第5話 父と祖父の仇のために、島津と戦わん

 昔々、豊後国に佐伯 惟定なる人物がいたそうな。


 しかし、1578年に起きた耳川の戦いで、父・惟真と祖父・惟教が戦死してしまったのである。


 そのため、惟定は家督を継ぐことになったのである。


 「父上や祖父が島津によって、戦死されてしまわれた。家督を継いだものとして、立派な姿を天におられる父上と祖父に見せん」


 こうして覚悟を持って、惟定は家督を継ぎ、栂牟礼城の城主になったのである。


 「また、いずれは島津に仇を返さん」


 島津に対する仇をいずれは返したいとも思っていたという。


 そして、その機会が訪れることになったのは耳川の戦いから約8年後のことであった。


 1586年の豊薩合戦の際に、周辺の諸将が次々と島津方に降る中、惟定は島津に対する仇と主君に対する忠義を果たすために、客将・山田匡徳を参謀に据えて徹底抗戦を主張したのである。


 「皆の者、よく聞いてほしい。島津は耳川の戦いで我が父上と祖父を殺めた。その島津が降るように言ってきておる。‥‥‥しかし、私は島津に対する恥辱を果たせるときだと思うておる。それゆえ‥‥‥島津と敵対する」


 この発言に家臣たちの中ではしぶる者もいたという。


 「では、島津と戦うために、山田匡徳を参謀とする。」


 すると、山田匡徳が皆の前に現れてこういったという。


 「殿より参謀を任されました山田匡徳でございます。何卒皆さんよろしくお願いします」


 だが、家臣の中ではそれを快く思っていないものもいたという。そのため、その家臣たちを酒の場と欺き殺害したそうな。


 こうして、反対するものらがいなくなり、佐伯 惟定は、島津と戦うことになった。


 一方、島津は大友家の勢力を支配すべく、惟定の居城・栂牟礼城に攻め寄せたのである。


 攻めよせてきたのは島津家久であった。その軍勢は2000人ほどであったという。


 佐伯軍は城の入口3箇所に350名余の守備兵を配し、決戦の地を堅田村と定めて中山峠に本陣を構えた。


 佐伯軍の先陣は佐伯惟末と高畑伊予守、第2陣が佐伯惟澄と高畑新右衛門尉、第3陣が惟定の弟進士統幸という3段備えの陣を布いて、島津に対抗しようとしたそうな。


 また、城主である惟定は城で総指揮をとり、軍配は山田匡徳が預かって、直接的な指揮をとったという。


 「よし、ではこのような手順で動くように」


 参謀の山田匡徳は敵に鉄砲を放って島津軍の陣容を調べ、また土地感のある佐伯の兵士を利用して中山峠から波越峠に本陣を密かに移したという。


 そして本陣横の波越常楽寺観音堂に入り、御帳の新しい白布を拝借して旗指物とし、少数の鉄砲を持たせた足軽を島津陣の背後に当たる民家に隠れさせたらしい。


 「準備はできたな。では隠れている足軽に向けて、旗を振らせて、貝を吹かせるのだ」


 山田匡徳の命令により、配下の者が民家に隠れた足軽に向けて旗を振らせ、貝を吹かせて合図を図り、射程を十分に確保した上で足軽等に鉄砲を撃たせたという。


 島津方にすれば背後が敵に回られた格好となり、島津軍は大混乱となったという。


 島津軍は形勢を整えるため、府坂峠を目指して後退したが、尚も鉄砲による攻撃が続き、さらに山田匡徳は府坂峠を越えた所にある岸河内にあらかじめ兵を置いて備えていたため、挟みうちの状態となり島津軍は隊の規律を失ったという。


 かくして、佐伯 惟定の軍勢は勝利を収めたのである。


 「皆の者、勝鬨をあげよ!!」


 山田匡徳は勝鬨をあげたのである。


 「「おおおおおおぉぉぉぉ―――――――!!」」


 こうして島津家久の軍を、堅田合戦で撃破したのである。


 その後、12月4日には佐伯家臣・高畑新右衛門が星河城を攻め落とし、島津側に寝返っていた柴田紹安の妻子を捕らえた。このため、紹安は動揺して大友方に帰参しようとしたが、その動きを察知した島津軍に殺害されたという。


 さらに12月18日には戸高将監率いる島津軍の輜重隊を因尾谷で襲撃し全滅させたのである。


 また、惟定は海軍も持っており、海運を掌握したという。


 「よし!! 我が海軍により、この地の海運は我らが掌握できておる。島津軍の海上からの輸送をそしできておるな」


 惟定は、島津軍の海上からの輸送を阻止出来て、さらに満足したという。



 その後、豊臣秀吉が九州平定戦を開始すると、3月17日に府内から撤退する島津義弘・家久兄弟の軍を日豊国境の梓峠で大敗せしめたという。


 その時、惟定が戦利品としてゲットした義弘所有の唐物茶入は、後に惟定にちなんで「佐伯肩衝」と呼称されたという。


 「よし義弘所有の唐物茶入ゲットだぜ!!」

 

 佐伯惟定は大いに喜んだという。


 「この茶器を手に入れ、そして島津軍に大いに敗走させることができた。これも参謀を務めてくれた山田匡徳と奮戦してくれた皆のおかげじゃ。礼を言うぞ」


 「「なんの。お役に立てて光栄でございます」」


 惟定と匡徳と家臣一同は大いに笑ったという。


 


 その後、大友氏改易により惟定も居城を失うと、藤堂高虎に客将として招かれたそうな。


 関ヶ原の戦いの際には宇和島城留守居役を務めたという。家臣のみ関ケ原に従軍したそうな。


 翌年、高虎の手掛けた普請に従事し、津城下には佐伯町を開いたと言われている。


 大坂冬の陣には、先鋒が壊滅した為、藤堂高吉と共に左先鋒を務めたという。


 戦後4,500石に加増されたそうな。



 そして、1618年に亡くなったという。享年50歳だったそうな。


 


 


 


 

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