第33話 うつからの回復

罪業妄想とは、ささいのことで自分を責め、自らが重罪人と思えてしまううつ病の症状の一つ。


前の時間軸でも、入院したばかりでまだ症状が重かった梅小路は


『私が悪いことしたせいで、こんな病気になった』

『家族に迷惑かけたから、退院しても私は刑務所にでもなんでも入らないといけないんだ』


と自分を責めていた。その時の姿が、今の彼女と重なる。


 だがどんな暗闇にも、光がさすときは来る。


 一緒に食事をし、時には下校し、彼女が前の時間軸でも好きだった自然の中を一緒に散歩する。そうやって新谷と同じ時間を過ごすうち、梅小路の表情に光が戻って来た。


会話が可能になってきたので、次の段階にうつることにした。


精神科でよく行う「作業療法」というリハビリだ。


手作業をしたり、軽い運動を行ったり、ボードゲームやゲームを共に行うことで生活リズムの構築、作業を行う体力の習得、人間関係の再構築に役立てたりする。


ここは病院ではないが大学の空き教室を借りて一緒に編みぐるみを作ったり、彼女がはまっているどうぶつを集めるゲームを買って一緒に遊んだりもした。


初めの頃は二人でバラバラにプレイしていたが、ある日のこと。


「あ、あの…… ゲームする時にも必要かもだし、色々お世話になってるから、だから、その、あの……」


 急に彼女がもじもじとし、呂律が怪しくなった時があった。


 発作の前兆かもしれない。新谷はゲームをプレイする手を止め、穏やかな笑顔を梅小路に向けて話の続きを辛抱強く促す。


 口を開きかけては閉じ、最近キューティクルの戻って来た髪を指に巻き付けてはほどく。そんなことを梅小路が五分ほど繰り返した後。


 新谷の口が動いた。


 なぜそんなことを言い出したのか自分でもわからない。出過ぎた真似だとは後で思ったし、医療従事者と患者の関係を明らかに逸脱している。


 だが、この時間軸では自分と梅小路はその関係ではない。それに何より。


新谷の方から言い出してくれるのを、ずっと待っているような気がした。


『女ってのは、いざって時は男の方から言って欲しいもんだぜ』


 翔太の言葉がふとよみがえる。


「連絡先、交換しようか」


 スマホを取り出しながら言ったその言葉に、梅小路の表情が華やぐ。さっきまでの不安と逡巡が嘘のように、天使のように純粋で幸せそうで無邪気な笑顔。


女とは、これほどに表情が激変することを新谷は初めて知った。


 連絡先を交換することにためらいはあった。彼女とある程度打ち解けられたのは未来で人となりをある程度知っているからで、ズルをしているような気分になる。


 それに年齢=彼女いない歴かつ童貞の新谷にとっては、三十を過ぎても異性と連絡先を交換するのはかなりハードルが高い。


 といっても、SNSでの連絡先の登録方法などろくにやったことがない。


 翔太と交換した時は電話番号とメールアドレスだったし、丹波口の際はスマホを彼女に手渡してやってもらった。


 QRコードなど、新谷にとっては何それおいしいの? の世界だ。手入力でとりあえず電話番号をお互いに入力し、SNSへの登録方法を片方がネットで調べつつ四苦八苦しながらやっとこさ済ませた。


めんどい。恋愛っていうのはこれほどまでにめんどいのか。新谷は改めてそう思う。

 だが、自分の連絡先が登録されたスマホを掲げて、宝石のようにキラキラした瞳で見つめる梅小路の笑顔を見ると。


「めんどくても、楽しいかな」


 新谷は改めてそう思った。



『おはようございます』

『今朝は通学中、セミの鳴き声が聞こえました』


 梅小路とのラインは丹波口と比べごくあっさりしている。休み時間ごとに送ってくるわけでもないし、文面も短い。


 だが文章そのものに気を使っているのも伝わってくる。書いては消し書いては消しを繰り返し、余計なことを言っていないかがひどく気になって、そういった梅小路の様子がスマホ越しにも想像できる。


『おはよう。ハルゼミかな? でも座命館大学は結構緑が多いし、秋になったらヒグラシもいるって』


 でもだからこそ、新谷も丁寧に返信する気になる。


徐々に梅小路にも生気が戻っていった。数口しか食べなかった食事も半分以上食べるようになり、身だしなみも戻って来た。


 初夏らしいワンピースを着てきたとき、「似合ってる」、新谷のその一言だけで顔が熟れた林檎の色になる。


 ようやく感情鈍麻が回復してきたことを確信し、新谷は安堵の息をついた。


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