配下の者らは迎え撃ったという。


 「紹運様。今のうちに、立派な最後を迎えられませい!!」


 配下の者達は死に物狂いで島津勢を迎え撃ちながら、紹運が立派な最後を迎えられるように時間を稼ぎますといったそうな。


 紹運は、感謝しながら高櫓に登りきると、割腹をして、腹の腸をもぎ取り高櫓に群がる大勢の島津勢にそのもぎ取った腸を投げたという。


 こうして、紹運は壮絶な最後を迎えたのである。


 このように紹運以下七百六十三名全員が討死、自害して戦いの幕は降りたのであった。


 落城後、攻め手の総大将だった島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検に及んだという。


 その際、島津忠長は、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」と床几を離れ、地に正座し涙を流したと伝わっている。


 

 その後、島津軍は宝満城をあっさり奪い取ると、立花山城に向かった。


 だが、岩屋上の戦いの打撃が大きかったため、立花宗茂が籠もる立花山城への攻撃が鈍化したそうな。


 立花山城攻略に時間を費やしている内に、豊臣軍二十万が九州に上陸し、島津軍は薩摩本国への撤退を余儀なくされたのである。


 そのため、紹運の命を引き換えにした抵抗は、結果的に島津軍の九州制覇を阻止することにつながったのである。


 また、島津征伐にやって来た豊臣秀吉は、生き残って活躍を果たした息子である宗茂を呼び寄せたそうな。


 その際に、紹運の活躍を聞き、武勇を褒めたたえて、


「彼こそ乱世の華よ」


 と紹運の死を惜しんだという。

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