第31話
顔のガーゼもとれ、痣も消えてきたころ。新谷はドアベルのつけられた木製のドアを開けた。
「いらっしゃいませー!」
中には私服の上からエプロンをかけた、丹波口の姿があった。
快活な笑顔でお客から注文を取ったり、飲み物を運んだり、軽く談笑しながら忙しくも幸せそうに立ち回っている。
彼女はチェーンのコーヒー店のバイトをやめた後、新谷に連れられた喫茶店、ここ「翡翠亭」でバイトすることにしたのだ。
求人広告に名前はなかったものの、喫茶店を経営する夫妻はどちらかが体調不良になった時に備えずっとバイトを探していたらしい。
初めは子育ての終わった知り合いに声をかけていたのだが都合がつかず、来店した丹波口が「ここってバイト探してへんのですか?」と聞いてきたのでその場で面接したところ、あれよあれよと採用が決まったという。
快活で接客業に向いていそうな丹波口とウマが合ったこともあるが、以前来店した時の暗そうな表情がずっと心配だったらしい。
(お客のこと、そこまで見てくれてはるんやな)
丹波口も夫妻にあっという間に懐き、コーヒーショップでの経験も活かせて場になじむことができた。
それだけではない。店員は丹波口をのぞけば年老いた夫妻だけなので、女子同士の噂で嫌な思いをすることもない。
安らげる場所を、丹波口はやっと手に入れることができた。
「やっぱり若い子がくると店の雰囲気が明るくなるねえ」
店内を忙しく立ち回る丹波口を、客たちは微笑ましく見守っている。新しく孫ができたようだということで、翡翠亭の売り上げも微増していた。
テーブルに使われているヒノキの香りがコーヒーのそれに混じり、近所の古風な家から聞こえる鹿威しの音が店内のクラシカルなBGMに混じる。
いわゆるおしゃれな店とはいいがたいかもしれない。実際、丹波口が思い描いていたバイトの風景とはまるで違っていた。
「でも、いいところやわ」 食品関係を考えていたが老人介護や福祉の分野に興味を持つ?
夢見ていたものとは違うけれど、夢よりも心地よい現実。
だが現実は時に、夢よりも脆い。
ドアベルが鳴らされて入店してきた人物を見て、丹波口は改めてそれを確信した。
バックにつけられた手作りの編みぐるみ。
ガーリーな白のワンピースに、足元からわずかにのぞく素肌を彩るのは革製のミュール。丹波口が幾度となくあこがれて結局着こなせなかったタイプのファッションを、ロングヘアーの少女は体の一部のようにまとっていた。
彼女と連れ添って入ってきたのは、うっすらと痣が残るビジネスカジュアル風の男子。もうちょっと大学生らしい服を着ればいいのにと思っていたが、今では彼の服が視界に入るだけで下腹部が疼くようになっていた。
「おー、うめとケンジ! 来てくれはったんか!」
胸は痛いが口角を引き上げ、目を細めて無理やりに作った笑顔で二人を出迎える。空いている席へと案内し、コーヒーと紅茶のオーダーを取る。店長夫妻がそれぞれ淹れたコーヒーと紅茶をヒノキの香りが残るお盆に乗せて運び、学友として不自然にならない程度に会話する。
それが丹波口には、どうしようもなく辛かった。
わかっていた。別に自分は新谷と付き合っているわけでもない。新谷が大けがをしてまで富田との件を解決してくれたのは、新谷だから。
同じような目に遭っているのがだれであっても、同様の行動をとったのだろう。
それなのに、彼の隣に立てないことが悔しい。
彼と一緒に出掛けられないことが辛い。
トイレに行ったときにスマホのSNSを立ち上げる。新谷とのメッセージのやり取りは簡単な挨拶だけしか残されていなかった。
「れんちゃん、三番テーブルお願い」
新谷たちのテーブルから追加オーダーが来たが、とても自信がなかった。
「すみません、行ってもらっていいですか?」
こういう時深く事情を聞かないのが、店長のいいところだ。
店長は優しい笑顔でただうなずくと、丹波口の代わりに注文を取りに向かった。
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