第2話 大坂の陣にて南部の光武者暴れる
その後、
しかし、1612年に北信景の10歳過ぎの息子である十蔵が利直に罪人を斬るように命じられたが返り討ちにあい死亡してしまう。
これに怒った北信景は、しばらくたって、大量の金を持ち出し、南部左門なる者を追いかけ、大坂城に入場したという。
この時、大坂城では、徳川に対抗するべく浪人を集めていたのである。
北信景は花巻の夜討ちでの活躍と大量の金を提供したことで、武将として登用されたという。
その後、徳川勢と豊臣勢との関係性はさらに悪化し、1614年に大坂冬の陣が起こったのである。
この時、北信景は「南部十左衛門信景」と名乗り豊臣方として守備に着いたという。
「この戦で活躍し、南部家の領地をいただかん」
北信景は、豊臣方として参陣したおり、もし豊臣が勝利したあかつきには南部家の領地をいただくと豊臣の者と確約したという。
北信景は、南部家に対する復讐と、活躍して名を遺すために、一気呵成に上杉勢と交戦したという。
この時、北信景は黄金の甲冑を着て暴れたという。
「うおおおおおお―――!! これでもくらえ―――!!」
北信景は持っている武器で次々と上杉勢の敵を倒し活躍したという。
それだけにとどまらず家臣と共に弓矢を相手方にくらわせた。
「この弓矢も貴様らに馳走してやるわ――――――!!」
その放たれた矢には「 南部十左衛門信景 」の銘がついていたらしい。
「ふふふふふ、これで利直は徳川方から問い詰められよう!!」
この弓矢には南部家の嫌がらせの意味も含まれていたらしい。
この様に、黄金の甲冑で活躍したことから、北信景は「南部の光武者」と言われたという。
その矢を拾い見たものは、その銘柄から、南部家に縁があるものではないかと、徳川秀忠に報告があったのである。
その報告を受けた秀忠は、南部利直を呼びだし問い詰めたという。
しかし、利直はこう弁明したらしい。
「信景が出奔して勝手に南部姓を名乗っているだけで南部家には謀反の心はない」
利直はこのように弁明し一時的な謹慎で事なきを得たようである。
そしてその後、冬の陣と夏の陣も戦い続けた信景であったが、豊臣方が敗れたので大坂城から脱走したのである。
しかし伊勢方面で捕らえられ、南部家に引き渡された。
その後、南部家の領地で手足の指一本ずつ切り落とされて、最後には利直自らが弓でとどめを刺し、首は鷹に晒されたという。
なんとも最後は無残な終わり方である。
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