第32話
自分の心臓とお腹の辺りを両手で抱きしめるように鷲掴む。
「三峰さん? どうしました?」
「わか、らな」
静夜の問いに答えられない。これまで感じたことのないほどの強烈な感覚。指先がビクッと痙攣した。手のひらは攣る寸前まで開ききり、獲物をこの手の内に収めようと動いている。これまで全く気にならなかったのに、静夜の体臭がどんな香水よりも馨しく鼻腔を満たした。それは紛れもなく目の前の【捕食対象】に向けられたもの。ネイルのために伸ばしていた爪はこの瞬間凶器に変わった。止めようとしてもとめどなく口の端から涎が滴る。
食欲。
視線は静夜の首筋をひたと捉えている。
心臓と胎の奥が動いている感触があった。本当はどうだか知らないけれど、この身体は求めている。この肉体が静夜の肉を求めている。この胎の奥の疼きを収めるためには人間を食べるしか無い。それしかないと身体が識っていた。
旭は、静夜に乱暴に抱きつくような形で押し倒した。
「三峰さん? 様子が」
旭は静夜の言葉を遮った。
「静夜さん、どうしよう、わたし、静夜さんを――食べたい」
瞬きをしない旭の瞳はらんらんと光り、まるで怪物だった。急な身体の疲れがそうさせたのか、暴食の衝動があらわれた。
「三峰さん、正気に戻ってください。これ以上ゾンビ化しちゃだめです」
「戻りたいです、正気に戻りたい、人間に戻りたい、でも食べたくてしょうがないんです、あなたのその、ああ、血を、肉を――」
静夜は首筋に噛みつこうとしてくる旭を跳ね除け座った。旭は四つん這いで背骨をくねらせ、静夜の首をまだ狙っている。
「妥協できませんか? 血を多少提供するくらいなら構いませんよ」
旭は考える余地もないとばかりに答えた。
「血、血ですか、はい、それでいいです、早くください」
静夜は押し倒されたときに床に落ちていたカッターで人差し指の先を自ら傷つけた。一センチほどのその傷はぷつぷつと血液が湧いて出てきた。
「三峰さん、はい、口を開けて」
言われるが儘に口を開くと、静夜はその涎にまみれてなお麗しい口の中に指を突っ込んだ。静夜の指から流れ出るそれは甘美な液体が旭の口を湿らせた。もどかしい。足りない。もっと欲しい。もっともっと欲しい。あなたが欲しい。
恍惚。旭は法悦を味わった。
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