第13話

 朝まで父の書斎で小説を読んで過ごした旭は、紺色の指定ジャージを身に着けて洗面台に向かった。制服が返ってくるのは翌日だ。

「姉ちゃん洗面台独占しすぎ!」

「あんたと違って時間かかるの!」

「コテ温めてる時間だけでいいから貸して」

「仕方ないなあ」

 旭は晴日に場所を譲った。

 けれど、ふと自分はもう朝ごはんも必要ない身体なのだと思い出した。本当だったら、その時間に髪を巻けばいいのだ。

 そうだ。もう朝ごはんを食べる必要もない。

 なんとなく寂しく感じた。

 昨日の父さんの悲しそうな顔はこれか、と思い至った。

 娘が人間離れしたらそりゃ悲しいか。

 わたしも少し寂しいし。


 朝ごはんのホットサンドを目の前にして、旭はそれが全く美味しそうに感じられなかった。むしろ吐き気すら覚えた。笑顔を作って「いただきます」と言って食べるが、味など感じられなかった。ただ咀嚼して飲み込むだけで精一杯で、牛乳で流し込んで席を立つ。

「今日は随分と急いでいるのね」

「そう? おなか空いてたからかも」

 吐き気をこらえていつもより早くジャージ姿で登校して、学校のトイレに駆け込んで朝ごはんを吐き戻す。勿体ないが、朝ごはんまで抜くと母にも弟にも疑われてしまうから。

 教室で父の書いた児童書を読む。朝は全校朝会が無い限り自由な時間だった。読書はもっぱらミステリか児童書を好んで読んでいた。父親の影響もあったかもしれない。

 ――集中して読んでいたから気が付かなかったが、肩をトントン、と友人の早見に叩かれた。

「おーい、ジャージ会長」

「人を衣服で呼ぶんじゃないよこの制服庶民が。どうしたの?」

「愛しの先輩が呼んでるけど」

 早見の指差す先には、教室の入口で所在なさげに立っている静夜が居た。

「それを真っ先に言え」

 わたしはがたんと立ち上がり、静夜さんのところまで一直線に駆けていった。

「教室は走らない」

「はい」

 静夜さんはポケットに手を入れた。

「どうしたんですか静夜さん、わたしに会いに来たんですか?」

「それ以外で大学生の僕がこの教室に来る理由がありますか?」

 わたしは顔を覆った。

「くー……」

「どうしました?」

「噛み締めています。喜びを」

「倒置法……あ、それで用件なんですけど」

「あ、はい」

「これをあげようと思って」

 静夜さんがポケットからとりだしたのは数束の赤い刺繍糸と針のセットだった。

「昔刺繍に凝っていた時期があって、その頃の余りなんですけど。取れやすい部位は縫っておいたほうが良いですよ。それじゃあ」

「優しさの過剰供給ありがとうございます」

 九十度の最敬礼で静夜さんを見送って、ジャージのポケットに刺繍糸セットを大事にしまう。

 刺繍針は先が丸いので、わざわざ先の尖った針を用意してくれたみたいだ。

 細やかな気遣いにもう動いていない心臓がときめく。

 初等部の頃、わたしは裁縫クラブに入っていた。そこに静夜さんは居なかった。中等部の頃は旭も静夜も生徒会一本だった。家でやっていたのかもしれないが、自分に都合のいいように考えてしまう。それはつまり、旭のためにわざわざ買いにいってくれたんじゃないか、なんてこと。

 だって赤色ばかり数束も残る?

 あれ、恋してますって言えないの、結構つらいかも。

 机に突っ伏して、刺繍糸を握りしめる。

 死なないためには、好きって言って静夜さんが振り向かなければいいだけだ。

 でも、ああ、どうしよう。

 こっちを向いてもらいたい。

 好きって言ってもらいたい。

 欲望が生まれてしまった。

 否、違う。

 欲望に気づいてしまっただけだ。旭はずっと前からこっちを向いてほしかったのだから。だから願い事だって【先輩と結ばれるまで死にませんように】だったのだ。

「生田ぁ」

 旭は生徒会副会長、自分の懐刀であるところの生田潤一に話しかけた。生田は初等部の頃に旭が直々にスカウトして副会長にした賢い男子生徒だった。

「何?」

「ゾンビと人間の恋愛ってどう思う?」

「小説の話か? まあ、普通に考えて化け物と人間の恋路は難しいんじゃねえの」

 化け物。

 その言葉が胸に刺さった。

 あ、化け物か。そうか、ゾンビは化け物だ。

 この赤い色の刺繍糸、小指と小指に縫い止めたいけど。

 でも駄目だよね、先輩は人間でわたしは化け物なんだから。

 ああどうしよう。

 よく考えてなかったけど、恋人にならずに静夜さんの一番側にいることって、実は結構――つらいことみたいだ。

 教室の前のドアが開いた。

「きりーつ」

 旭は立ち上がる。

「礼」

 授業に集中しなきゃ。

「着席」

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