第34話 包丁

 無数の水滴がタイルの床を叩き、小雨に似た音を響かせる。


 鏡に映った梅小路の身体を、シャワーの蒸気が一時的に覆い隠していた。


体についたボディーソープを肌が荒れないようにしっかりと洗い流した後、梅小路は湯船に体を沈めた。


 一人暮らしでも、手足がのびのびと伸ばせるほどに広い浴槽。


 お風呂に入ると胸が浮くようになったのは、いつごろからだっただろう。Cをかろうじて超えるバストは、彼女の手や顔と同じ処女雪の色をしていた。天井から滴る水滴が、処女雪の頂で色づく赤い実を叩く。


「んっ……」


 一人なのでくぐもった声を抑える必要もない。軽く自らの柔肌を弄び、梅小路は顔まで湯船につかる。


「……」

「……」


 すでに火照った顔がさらに熱を帯びていく。じっとりと素肌に流れる汗が、入浴のためお団子にした髪を伝わった。


 誰にも見られていない。防音設備のしっかりしたマンションだから誰かに聞かれているはずもない。


それなのに行為を終えた後はなぜこんなにも恥ずかしいのだろう?


「でもこうやって楽しめるのも、新谷くんのお陰……」


 うつ病がひどかったころは入浴する気力さえなかったから、髪は脂でべたつき、肌は垢まみれ、腕や脇に鼻を近づけると自分でも顔をしかめてしまうほどの悪臭がした。


 でも今はお風呂に入って体を洗い、湯船で自分の肌に見とれるくらいのゆとりはある。


毛並みの柔らかなバスタオルで髪の湿気を丁寧にふき取って自室へと向かった。


部屋に散乱していた衣服や下着は、突っ込まれるとしか言いようがない状態だがある程度タンスにしまわれるようになっている。


机の前に腰掛けると、彼女の自室にシャーシャーという音が響き始める。


 テーブルの上に置かれたのは砥石と洗面器に入った水、それに古市で買った上等な関の包丁。


 一定の角度を保つように気を付けながら、鈍色に輝く包丁を砥石の上で往復させていた。


 包丁を砥石で研ぎ、水で砥石の粉を洗い落として再び研ぐを繰り返す。


 刃紋が照明の光を鏡のように反射するようになったころ、梅小路は刀身に付いた水をタオルでぬぐった。刃を丁寧に扱うその指先と脳裏には、憎い相手のはらわたが思い浮かんでいる。


傍らにはずたずたにされた編みぐるみが数体、転がっていた。


「またこわれちゃった。新しいのに付け替えないと」


バックからぶら下がった手足のない編みぐるみを外し、新たに作ったものと取り換える。


「新谷くんにあんな痛い思いをさせた富田とか言うクズ、絶対に許さない」


「新谷さんのような救世主にも等しい存在に、富田のようなクズ男が話しかけるだけでも死刑に値する大罪なのに。あまつさえあんな暴力を振るうなんて」


「絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対、許さない」


 包丁を研ぐ音は明け方まで止むことはなかった。


 だがこの怒りの矛先は、富田が留置場に入ったため事件に発展せず幕を閉じることになる。


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