第45話 紙ナプキン
あの時はどうしていた? 新しい患者さんにはどう対応した? うつの症状と薬の副作用で死んだような目をしていた梅小路と初めて会った時、どう対応した?
人は一人一人違う。
教科書通り、文献通りはもちろんのこと、経験通りにやってもうまくいかなかった。
今うまくいかないのは当たり前だ、目の前の梅小路ではなく想像の梅小路を考えているのだから。
新谷は、ミッションスクールの制服に身を包んだ梅小路をできるだけありのままに見る。
どんな会話に嬉しそうにして、不愉快そうにしているのか。仕草、目線、気配、言語・非言語的コミュニケーションを総動員する。
「そうですか」
「それって、あなたの意見ですよね?」
だがそれでも、彼女から笑顔を引き出すことはできなかった。
数年の差がここまで大きいのか。あるいは今の梅小路にとって新谷は初対面だからか。何を言っても彼女の心に届いている気がしない。
話すたびに彼女が自分を見る視線が冷たくなっていく気さえする。そのたびに未来で笑っていた彼女のことを思い出してしまう。
もう、どうでもいい。
「なんですか、その顔」
突如、彼女の声に険がまじった。
「私を心配しているような顔をしていたかと思えば、突然死んだような目になって。あなたにとっての私は、そんなにも気持ちわるい人間なんですか」
違う。
そう言いたいのに言い出せない。また嫌そうな目をされそうで。
「急にだんまりですか」
梅小路は、唇をへの字にして雀色の髪の毛をくるくるともてあそぶ。こよりを作るようにねじったり、先端を筆の先のようにしてつんつんともう片方の手で撫でたりと。
未来では腰のあたりまで伸びていた雀色の髪の毛は、今では肩の高さまでしかない。
「その雀色の髪の毛…… 未来では、そんな風にしてなかったな」
「未来の私は、どんな髪だったんですか?」
「腰まであるロングだったな……」
「色は?」
「いまと同じ、きれいな雀色。艶やかで、日の光を受けると天使の輪が綺麗で…… 見ててほれぼれするくらいだった」
ふと、梅小路がうつむいていることに気が付く。相手の目を見て拒絶の感情をあらわにするのが常な彼女にしては珍しい。
「どうしたの?」
「な、なんでもありませんよ……」
梅小路は残っていたケーキを勢いよく口に運び、二、三口噛んだだけで飲み込んでしまう。それから梅小路は机においてある紙ナプキンを一枚とり、口もとを拭った。
そのまま彼女は席を立ち、足早に店を出ていく。
「駄目だった……」
新谷は椅子の背もたれに深く体を預け、脱力した体をかろうじて支えた。
何を言っても彼女の心には届かなかった。
この時間軸では、もう彼女の恋人にはなれない。いや、この時間軸のまま大学や社会人にまで進むのなら三十代の自分に戻ったところで同じことだろう。
体のどこにも力が入らず、新谷は呆けたように天井を見上げる。真っ白な天井に吊るされた明るい色合いの電灯が、失恋など知ったことかと言わんばかりに輝いていた。
「こんなに落ち込んだのは、就職浪人した時以来だ……」
追いかけようとしたところで、カップの下に挟まれた紙ナプキンに気がついた。
新谷はズレがないように丁寧に畳まれたそれをゆっくり開く。
『○○○ー✕✕✕✕ 私の連絡先です』
新谷は急いで連絡先の番号をメッセージアプリに登録し、梅小路に連絡を取る。
まるで待ち構えていたかのように、新谷のスマホにメッセージが届いた。
『あなたは正直、怪しい人です。個人情報まで調べ尽くす新手のナンパか、妄想癖か、若年性認知症か…… 色々と疑いましたが、でもあなたを信じることにします』
『ありがとう。でも、なんで……』
「おべっか、口先だけの心配、自己満足と変わらない優しさ。そんな人間はいくらでも見てきました。ですがあなたの言葉は、どれとも違いました。それに祖母譲りのこの髪の毛を、褒めてくれましたから」
梅小路からメッセージが来た。
自分を、受け入れてくれた。
たった数行のメッセージが、涙が出るほどに嬉しい。いや、新谷の目からは既に涙があふれていた。
ポケットのハンカチで涙と鼻水を拭うと、新たな通知を知らせる音がスマホから聞こえてきた。
『ああ、それと』
『あなたとお話しするの、楽しかったですよ? 』
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