第20話 いもうと

「よく帰ったな……」


「お帰り!」


「お帰り、お兄ちゃん」


新谷が実家の玄関を開けると、待っていた家族が笑顔で出迎えてくれた。


彼の実家は父親が祖父母からお金を借りて建てた、郊外の一軒家だ。四人で住むにはやや広く駅から遠いものの、家の近くには魚の取れる川とカブトムシが住む林がある。


自然が好きな父親の意向だった。


五月の大型連休に、新谷は一月ぶりに実家に戻ってきた。


前の時間軸とまったく同じ。実家を離れて一人暮らしをしている自分を心配するメールを毎日送ってくる家族は、実際に顔を合わせて心配以上の喜びをあらわにする。


新谷の実家は座命館大学から電車で半日はかかる。


旅費がもったいないから帰らずにいようかと思ったが、さすがに心配をかけたくないので戻ることにした。


五十をすぎた父母は、十年後と比べ白髪もシワも少なく若々しい。


三年後に地元の国立大に入学する高校生の妹は 、まだ自分を尊敬しているようだ。


「さあ、積もる話もあるだろうが取り合えず中へ」


夕食の席で、父親が口を開く。メニューは新谷の好物ばかりだった。


あけ放たれた窓からは田んぼの香りを帯びた風が涼しくそよいでいる。


「健司、大学に入ってずいぶん大人びたな」


「あ、お父さんもそう思う?」


「そうねえ……前から大人びた子だとは思ってたけど、大学に入ってぐっと変わったわ。まるで社会人みたいよ」


「ありがとう。大学に入って、色んな人と出会えたからかな。例えば……」


 前の時間軸では、家族に対してさえ当たり障りのない会話しかできなかった。


 だが今は、父母の気持ちがよくわかる。精神科のリハビリでは両親と同じような年齢の人とも多く接してきた。


 父母が実家を出た自分をどれだけ心配していたのか、大学生の子を持った患者を多く担当することで、その思いに気が付けた。


だから両親の気持ちをおもんばかって、彼らが知りたいと思うことを話していく。

友人関係のこと、ゼミのこと、将来の話をできるだけ笑顔で、明るい調子で。


会話が進むたびに両親の顔はほころんでいき、食卓には穏やかな空気が流れていった。


 前の時間軸では卒業しても就職できなかったから早めに大学を辞めて専門学校に入り直すことも考えた。


 だが、両親に無用な心配はかけたくない。


とりあえず一年が終わるまでは、このままでいこう。


「ねえ、おにいちゃ~ん」


 家族による食卓の片づけが終わった頃、妹の響がニヤニヤしながら新谷に向き直ってくる。眼は三日月の形に細められ、口角は面白いほどにつり上がっていた。


ボブカットに眼鏡をかけたやや細めの眼、背は低めだがスレンダーな体形。容姿はそこそこだが磨けば光るタイプだと思う。大学に入ってあか抜ければきっとモテるだろう。


 前の時間軸でも新谷はそう思っていたが、妹も結局誰とも付き合わず大学を卒業した。


「お兄ちゃん、大学行って一か月経つとやろ?」


「そうだよ」


この展開は前の時間軸でもあったな、と新谷は過ぎ去った日々に思いを馳せる。


同時に新谷と違い、ずっとこの地方で育ってきた妹の訛りがなつかしく思えた。


「彼女できたと?」


「まだだよ」


 前はからかわれたのが悔しくて少しキレてしまい、場を白けさせたが今回はどうということはない。


 こういう話題にはもう慣れている。そもそも社会人では付き合ったのレベルでなく、結婚出産育休産休の話だ。付き合うというのは職場環境に直結するから、意外と真剣な話題になることが多い。


 だがそっけない返答を怒っていると勘違いしたのか、両親はわざとらしく笑った。


「はは、大人びてもそういうところは変わらんな!」


「ふふ、奥手なところは昔からね。でもそうからかうものじゃありません。お母さんたちも知り合ったのは今のあなたよりずっと年上だし…… 焦らなくていいのよ」


焦らなかった結果が、十年後なわけだが。


「で~も、大学で女子の友達くらいは、できたとよね?」


 だが高校生の妹は、なおもしつこく食い下がる。


「まあね。ついこの間、女子二人と一緒に昼食を食べたよ」


「……冗談言っとろ?」


「冗談じゃないから。一人はもとチアリーディング部っていう、賑やかな子。連絡先も交換した。もう一人は大人しい子で、ゲーム好きらしい」


 淡々と答える新谷に嘘くささを感じたのか、妹はなおも知り合った女子について問い詰めてくる。どんな相手か、どうやって知り合ったのか、デートに行ったことはあるのか。


会話を続けてもなかなか妹は信じなかったが、スマホでラインの画像を出すと目を丸くしていた。


「お兄ちゃんが、お兄ちゃんが、チャラ男になっとう……」


 日がすっかり落ち、窓の外の庭木が夜の色に染められる頃。


妹の響がうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。より細められた眼鏡の奥の瞳が糸を描き、上体がゆらゆらとかしいでは戻るを繰り返す。


「あら、響はおねむみたいね」


「そんなこと、なかとよ」


 響は弱弱しい抗議の声を上げるが、椅子から立とうとするのも難儀そうに見えた。

 健司は流れるような動作で椅子に座った妹の前で腰を下ろすと、彼女が背中にしがみついたのを確認してゆっくりと立ち上がる。


 体が弱かった妹をこうやって部屋まで運ぶのが、物心ついたときには兄である自分の仕事になっていた。


 少しずつ大人になっていくのを背中の重みと感触で実感しながら、彼女の部屋へ続く階段を一歩一歩登っていく。


「妹を負ぶったのは、前の時間軸ではこれが最後だったな」


 徐々に肉親離れしていったこともある。だが大学生活が上手くいかず、就職試験に次々と落ちていく自分のみじめな姿の影響の方が大きかっただろう。


 部屋の前にたどり着くと、肘と足で器用にドアを開けた健司は純白のシーツがかけられた妹のベッドにゆっくりと彼女を下ろした。


 横になるや穏やかな寝息を立て始めた響の髪をなでつけ、新谷は静かにその場を離れようとする。


 だが、軽く袖を引っ張られる感触にベッドの方を振り向くと、妹の唇が小さく動いたのが見えた。


「お兄ちゃん…… 戻ってきてくれて、ありがとう。ぎゃん大好き」


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