第17話「良い人」が精神を病む理由
「今回は、ありがとう。おかげでだいぶ気が楽になったよ……」
「気にしなくていいよ。僕がやりたくてやっただけだから」
そう言いながら新谷は日替わり定食のご飯を口に運ぶ。
梅小路は少し高そうなサーモンのパスタとコーヒーのセットだった。
梅小路に誘われ、新谷はカフェテリアで昼食を共にしていた。自分たちの学部とは違う校舎内。前の時間軸で四年通った新谷にはなじみの場所だ。
高校と違って大学のキャンパスは広く、食堂も複数ある。ここなら基礎ゼミのクラスメイトと顔を合わせることも滅多にない。
できるだけ、意識しないように。新谷はそう思うのだが、向かい合って彼女と食事とを共にするといやがおうにも目が吸い寄せられてしまう。
薄くファンデーションが塗られ、より白さを増した肌。
リップが塗られ輝くような唇。
まつ毛をいじっていなくても、つぶらで魅力的な瞳。
前の時間軸では担当の患者ということで心を静かにして見られたし、入院していた時は病衣ということでオシャレでもなく、髪はぼさぼさ目ヤニはそのまま、口臭が漂うときさえあったのであまり心乱れなかった。
精神の病気が重度になると、身だしなみをおろそかにしても気にならなくなることがあるのだ。
だがこうして身だしなみを整えた彼女の姿は破壊力がケタ違いだ。
「というか、おごってもらって、ありがとう」
「気にしないでいいよ。それより、嬉しそうにしてくれると私も嬉しいな」
そう言う梅小路の笑顔には裏がない。
どうしてこんないい子が苦しんで、冷淡な人間が得をするのだろう。
精神医学でも、いわゆる「いい人」が精神を病みやすいとされる。
学校でいじめられても、ブラック企業で理不尽な仕打ちを受けても、相手に責任があると思えない。
他者に責任を押し付けない。
いつも自分に原因があると思い込み、自分さえ我慢すれば。自分が行動を変えれば。
そう思って、現実に対処しても結果は何も変わらず。
精神をすり減らし、やがて社会からドロップアウトしていく。
世の理不尽にいきどおりながら、新谷は定食のサバをかみしめる。骨がすこし歯茎に刺さるが構わずかみ切って飲み込んだ。
新谷の視線の先には、先日までよりずっと自然に笑えている梅小路がいる。
梅小路は右手に持ったフォークだけで器用にパスタを巻き、口元に運ぶ。白い喉がごくりと鳴るのが妙に艶めかしい。ピアニストのように可憐に動く指先が銀色のフォークをもてあそんでいた。
「そ、そんなに見られると恥ずかしいから……」
「ご、ごめん」
リハビリ職のサガか、手の動きを熱心に観察してしまっていたらしい。精神科には手や腕の骨折などを合併している患者さんもいた。
いわゆる、「変な空気」が流れる。周りの音が気にならなくなって、目の前の異性のことだけが世界のすべてに感じられるようなそんな感覚。
前の時間軸でこの年の頃なら、新谷はただテンパるだけだった。
だが今は、ある程度余裕をもって自己を観察できる。
そして動じない男とは、女を刺激する。
梅小路や丹波口以外にも新谷が女子の間で話題に上がることが増えていたが、本人は知る由もない。
突如、鞄の中のスマホが鳴りひびき、二人の間の甘い空気が霧散する。とたんに周囲の視線が気になり、視線を左右に巡らせた。
「あの二人……」
「他の学部の子かな?」
「おい、お前声かけて来いよ」
「やだって、絶対付き合っとるぜよ」
新谷は大急ぎで定食のご飯をかきこんでいく。急いでいても、ご飯つぶは一粒さえ残すことはなかった。
「スマホ、見ないの?」
空気をごまかすかのように梅小路が言う。普段はひんぱんにスマホを確認しない新谷も、今回は彼女の言葉に従った。
『ケンジ今どこおる? お昼まだ? よかったらウチと一緒に食べへん?』
『ごめん。友達と食べてるから』
新谷はそれだけの文面でスマホを機内モードにした。
「丹波口さんと、これ以上仲良くなると悪いからなあ……」
時間は五月の大型連休前。そろそろ、彼氏ができる時期のはずだ。
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