第28話

 時刻は午前十時半。デニムのタイトなミニスカートに黒タイツ、白のオフショルダーのトップスを身に着けて、メイクはナチュラルに。口元は最近出た肌の温度で色が変わる小悪魔リップ。ヘアオイルもいつもとは違うとっておきを出して、旭はパーフェクト旭に変身した。

 チャイムが鳴ったので慌ててショルダーバッグをひっつかみ、階段を駆け下りる。

「行ってきます!」

 扉を開けると、そこには普段と特に変わらない静夜が居た。

「おはようございます、三峰さん」

「おはようございます、静夜さん」

「今日は香水でもつけているんですか?」

「あ、いえ、ヘアオイルを普段と違うものを使っているんです」

「ヘアオイルというものがあるんですね。普段と香りが違ったので」

 会って五秒で違いに気づいてくれたことにときめく。薄々感づいていたが、静夜には女たらしの才能があるのではないか。わたしみたいな女を量産していたらどうしよう。

「じゃあ、行きましょうか」

「はい!」


 電車では席がひとつしか空いていなかった。静夜に指されて、とすんとそこに腰掛ける。静夜は旭の前に立って、トートバッグから取り出した本を読み始めた。旭はそんな先輩の顔をそっと見上げる。この人はわたしのことをどう思っているのだろう。どんな気持ちで水族館に行くんだろう。

 旭と同じなら嬉しい。

 けれど、その言葉を強請るのは死ぬ覚悟を決めたときだ。

 それは今ではない。

「三峰さん?」

「えっ、あっ、はい!」

「次で降りますよ」

「時が経つのは早いなあ」

「何を言っているんですか?」

 静夜のことを考えていると時間が矢のように飛ぶ。


 入場チケットは買わせてもらえなかった。当然のように静夜が大人二人分のチケットを買って内一枚を渡される。

 これ先輩わたしのこと好きじゃね?

「あなたはまたそうやってわたしを甘やかす……」

「僕はあなたの先輩なので」

「一生ついていきます」

「いえ、別についてこなくてもいいです」

「ご無体な!」

 先輩がわたしのことを好きだというのは錯覚だったのか!?

 受付の人にチケットを渡して入場する。

 出入り口の側にはまず売店があった。

 わー、ぬいぐるみが山程ある。気の抜けたような顔をしたくらげの大きなぬいぐるみが気に入った。

 他にもシャープペンや海の生き物にちなんだグッズがたくさん。

「三峰さん、売店は最後に見ましょう」

「あ、それもそうですね」

「イルカショーが十三時からあるみたいですね」

 静夜はいつのまにかパンフレットを手にしていた。

「それまでに一階は見て回りましょうか」

「はい!」

「何から見たいですか?」

「くらげですね」

「くらげが好きなんですか?」

「海の生物全般が好きです。一番好きなのはくじらですけど、その次がシャチで、その次がイルカで、くらげはその次に好きですね」

「どうして好きなんです?」

「たぶん、前世がくらげだったんです」

「なるほど」

「いまもふわふわ生きてるし」

「確かに三峰さんはときどき地に足がついてないですね。くらげだったからか」

「今ちょっと聞き捨てならない言葉があったんですけど」

「気の所為でしょう。くらげはあっちですよ」

「わーいくらげだ」

 円柱状の水槽にミズクラゲが二十匹くらい浮かんでいた。その前に二人で佇んで、特に何を考えるでもなく、くらげのように過ごした。

「静夜さん知っていますか? 海外ではくらげの骨のようだという慣用句があるらしいですよ」

「どういう意味なんですか?」

「くらげの骨のように存在していないもの、という意味らしいです」

 旭はくらげ水槽の発光を正面から受けながら、つぶやく。

「ゾンビなんて普通存在していないですよね」

「三峰さん」

「はい」

「急にどこかへ行ってしまったりしないでくださいね」

 どこか切実に聞こえる声色で静夜はそう言った。

「どういう意味ですか?」

「ふらっとくらげみたいに消えてしまいそうに思えたので。気の所為ならいいんです」

「わたしがどこかへ消えてしまったら静夜さんは困るんですか?」

「困りますね。会話の相手が居なくなってしまうので」

 ねえ静夜さん絶対わたしのこと好きでしょ。ねえ。

「わたしも、先輩が居なくなったら困ります」

「それはどうしてですか?」

「同じ言語で会話してくれる人が居なくなっちゃいます」

「ああ、三峰さんもそう思っていたんですね。僕も三峰さんとは同じ言語で会話しているつもりでした」

「もしもわたしがくらげだったなら、死ぬならあなたという砂浜がいいなと思います」

「――三峰さんは、ゾンビになったから、死なないんですよね?」

 旭は、それには答えずにふいっとくらげ水槽から視線をそらした。

「あっちのトンネル水槽にエイとウツボを見に行きましょう」

 それからもサメ水槽を見たり、熱帯魚のいるコーナーを回ったりした。

「淡水魚だとアリゲーター・ガーとレッドテイルキャットフィッシュ、ピラルクあたりが好きです。大きいし、食べられちゃいそうで怖いところがいいです。あ、ほら、あの口が長いのがアリゲーター・ガーですよ」

「詳しいですね」

「水族館大好きなんです」

「あ、そろそろイルカショーの時間ですね。移動しましょうか」

「楽しみですね」


『イルカショーの開演です』

 周りの家族連れにまぎれて旭と静夜は中段あたりに座っていた。

 イルカがボールに頭突きしたり、フープを潜ったり、高くジャンプしたりするたびに旭と静夜は拍手した。

『イルカとのふれあいコーナーです。イルカに触ってみたい人は高く手をあげてください』

 周りの家族連れなど知ったことではない旭は思いっきり手を上げた。

『一番右の女の子と、左の最後列の、はい君です、君と、真ん中に座ってるピンクの髪のお姉さん、前に出てきてください』

 周りを見渡してもピンクの髪のお姉さんは居なかったので旭は喜んで立ち上がった。

「静夜さん、行ってきますね!」

「プールに落ちないように」

「大丈夫です! 落ちても死なないですから!」

「そういうことを言ってるんじゃないんですよ」

 イルカが水槽の浅瀬に何頭も乗り上げていた。

「イルカに触る前にこれを着てくださいね」

 そう言って飼育員に渡されたのは、ゴムのような生地のオーバーオールだった。

 ハイカットのスニーカーも脱いで長靴を履く。

「こっちへどうぞー」

 笛を持ったダイビングスーツの飼育員のお姉さんに呼ばれ、旭はてくてくと歩いていく。

「かわいい! 触ってもいいですか?」

「いいですよー」

 旭がイルカに近づくと、イルカたちはざざっと遠ざかった。

「ん?」

「あれ、どうしたのかな」

 飼育員も首を傾げている。

 旭が再度近づくと、また遠ざかる。

 もしかしてもしかすると、旭が人間じゃないことを本能で悟っているのだろうか。

 怖くないよー、と言いながら旭はとうとう一頭のイルカを捕まえた。するとそのイルカがプールの中に戻っていった。

「え」

 つまりイルカに抱きついていた旭も一緒に水槽に落ちた。

 海水の中では目を開けて居られず、ただ沈んでいくばかりだった。ゾンビは水に沈むらしい。

 泳ぐにしてもバラけるのが怖いしな。

 そう考えている内、誰かに右腕を引き上げられた。

「大丈夫ですか!?」

 ダイビングスーツの飼育員さんが助けてくれたらしい。

「けほ、大丈夫です、ありがとうございます」

 静夜さんの言葉が現実となってしまった。

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