第30話

 僕らが一面の星空の下から煌々と輝く太陽の下へと舞い戻ったのは、ちょうどお昼時のことだった。


 お互いに言葉もなかったけれど、同じく鑑賞終わりの集団に流されて僕らは詰め込まれるようにエレベーターへと乗りこむ。そして、ゆっくりと加速する感覚を味わいながら、ホールボタンの上にある階数表示の数字が徐々に減っていくのを僕はぼんやりと眺めた。


 静寂と朧げな星々に支配された僕の脳は、未だ呆けたままで、頭の中にある真っ黒で、それでいて不思議と安心感のあるキャンバスを中央に据えて、悦にいっていたのだ。

 けれど、減り続ける数字がテンカウントを刻み始めた頃、ようやく僕の頭は本来の目的を思い出した。


 そうだよ! このまま帰っちゃ駄目じゃないかっ⁉


 先輩から押し付けられた役割は、綺麗になにひとつ片付いていない。これじゃ本当にただただプラネタリウムを鑑賞しただけになってしまう。

 余韻に浸りきっていた頭に喝を入れ、脳を全力で回す。しかし当然のことながら、僕は物語の主人公ではなかった。天才的な思考力も、並外れた機転の良さも持ち合わせてなんていないのだ。


『一階でございます。ドアが開きます』


 機械的な音声が指定階への到着を告げた頃、僕の頭の中は真っ白に染まっていた。

 押し込められていた人々が三々五々に散っていく。エントランスホールを抜け外に出ると、その多さに眩暈がしてくるほど人に溢れていた。

 油断すると一瞬で会長の背中を見失ってしまいそうだった。僕はその背中が背景に溶け込んでしまう前に、カラカラに乾き切った喉でどうにか一言だけ言葉を捻り出す。


「あ、あのっ! この後少しだけ時間を貰えませんか?」


 気が利いた言葉とはまったく言えなかったけれど、それが僕の精一杯だった。


 

 悠月会長は僕の提案を了承してくれた。

 頷く彼女の面持ちは、まるで僕の言葉を予想していたかのように落ち着いていた。


 約束を取り付けられた安堵と同時に、僕の体は寒さを思い出す。ピューっと風が吹けば顔が凍ってしまいそうになった。

 このまま立ち話をしていては風邪を引いてしまいそうだったので、会長と相談し、僕らは近くのファミリーレストランへと入った。


「いらっしゃせー」


 妙にダルそうな店員さんに席へと案内され、先に注文を済ませる。そうしてひと段落し、一息ついたタイミングで――僕らは顔を見合わせた。

 視線が交錯する。金縛りにあったみたいに体がピタリと止まる。なにか話さなきゃいけない。せっかく時間を作ってもらったんだから。


 でもなにを――?


 そもそも僕は知らないことが多すぎるんだ。未だに暁さんと悠月会長の確執の原因がなんであるかも知らない。


 ならいっそ訊いてしまおうか?

 しかし、素直に答えてくれるとも思えない。

 じゃあどうすれば……


 堂々巡りの果て、なんとも情けない話だけれど、先に沈黙を破ったのは会長の方だった。


「あんなみっともない姿を見せてしまったんだもの。気にしないでっていう方が無理な話よね……」


 後悔の滲んだ声だ。

 しかし、彼女の言葉とは裏腹に僕は彼女のみっともない姿に覚えがなかった。


「みっともない……ですか?」


 僕が素直な感想を告げると、彼女は頭を抑え、ひどく嫌そうに言った。


「……貴方、確か妹さんがいたわよね?」


「え? ええ。妹が一人いますけど……」


 どうして急にそんなことを?


「そう。じゃあ、その妹さんと本気で喧嘩しているところを知り合いに見られたらどう思う?」


 ああ……それは……


「死ぬほど恥ずかしいですね……」


「そういうことよ……」


 わかってしまうがために、返す言葉がなかった。


「と、とにかく! いろいろと巻き込んでしまった貴方には、説明するべきだと思ったのよ。本当なら身内の恥を晒したくはないのだけれど」


「説明、ですか?」


「……私がどうして自由部を辞めたのか。貴方は知りたくはない?」


 思わぬ提案に僕は驚いた。彼女はきっとひた隠しにするだろうと思っていたから。


「貴方を巻き込んでしまったのは、私の責任でもあるから、黙っているのもフェアじゃないでしょ。それに――話したところでなにかが変わるわけでもないしね」


 迷いを振り切るように彼女はそうこぼすと、僕の目をじっと見て言った。


「簡潔にいきましょう。貴方は父を知っているわよね?」


「……はい。一度だけ会ったことがあります。あの、前に会長とも会った市民会館で」


「あんなところにいたから、そうじゃないかと思っていたけれど……やっぱり。なら、父の職業も知っているでしょう?」


「市長、でしたよね?」


「ええ、そうよ。そして――明け透けに言ってしまうなら、私は父の後を継ぐことを期待されているの。まあ、元々は姉さんが受け継ぐ予定だったんだけれど」


 父親の後を継ぐ。所謂ところの二世議員というやつだろうか?

 僕には想像もできない世界だ。


「えっと、元々はってことは、先輩は拒否したんですか?」


「……ええ、半年ほど前に突然ね。ほんと困ったものよ」


 暁さんが拒絶したことで、そのお鉢が悠月会長に回ってきた――ということなのだろう。

 自分よりも遥かに年上の人々に、突然に、そして一斉に期待を寄せられる。

 果たしてそれが一体どれほどの重圧であるのか。僕にはそれこそ想像がつかなかった。


「まあ、なにはともあれ――私がもうあの部に居られないのはそれが理由。片手間で政治家なんて目指せないでしょ? 勉強に、生徒会に、人脈作り。ほんと猫の手も借りたいくらいよ」


 その両肩に乗った重みなんてまるで感じさせないほど軽やかに。ただの世間話でもするかのように起伏もなく。軽い冗談さえ混ぜて彼女は言う。


 僕は改めて思った。

 強い人だ、この人は。

 僕なんか比較にならないほどに人間ができている。


「幽霊部員が認められていたなら籍くらいは残せたんだけれど、規則で認められていなくてね。さすがに生徒会長が規則違反だなんて笑えないし」


 どれだけ辛くても、どれだけ不安でも、一人で気丈に振る舞って、すべてを丸ごと背負ってしまう。背負ってしまえる。普通ならばとっくの昔に潰れてしまってもおかしくはないだろうに。自分よりも遥かに大きなものを支えて、歩いて、それでも表面上は取り繕えてしまっている。


「そのせいで貴方には迷惑をかけて申し訳ないとは思っているわ。でも、どうかあの子達をお願い。姉さんのことは……まあ、適当に流していいから」


 ――きっと彼女はやり遂げるのだろう。

 周囲の期待を見事にこなし、壇上で劇を披露する役者のように晴れやかに笑って見せるのだろう。観客にはその努力を垣間見せるまでもなく、すり減らした心を隠し切って、余裕たっぷりの笑みで手を振って声援に答える。

 彼女が実際に役者であったなら、それを望んでいたのなら、それで良かったのかもしれない。


 でも――


「会長は……」


「ん? なに?」


「今――楽しいですか?」


 自然と言葉が出ていた。

 ほんの数ヶ月前に僕が夕星さんに言われた言葉。あの時の僕と今の彼女は瓜二つのように見えたから。

 無理をして虚勢を張って、我慢し続ければいずれは事態が好転すると愚直に信じている。

 そんな彼女の顔は泣いている子供のように見えた。


「楽しいとか、楽しくないとか、そんな次元の話じゃないのよ。みんな私に期待してくれているの。子供の頃からずっとお世話になってきた、佐藤さんも、宮本さんも他のみんなだってそう。なのに――その期待を裏切れっていうの、貴方も?」


「いや、そういうわけじゃ……でも、会長がやりたいことは……」


「貴方は――優しいわね。でもいいのよ、もう。これは運命なんだから」


 うん、めい……?


「人の人生は生まれたところで全てが決まる。決定論は絶対的にその人の在り方を決めてしまっていて、変えることなんてできはしないわ。それはきっと神様にだって。だからね――」




「――仕方ないのよ」

 



 吐き捨てられた言葉の中に、もう彼女はどこにもいなくて、冬の寒さすら忘れてしまうほど、僕はそのことに寒気を覚えた。

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