第12話 こころの裂傷

 湯船に浸かってふうと息を吐いた。今日はいろいろなことが起きすぎた。轢き逃げ犯は自首しただろうか? 自首したとしても被害者の身体が忽然と消え去っているので警察も首を傾げているだろう。

 左足を持ち上げる。ちゃぷん。大腿部に裂傷があった。今日散々もげた右前腕部にも。主な出血はここらあたりからだろう。髪を洗ったときに頭をチェックしたが傷口は見当たらなかったので。

 顔に傷ができなくてよかった。

 静夜さんと視線が合わせられなくなるところだった。

 いや、今でも既に合わせられないけど。恥ずかしいからね。

 いやそもそも顔に傷が出来たら社会生活に支障をきたしてしまうわ。そっちが先だった。

 まず静夜を第一に考える旭の思考回路は習性のようなものだった。

 ざばっと湯船の水面に顔面をつける。呼吸が必要なくなったのでいつまででも水面に顔を浸けていられた。水中で瞬きする。

 あー、結婚してえー。幸せな家庭を築きてえ。でも無理だよね、ゾンビだもん。いやそれ以前に静夜さんと家庭を築けるヴィジョンが浮かばないし。

 熱いお湯に浸かっている筈なのに、心の中は冷え切っていた。

 あーあ、ゾンビか。昨日までは可愛い女の子だったのにな。

「あーがろっと」

 ざぶん。湯船のお湯が少し揺らいだ。


 アイスアイス、と思いながら冷蔵庫へ向かったがそういえば消化器官が働いていないであろうことを思い出す。

「晴日ー?」

「何?」

 リビングでテレビを見ていた晴日がこちらを見た。

「わたしのアイス全部あげる」

「お姉さまどうなさったんですか」

「いや、考えたらわたしそういうカロリー高いもの口にできないし」

「あーそっか。じゃあ新作アイス出たら美味しそうに食レポするわ」

「それはそれでなんか悔しいな」


 旭は階段を上って自分の部屋に行った。スクールバッグから数学のワークを取り出し、ゼミでやっていた分の続きを予習する。ノートを作って、わかりやすくまとめる。それはいずれ晴日のためになるだろう、と思いつつ。今、一年のときに旭が使っていたノートが彼の役に立っているように。基本的には弟がかわいい旭であった。


 気がついたら深夜一時になっていた。全教科の予習を終えた旭は、うーんと伸びをする。が、あまり身体が伸びなかった。どうやらゾンビの身体は伸縮性があまりないらしい。

 まあいっか、と軽く流し洗面台へと向かう。新陳代謝とかするのかなこの身体。歯磨きをしながら考える。スキンケアはどの程度までやればいいんだろう。とりあえず乳液までは叩きこんどくか。

 ベッドに横になる。好きな音楽を流しながら目を瞑る。


 ――眠れない。

 おかしいな。いつもこの時間帯には眠気がきている筈なのに。

 テレビで何かの動画でも見るか、とリビングに降りると父が居た。

「あ、お父さん」

 父は在宅で仕事をしている小説家なので昼夜が逆転しているのであった。一日顔をみないこともざらにある。

「旭、今日はどうだった?」

「ごめんなさい、静夜さんにバレちゃった。でも静夜さんは受け入れてくれたよ」

「月岡くんには驚かされるな」

「静夜さんのことだからきっと誰にも言わないし」

「――なんだか、悲しいな」

「悲しい? わたしまだ生きてるよ? たぶん。どうして?」

「普通の人生を歩むことはできないだろうからね」

「それはそうかも。でも、飢えないし、仕事は選べばできるだろうから、生きては行けると思うんだ」

 父の隣のソファに座った旭の頭を父は黙って撫でた。

「もしかして、眠れないのかい?」

「うん」

「それもゾンビ化の影響かもしれないね」

「あっ、そうか。そうかも」

「だとしたら辛いな。いつでも書斎に来ていいからね」

「わかった、ありがとうお父さん」

「その腕の傷は痛くないのかい?」

「全然痛くないよ。痛覚がなくなっちゃったみたい」

「そうか。でも、お母さんと晴日に見られたら大変だから、長袖を羽織っておきなさい」

「あ、そっかあ。そうだね、そうする」

 父はまた悲しそうな顔をした。繊細な人なのだ。そこは静夜さんと少し似ている、と感じた。

 もしかしてわたしファザコンなのかも。父を静夜さんに投影している? いやそれは違うな。違うと信じたい。

「お父さんの小説の草稿読ませて」

「いいよ。夜はそうして過ごそうか」

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