第29話
旭のせいでイルカショーは強制終了となってしまい、申し訳ないことをしたなと思いながら飼育員さんについて行って更衣室に通される。
「こちらの注意が足りなくて申し訳ないです」
飼育員に頭を下げられ、旭は慌てた。
「そんな! こちらこそ注意不足でした、すみません!」
迷惑をかけたなと思いつつも、思うのは静夜のことだった。水に溺れないこんな身体でわたしはくらげを気取って砂浜を恋うる。静夜さんは水に溺れる女の子と水に溺れない女の子とどちらが好きだろうか。
「とりあえずお洋服はいま洗濯乾燥機にかけているので、その間だけ水族館のTシャツと飼育員の予備のジーンズとジャンパーをお貸ししますね」
「はい、わざわざありがとうございます」
「あ、あとドライヤーも使ってください」
「ありがとうございます」
ゾンビが風邪を引くかは不明だったが、髪が傷むのは嫌だったので借りることにした。
あれ、そう言えば静夜さんは今どうしているのだろう。
「あの、連れが居たはずなんですけど」
「ああ、男性の方ですね。今は従業員休憩室に通しております」
「よかった」
「乾燥にだいたい十五分くらいかかりますので、そのままここでお待ち下さい」
「はい」
さすがにアイロンはなかったので髪はストレートに戻ってしまった。結い直すのも面倒だったので髪はおろしたまま乾燥した自分の衣類を身に着けて更衣室から出る。
従業員控室に入ると、静夜は読んでいた本を閉じて座っていた椅子から立ち上がった。
「見事に落ちましたね、三峰さん」
「面目ないです……」
「イルカに嫌がられた段階でやめるべきでしたよ」
「そうですけどぉ……もっと心配してくださいよ」
「だってあなた死なないでしょう」
「そうですけど! 静夜さんの人でなし!」
「ゾンビに言われたくないですね」
「ぐぬぬ言い返せない」
「どうします? 帰りますか?」
「折角だからトンネル水槽とかもう一週したいです」
「じゃあ、そうしましょうか」
二人きりで歩くトンネル水槽は、とても幻想的に思えた。もちろん周りにはたくさんの人がいたけれど、旭は二人きりだと自覚的に錯覚していた。
最後に売店に寄って、お揃いでストラップを買った。一生の宝ものにしようと思った。静夜はそれを財布につけていた。木村研へは水族館クッキーを買った。
「今日は楽しそうでしたね、三峰さん」
帰り道、旭を送る道すがら静夜はそう言った。旭は首をかしげる。
「え? 静夜さんと居るときはいつでも楽しいですよ」
「特に」
「まあ、水族館とか海とか好きですからね。ついついはしゃいじゃいました」
「じゃあ次は海にでも行きますか? 暑くなりすぎない内に」
「本当ですか? じゃあ学園祭が終わったら代休で行きましょう!」
「あ、でも僕は泳げないので」
「砂浜を歩くだけでいいです」
「それで楽しめますか?」
「静夜さんと居るときはいつも楽しいって言ってるじゃないですか」
ちょうど家についた。
「今日はありがとうございました。また学校で」
「はい、ありがとうございました。まあ僕も楽しかったです。それでは」
「あの、静夜さん」
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
好きです。
ああ嫌だ、駄目だ、まだ早い。
あんなに楽しくて、奇跡みたいな時間を先輩も共有してくれて、こんなに好きですって爆発しそうな思いを伝えたいけどまだ伝えられない。旭は強欲だった。またこんな機会が訪れるんじゃないかと思うとここで終わらせたくないと感じてしまう。相反する気持ちが旭の心で喧嘩していた。
「どうしました?」
蜂蜜の中に沈んだみたいなこんな時間を、メープル味のこんな気持ちを、まだ味わっていたいのだ。あなたの海で揺らいでいたい。くらげになってしまいたい。
「――すみません、なんでもありません」
踵を返す静夜を見送りながら、静夜さんもわたしのことが好きなんじゃないかと今日何度目かにそう思った。そうだったらいいのにと思った。そのためなら何を擲っても構わないのに。――既に命を擲っているくせに、そう思った。
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