第29話
一体いつからだったろうか?
僕が馬鹿みたいな妄想に取り憑かれてしまったのは。
――僕はモブだ。
背景にすら写らないタイプのモブ。
誰にも知られず生きて、誰にも知られないままに死んでいく。そんなつまらない人間だ。
なのに、暁さんに出会って、あの人の物語にふれて、あれよあれよという間に表舞台に引きづり出されて、いつの間にか勘違いをしてしまっていた。自分が物語の主人公になったみたいに錯覚をしてしまっていた。
無駄に考えて、無駄に行動をして、そうやって自己満足に浸る。
――反吐が出るような思い上がり。
だけど、僕はどこまでいってもモブのままで、壇上に上がってどれだけ喚いたところでその本質は変わらない。僕は暁さんの物語を飾るちょっとした役回りを貰っただけ。しかも、それはほとんど偶然で、僕である必要性なんて全くなかった。
当然の帰着。必然の結論。
人の本質なんて初めから決まってしまっているんだ。どうしてそんな当たり前のことを僕は失念していたのだろう。
僕は僕の役回りをまっとうする――ただそれだけしかないというのに。
ぐずぐずに擦り切れた目で僕は手に持った紙切れを見やった。それは先輩からあの後手渡されたもの。満天の星空を思わせる画像を背景に、鑑賞引換券という文字と予約日時が印字されている。見た限りはプラネタリウムの鑑賞券。行ったことはないけれど、恐らくは駅前にあるビルの屋上かどこかにあったはずだ。スマホで少し調べればすぐにでも判明するだろうけど、今は気怠さが勝って調べる気にはなれなかった。
僕はチケットを放り、電気を消してベッドの中へと転がり込む。エアコンを少し前に止めていたせいか、部屋の中は早くも冬という季節を思い出しつつあるようだった。布団から出ていた腕が凍りつくように冷たく、痛い。
僕は腕を布団の中に引っ込めて、胎児のように丸くなった。そうしていると、じんわりと暖かさが身に染みてくる。ずっとこうしていたい――そんな風にも思ってしまう。
ただ、そんな思いに反して、なぜだか無性に息苦しかった。
◇
その週の土曜日。
僕は先輩から受け取った鑑賞チケットの時間通りに、その場所へと到着していた。
どうして暁さんがこのチケットを僕に渡したのか。その思惑は、おおよそながら僕にもわかっている。当然ではあるけれど、ただプラネタリウムの鑑賞をさせるために渡してきたわけではないだろう。とすると、鑑賞という行為よりも、この場所に僕がいること自体に暁さんなりの意味があると考えるのが自然だ。
――プラネタリウム。
僕にとっては縁もゆかりもない場所である。けれどだからこそ、記憶の奥底を辿っていくとそれに繋がる一本の糸がはっきりと見えてきた。
『ここで星空を見上げるのが好きなんだ』。
初めて悠月会長と会った夜に彼女が言っていた言葉だ。
星空とプラネタリウム。
それはか細い線ではあるけれど、関連性があると言っていいものだろう。であれば、この場所に僕を来させた意味は、恐らく悠月会長がらみのことだ。
あの二人の関係が拗れに拗れていることは、この間の会話を聞いただけでもある程度はわかったし、先輩自身がその拗れを解決することは見た限り難しそうだった。
なにせ喧嘩の当事者。しかも、姉妹喧嘩だ。どんなことを言ったところで火に油。良い結果が得られることはないだろう。
思えばあの時、先輩は悠月会長を説得しようとしていたようにも見えた。
結果として失敗に終わったけれど、暁さんとしても今の状況を改善したいとは思っているのだろう。なら、今回の僕の役割は、おおかた会長と暁さんの仲介役といったところか。ずけずけと第三者として間に入り、わだかまりを解決しろ。もしくは状況をかき乱して、改善の機会を作れ。求められているものとしてはそんなところだろう。
……まったく駒使いの荒い人だ。
まあなんであれ、流されることしかできない僕としてはただ従うしかないのだけれど。
そう思うと、心がささくれだって、チクリと痛んだ。
「……Fの十五、Fの十五」
僕はその痛みを誤魔化すように、チケットに記載された番号を口ずさむ。
A、B、C、D……
お椀状になっているフロアの階段を一段ずつ降りながら、席の後ろについた番号を確認する。
……E、F。
ここだ。
顔を上げ、自分の席と思しき場所を見つける――と。
その瞬間――全てが吹き飛んだ。
それまで考えていた暁さんの思惑とか僕の個人的な感傷とか諸々の事柄が頭から全て。
絶句。ただただ絶句。
網膜に写る目の前の光景を僕は信じられなかった。
大人二人がゆうゆうと寝転べるほどの広さ。映画館の座席のような角張ったそれではなく、丸みを帯びた形状。椅子というよりベッドと形容すべき目の前のそれは――所謂カップルシートというやつだった。
あ、あああ、暁さんめぇえええ――――‼
あははははと、頭の中で笑い転げる先輩の幻影に全力で恨み言を浴びせかけながら、僕は立ちすくむ。
座りたくない。座りたくない。座りたくない。――ただ座らないことには始まらない。
僕の中で感情と常識がせめぎ合う。
せめてこれが、それこそ彼女同伴であったなら(そんなことはあり得ないのだけど)まだ抵抗感も少なかっただろう。けれど、このシートに僕一人がちょこんと座っている光景を想像すると、気恥ずかしさのあまり蒸発してしまいそうだった。
ただ流れ的に当然と言えば当然のことながら――このシートに座るのが僕だけであるはずがなかった。
「貴方……なんでここに……」
唖然と固まる僕の背中から、ほどなく聞き覚えのある声がかけられる。振り向くと思った通りの顔がそこにはあった。
「ゆ、悠月会長……」
言葉は続かなかった。
先輩に対しての罵倒の言葉は暗記したての数学の公式よりもするりと出るのに、この状況を正しく説明できる言葉はどうしても湧いて出てこない。
困り果て、沈黙する僕。
しかしありがたいことに、彼女の明晰な頭脳は瞬時に状況を正しく理解してくれた。
「……姉さんね」
僕はこれ幸いと、安い玩具の人形みたいにコクコクと頭を振って肯定を示す。こんなことを僕自身が画策しただなんて絶対に思われたくなかった。
「まったく……」
そんな僕の様子を見て彼女はため息をひとつ吐くと、シートに勢いよく腰を下ろす。
そして、小声で口早に告げた。
「貴方も早く座りなさい。……恥ずかしいでしょ」
「は、はい……」
シートの前で二人揃って突っ立っていたせいか、気づくと周りの注目を集めてしまっているようだった。僕は言われた通り、速やかに席へと座る。しかし、これで一安心――とは残念ながらいかなかった。
カップルシートだなんて言われるだけのことはある。はたから見る分には大きく感じたそれも、こうして座ってみると途方もなく狭く感じた。隣に座る会長の存在がもの凄く近く感じる。
いや、実際に近いのだけれど、そういうことじゃなくて――ああ、なんと言えばいいんだろう。
意識すれば意識するほど、どうしようもなく胸の鼓動が高鳴って思考が乱れていく。近頃は部のみんなと話すことも多いけれど、少し前まではボッチスタイルがデフォだった僕だ。さすがにこのシチュエーションは難易度が高すぎる。
プスプスと頭がオーバーヒートする感覚に苛まれながら、どうにか気を紛らわそうと僕は言葉を捻り出した。
「あ、あの……不躾かもですが、悠月会長はどうしてここに?」
「えっ⁉ ああ、えっと、そうね。私は美森さんにチケットを押し付けられたのよ。少しは気晴らしも必要だって」
「美森さん?」
「副会長よ。まったくあの子まで姉さんに誑かされているなんてね。……今度きつく言っておかないと」
そう言う彼女の表情は、言葉とは裏腹に優しさのこもった笑みを湛えていた。
「まあ、私としても最近はちょっっとだけこんを詰めすぎていた自覚はあるし、あの子もあの子なりに私のことを考えてくれたんでしょうから、あまり怒るのも良くないかもしれないけれど。それにしたって一言くらいあっていいと思わない?」
口早に言う彼女の言葉はどこか言い訳じみていて、僕はついつい笑ってしまう。
「な、なんで笑うのっ!」
「……すみません。会長って意外と不器用な人なんだなって」
「な、なにを――⁉」
「だって会長、まったく怒ってないでしょ? どころか、少し嬉しそうでしたし」
「そ、そんなことないわよ⁉ 私はただ公平に物事を見定めようとしているだけで、決して美森さんに甘いとか、そういうことでは――だからなんで笑うのっ‼」
優しい人なんだな、と改めて思う。
夕星さんや小箒さんのことにしてもそうだけれど、他人の幸福を、他人からの好意を、彼女はなによりも大事にしてくれる。そんな彼女のことを見ていると、自然と肩の力が緩み、笑みが溢れてしまった。笑いすぎたせいか、強めに小突かれてしまったけれど。
「別に美森さんの好意を無碍にできなかったってだけではないわよ。――久しぶりに来てみたくもあったから。それが多分一番の理由」
久しぶりに?
「前に何度か来たことがあったんですか?」
「……ええ、子供の頃に家族とね。母は星を見るのが好きだったから、ほとんど毎日のようにあの神社で星を一緒に眺めてた。星座の話とか、星にまつわる豆知識とか、姉さんや私にそれはもう幸せそうに話すのよ。――そして休みの日には、時々こうやってプラネタリウムに家族で来たの。最後に来たのは――もう五年も前のことになるのだけれど」
五年前……
どうして急に来なくなってしまったのか。そんな無粋なことを僕は訊けなかった。
訪れた沈黙は、擬似的に作られた夜の闇へと飲み込まれていく。
頭上には輝く無数の星々。遠いようで近く、近いようで遠いそれらは、まるで自らを誇っているようでもあった。
――偽りだ。
僕は知っている。あれは天井に写された光の明暗に過ぎないのだと。
数億光年先から届いた光なんてロマンチックなものではなく、中央に鎮座する巨大な投影機が描き出した虚像に過ぎない。投影機と天井の間に手をかざせば、瞬く間に消えてしまうような儚い存在。
けれど――何故だろう。
それは本物よりも本物らしく、そしてなによりまばゆく見えた。
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